第8回 プロレスこそが”闘い”となれる可能性をもつ―闘いにおける超越と内在 Part2
■投稿日時:2001年7月26日
■書き手:Drマサ


2 闘いのリアリズムと超越主義

 人は特に青年期に言葉で書かれた(エクリチュール)世界、つまり概念によっ
て構成された世界というものを実感するということがある。それは”普通”に生
きる現実世界とは、異なる世界像によって織りなされている世界である。言葉世
界と現実世界の間には、なにがしか乖離というものがある。この乖離を埋め合わ
せようとするとき、思想や哲学的思索が生み出されると指摘するものがいる。

その時生じる問いとは、「何がほんとうのことなのか」「ほんとうとは何なのか」
ということであるという。これから取り上げる入不二論文は、この「ほんとう」
を巡って考察されていく。



 入不二の考察に従えば、プロレスとはこの「ほんとう」の”実体”をあぶりだ
すモデルとされる。彼自身もプロレスを通してこの問題に、彼固有の生活史の中
で自然と読みとる作業をしていたという。プロレスというジャンルは、プロレス
に深く関与するものなら同意するのではないだろうか、「誰がほんとうに強いの
か」「ほんとうに強いというのはどういうことなのか」「プロレスにおけるほん
とうのこととは何なのか」(P113)
が問われる世界であると指摘する。彼は
これを簡明な形式化によって「リアリティ」の問題と言い換える。

 入不二はトンプソンの「プロレスにおけりリアリティの問題」(当コラム第4
および第5回参照)を批判することから、この問題へと接近する。トンプソン
のプロレス論には限界があるという。ボクシングにおいては、ルールという変形
に対して逆操作を施せば、「基礎フレーム」として喧嘩が浮上するのは説得的で
あるが、プロレスに関しては逆操作を施しても現実的かつ限定的な喧嘩は現れな
いと指摘する。

 そこで重要なのが、プロレスを解くカギ概念となる”暗黙の了解”である。

 プロレスとは、現実の喧嘩との結びつきはなく、我々が観念的な操作を施すこ
とによって構築されるリアリズへの問いを基底とした「現実的な喧嘩を越える想
像的な喧嘩」であるとして、トンプソンのプロレス八百長論では理解し得ない領
域へと飛躍する。

 では、トンプソン批判の具体的な論点を追ってみよう。トンプソンでは、競技
スポーツであるアマチュア・レスリング(以下アマレス)が偽造されることによ
ってプロレスに転化するとされる。そこで暗黙の前提となっているのが、アマレ
スとプロレスの連続性である。しかしながら、アマレスの変形としてプロレスを
定義するのは困難がある。簡単な指摘をしておくならば、ロープに飛ぶこととア
マレスに連続性はないということなどである。

アマレスが八百長化することを隠蔽するとしたならば、表面上あるいは試合の構
成全体からすれば、地味な競技である必要がある。

 では、なぜトンプソンはプロレスがもつアマレスやボクシングと不連続的関係を
重視できなかったのか。それは、プロレスの反則を許容したり、3カウントの伸縮
性などのルールの特異さをルールにおける偽造として理解したところにある。

公認の明文化された書字として存在するルールの近代性への”信仰”が、プロレス
理解のための認識枠組みとして機能したのかもしれない。

 つまり「プロレスを<安定した何か>からの<偏差>(=本物からの逸脱と
してのインチキ)ととらえる方法論自体に限界がある」(P125)
と指摘され
る。そのため、ゴフマン理論の応用における基礎フレームの設定が近代スポーツ
の規範に限定されてしまったのである。

 そこで、入不二はプロレスの基礎フレームの設定において「無限定の喧嘩」を
採用する。各種格闘技が現実のある形態の喧嘩を転形したものとするとき、プロ
レスは現実の喧嘩ではなく、我々の想像力において夢想される「無限定の喧嘩」
の現実化であると定義される。プロレスはその存在様相が異なっているのであ
る。実際、我々が漫画やアニメ、あるいは小説などにおいてこの想像的な「無限
定の喧嘩」を想起することができる。勿論、現実の身体において現実化が志向さ
れるという点は重要である。

 さて「無限定」であるとはいかなることだろうか。それは我々の認識において
達成し得ない非現前的なものとして存在している。「「無限定」は「限定」を否
定する運動・過程としてしか見えてこない何かであり、目の前にはない何かであ
る」(P128)
。つまり、かならず到達し得ない、可能性とされる。よって、現
実の身体において現実化されると我々が認識を施そうとするその間際、それはス
ルリと認識の彼方へと遠ざかる。

 とすれば、現実にパフォーマンスされているプロレスに逆操作を加えて、「無
限定」な想像的な闘いに接近しようとしても、「ほんとうに強いことが常に隠さ
れている」ということが理解される。より正確に記すれば、「ほんとうの闘い」
「ほんとうに強い」ということは、否定的にしか、脱構築の更なる可能性を示唆
するものとしてしか語れない。

 よって、実証主義的な正確さを持って記述できないという特徴を持つ。

 例えば、「ほんとうの闘い」を設定しようとしてノールールを適応しても、
それが真に「ほんとうの闘い」であるとの権利は確保し得ない。

 ひとつの命題にしてみれば、「ほんとうの闘い」はノールールにっよっては
定義しえない何かとして否定的な言説によって語らざるを得ないということにな
る。マウント状態で相手の顔面に雨霰のようにパンチを降らせることが「ほんと
うの闘い」であるとはどうして言えるのだろうか。

「ほんとう」とは何か、あるいは「人間にとって」という哲学が必要になるだろう。

つまり肯定的な言説、確定記述によっては残余を残すことによって、定義する権利
を失効する。「プライドがルールである」とは、「ほんとうの闘い」を志向する上
で、「限定」的であるという現実的な様相と「無限定」的であるという想像的な様
相との間にあるパラドクスを飛躍しようとする”実直”な定義であるといえるだろう。

 このようにプロレスは「無限定な喧嘩」という想像的な領域を否定媒介するこ
とによって成立し、暗黙の了解を前提とする「現実的には不可能な超人的技術・
力」と「現実の喧嘩を越え出てしまう殺伐・命のやりとり」を共存させることに
よって「無限定」の闘いを垣間見せる可能性を有する。

 プロレスは、暗黙の了解を有するがゆえに「プロレスをはみ出すような<力>
と通じ合うことによってのみプロレス足りうるという性格を持つ」(P133)

ここに暗黙の了解がプロレスの創造性の源泉であることが理解される。暗黙の了
解とは「リングという現場で不断に想像され、交換され、確かめ続けられなけれ
ば支えきれないようなひとつの「非在」「空なる根拠」であり、リング上で常に
創造され更新され続けながらも、場合によってはその不在が露呈してしまう何か
である」(P134)


 入不二は、よってトンプソンのプロレス論を素朴なリアリズムであるとして批
判する。単純な「本物」と「偽物」、あるいは「真実」と「パフォーマンス」と
いう二元論が前提とされることによって、「ほんとうの本物」への志向、「自ら
の「これ」の足元に開ける虚無の深淵(=本物への無限の遠さ)から目をそら
す」議論となっているという。

 次に、入不二は骨法の堀辺正史の喧嘩・格闘技・プロレスの三元論からの喧嘩
至上主義を超越主義であるとして批判する。堀辺によれば、格闘技はルールを設
定するという操作を施すという喧嘩の頽落形式であり、同様プロレスは演劇化と
いう操作を施した喧嘩の頽落であるという。この視角からすれば、喧嘩を基準と
することによって、プロレスと格闘技は同様決定的な落差はなく”偽物”=「仮
象」という地位に位置づけられる。

 確かにリアリズム批判という効用はあるとしても、このような超越主義の帰結
は、喧嘩あるいは「決闘」、極論すれば戦争(いくさ)を超越的存在として真実
としての現象としてしまう。

 堀辺によれば、「無制限の決闘」が存在するとされるが、その「決闘」自体が
既に社会的に構築された領域でしかないのである。

そもそも「無制限の決闘」は、想像的な領域に存在するものであり、「究極の殺
し合いをすれば、ほんとうの強さは簡単にわかるじゃないか」と考えるものは
「楽天主義者」として批判されざるを得ない。この立場は「楽天主義者」という
「神」=「仮象」の位置から世界を取り瞰する錯誤である。

 つまり「ほんとう」への哲学が捨象されているのだ。

 また、ルールによって強さは変化するという相対主義は本物の強さなんて存在
しないということを鳥瞰的に知っているという点で、逆説的に「神」=「仮象」
のものであるということから批判される。

 ご意見・御感想等ある方は、下記ボタンで送信していただくか、掲示板にお書き頂ければ幸いです。





本稿の著作権はすべてKANSENKI.NET及び「書き手」に帰属します。

戻る
TOPへ