第7回 プロレスこそが”闘い”となれる可能性をもつ―闘いにおける超越と内在 Part1
■投稿日時:2001年7月19日
■書き手:Drマサ

テクスト:入不二基義「「ほんとうの本物」の問題としてのプロレス―プロレスの哲学的考察―」1992年『大学デビューのための哲学』はるか書房

1 「闘い」という「問い」

 アントニオ猪木が「プロレスとは闘いである」と定義するのは、よく知られた
ところである。しかしながら、「プロレスとは闘いである」とは何事なのだろ
う。

 以前、獣神ライガーが「プロレスが闘いなんて、当たり前ではないか」との
主旨の発言をしていた記憶があるが、では、ライガーに「ほんとう」に闘ってい
るのだろうかと問いを差し挟むとしたら、どのような答えが聞けるだろうか。

 プロレスは様々なスタイルをもち、かつリング内にあたかもそれまでプロレス
と名付け得ないものさえ混在させようとも、そのプロレスではないものさえ吸収
し、プロレスはプロレスであり続ける。このプロレスが自ら既存のプロレスを否
定しながら変転するジャンルであること、まさにこの否定的媒介において自己を
形成する独自の構造をもっている。



 プロレスファン歴の長い者には、今更言うまでもないであろう。アントニオ猪
木のいわゆる過激なプロレスや”伝統的”なプロレスとの差異化をはかり、それ
らのプロレスを”演劇的”であると否定し、格闘性を高めた新しいプロレスのス
タイルを構築しようとした前田日明率いるUWFの運動。あるいは、その格闘性
がもつスポーツライクなスタイルのアンチテーゼとして、まさに”サーカス”
的、あるいは”大衆演劇”的なプロレスを構築した大仁田厚率いるFMW。

このアンチテーゼとは字義通り、既存のプロレススタイルとなったUWFへの否
定として批評されてきた文脈なのである。

 あるいは、この大仁田的な浪花節世界を否定するものと解釈可能な蝶野正洋の
NWOブランドのイメージ戦略。あるいは天龍源一郎のレボリューション等々。

 これらUWFやFMWにおけるプロレスの変化は、プロレス史に明確に刻まれ
る出来事として、ジャンル固有の力学を否定し、ジャンルを更新したが、そのよ
うな否定は常に我々が気付かないところで発生しているのかもしれない。
ここで使用する否定という概念は一般的な意味あいとは異なっているが、徐々に
詳述されることになるだろう。



 いま少しばかり冒険的定義を行い、プロレスラーやその関係者およびファン等
によって構築されている世界をプロレス世界という全体性であるとすれば、それ
ぞれ個人やプロレス団体はどのような存在と考えればよいのだろう。勿論プロレ
ス世界はより広い社会世界との関係性をもち開かれていると考えてもいいし、相
互テクスト的な関係から論理を媒介させる。しかしながらこの相互テクスト的関
係も、これから提示される「到達し得ない可能性」において、メビウスの輪よろ
しく包摂されるものと便宜上しておこう。



 さて哲学上の認識論から、全体と個別の関係に即して記述してみよう。全体性
であるプロレス世界は本性上、個別者であるプロレスラー、プロレスマスコミ、
ファン等々の個人より先立つ。なぜなら、個別者は孤立させられればなんら独立
のものではない。つまり、個別者はあらゆる部分と同様、全体とひとつの統一を
形成しておかなければならない。

 プロレス世界にあり得ぬものは、プロレス世界の住人にはあり得ない。いわゆ
る”プロレス心”や武藤敬二的な”プロレスLOVE”であろうと、それらがプ
ロレスの精神である限り、それは個人の精神であることによって表現せられるこ
とになる。いわゆる”プロレスの神様”が顕現しているのだ。



 既存のプロレスから離脱し、新しいプロレスを構築しようという主体とは、意
識しようがしまいとも、プロレス世界という全体性が個人において、あるいは主
体において己れを表現し、全体性が己れを限定すること、すなわち否定するとこ
ろの存在である。

 よって、個人やあるいは1プロレス団体が標榜するスタイルによって表現され
るシニフィエとは、全体性の否定としてプロレス世界全体の”消極的”表現に依
拠するということになる。様々な場合によって、そのシニフィエは様々なプロレ
スの規範性をそれぞれ構築し、限定的な表現を構造化するだろう。

 そのような意味で”消極的”なのである。しかしながら”積極的”あるいは
普遍的な表現とは、必ず到達し得ないものとして可能性として存在する。逆説的
にいえば、この可能性に支えられることによって、新しいプロレスが構築される
のである。ひとりのプロレスラーであろうと、1プロレス団体であろうと、個別
性は個別者の特殊性において実体化するように見えながらも、真に固定され抽象
的な実在となるのではなく、普遍的シニフィエとなる可能性をもってして、消極
的に全体性を表現する。

 これはひとつのパラドクスであり、倫理の成立といっていい。個別のシニフィ
エが、普遍的シニフィエではない形式において、普遍的シニフィエを表している
のである。端的に表現しよう。1プロレスラー、ある試合、ある特定団体など様
々な個別とは、具体的次元において表れるプロレスの可能性の顕現なのである。



 しかしながら、その可能性の顕現には余剰が残る。その余剰が、必ず到達し得
ない可能性である。プロレスについていかなる定義を与えようとも、この余剰と
いう可能性の審級によって宙づりにされ、それは問いを問いとして示すことにな
る。このような問いは、まさに哲学上の問題でもある。様々な哲学をいまここで
扱うわけにはいかないが、ひとつだけ事例としてウィトゲンシュタインの哲学を
本当に粗くだが素描しておこう。



 ウィトゲンシュタインは論理実証主義について考察する。我々が生きる事象の
総体を世界というが、全事象にはそれぞれ対応する論理があり、我々は思考の対
象として論理を命題として取り出す。つまり、全事象は命題とされる。

 昨今のシステム科学の発展からするならば、これら命題群とはプログラムとい
えばいいだろう。

 しかしながらこの命題によって世界が表現されるや否や、この命題の論理
形式は表現できないことを知らされる。論理形式の叙述にとって必要となるのは
論理の外側に立つことである。しかし、それは端的なパラドクスである。とすれ
ば、論理によって思考する人間と論理によって支えられている世界は、思考不可
能なものによって乗り越えられている。ウィトゲンシュタインは思考不可能なも
のに、世界つまり論理の限界地点を乗り越えたものに対して論理形式と命名して
いるといえるだろう。しかしそれは、具体的な我々の思考において論理化しえな
いゆえに思考の対象とはならない。

 よってウィトゲンシュタインの有名な言葉が生み出される。「語り得ぬものに
ついては沈黙しなければならない」と。我々はこの論理によって命題の真偽を判
断することを許されているが、なぜその命題が存在するのかは知り得ないのである。



 では、「プロレスとは闘いである」との命題とは何であるのか。その語り得ぬ
ものとは、到達し得ない可能性とは?この必ず到達し得ない可能性に関する考察
として、入不二論文を要約ししつつ、解説していくことにする。

 先んじて解答を与えておけば、ウィトゲンシュタインのいう論理形式が「闘い
」であり、「ほんとうの本物の闘い」とは到達し得ない可能性なのである。この
可能性としての闘いに支えられることによって、現実的に観照可能な具体的なリ
ング上のパフォーマンス=身体所作が生成するのである。つまり、我々は出発点
において「闘いとは何であるのか」という問いの前に立っている。

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