第5回「過激なプロレス」のリアリズム
■投稿日時:2001年4月19日
■書き手:Drマサ

テクスト:桂秀実「プロレスの詩と真実」『ユリイカ』1984年9月号、青土社 P218〜227

1 フレーム化と多元的現実

 前回のコラムにおいて取り上げたトンプソン論文では、プロレスを分析する基
礎概念=フレームとして「喧嘩」を設定することからプロレスの”本来”の魅力
が分析された。しかしながら、この基礎概念の設定自体が恣意的性格をもってい
るという事からトンプソンの分析がプロレスの”本来”の魅力の一部を構成する
としても、全てではないということを示唆しておいた。

 そこで「遊び」というフレームを設定しうる可能性について言及したが、「遊び」
というフレームは文化それ自体を表すほどのグランドセオリーにさえなる視角で
あって(ホイジンガ)、より分析的な作業にはいるためには「遊び」を’微分’
した分析的概念を設定する必要があるかもしれない。あるいは、「遊び」の内実
を定義した上で議論する必要があるだろう。

 またこの基礎概念としての「喧嘩」が変形されることによってプロレスは構成
されるという視点が採用されていた。よってトンプソン論はプロレス八百長論、
あるいは「プロレス=演劇」論を構成するものとして解釈されていた。

 しかしながら、プロレスファンというオーディエンスがプロレスを観る観点へ
とその分析対象を移動させる時、つまりオーディエンス論を問題とする時、プロ
レスという文化的構築物のもつ多元的性格を問題視しなければならない。「プロ
レス=演劇」論というのは、この多元性のひとつの限定的表れといっていい。

 またプロレスがボクシング同様、スポーツとして提示され、そう理解されてい
るとすれば、それもまた多元性のひとつの限定的表れなのである。トンプソン自
身も示唆しているのだが、「プロレス=演劇」とするファン層が存在することは
いうまでもない。しかし繰り返しになるが、プロレスとはいかなるものかという
問いを一端括弧にいれ、オーディエンスのプロレス読解の次元を問題視すれば、
このプロレスの多元性をより意識化しておく必要があるだろう。

 バルトのテクスト論によって理論化されたように、テクストとは読み手=オー
ディエンス内部における連続的な契機において加工され、恒常的な生成の過程に
ある織物なのである。まさにプロレスはこのようなテクストとして存在している。
このテクストを理解するために、その起点としてスポーツとして理解しようが演
劇として理解しようが恣意的に決定されることであり、時間的かつ空間的にも変
動可能なものなのである。

 仮に「プロレス=スポーツ」という図式が誤りであるという証拠がいくら提示
されようとも、「プロレス=スポーツ」論に読解の悦びを見いだすことは可能で
ある。それは、それぞれのオーディエンスの社会的経験やファンとしての経験と
の関数として、つまり多元性の限定的な表れとして見いだされるものなのである。

 特にプロレスはその歴史的展開の中で、スポーツであることと非スポーツであ
ることの境界に位置づけられる特異なジャンルとして発展してきたという経緯が
ある。現代のスポーツのあり方が普遍的なあり方ではないことは確かなことだ
が、そのような文脈において近代スポーツの特色として世俗化、合理化、数量
化、記録の追求(過剰な競技化)があげられる。

 このような分析枠組みから見たとき、プロレスはどのような位置づけが出来る
だろうか。この問題は「近代スポーツとは何か」という問題に対して、逆説的に
スポーツの本質を考察させる契機となるはずである(この問題に関しては、改め
て論じるつもりでいる)。

 このようにプロレスというテクストは、その理解を構築するためのフレームが
多元的であるがゆえにその読解が知的なものとして、つまり論争的なテクストで
あるといえる。このフレームの多元性が要件となるオーディエンスにとって、プ
ロレスというテクストは矛盾をはらんでおり、オーディエンスはその矛盾を利用
して自分なりの解釈を行うための創造性が要求される。

 逆にこの読解の矛盾に気付かないものにとって、プロレスのユニークネスは見
落とされてしまうがゆえに軽視されてしまう。またこの矛盾は、状況に応じてそ
の解釈フレームを変容させるという操作性を持っているがゆえに、解釈的=意味
論的次元における豊穣さを保存している。

 最もコアでプロレスの知識に豊かなファンであっても、プロレスの定義付けを
固定化してしまってはこの豊穣さを見失ってしまうことさえあるだろう。プロレ
スというテクストは一筋縄ではいかないのである。

 通常ポピュラーカルチャーのテクストは単純でわかりやすい。そのためオーデ
ィエンスはそれぞれの社会的経験を投影しやすくなり、理論的には読解の多元性
は社会的属性の関数として見いだされるとされる。

 勿論プロレスにも同様の側面を見いだしうる。おそらくそれぞれのお気に入り
の団体や選手の決定過程に人々の社会的経験の投影、趣向の反映が存在するだろ
う。しかしながら、プロレスというテクストはこれまで見てきたように実はより
知的熟練、あるいは洗練が要求されるテクストである。

 これも人々の社会的経験や趣向を反映しているという側面を持っているととも
に、プロレスというジャンルに接し、それを自らの社会的経験へと昇華させると
いうジャンル特有の知的経験をも重視しなければならない。しかもそのような熟
練、洗練さえもプロレスを”真”に捉えているかどうかという解答を得ることは
出来ない。

 さらにこのように知的快楽を持っていながらも、プロレスというテクストは身
体や感覚にも直接的な関与をするという特性を持っているがゆえに、身体的快楽
をも分析の視野におかなければならない。

当コラム第3回においてあつかったフィスクのカーニバル論がそれに当たる。つ
まり身体的快楽はカーニバル的であり、社会的統制をすり抜け、開放的な実践へ
と人々を誘う社会的貯蔵庫なのである。


 さてもう一度、トンプソン論文が援用したゴフマン理論に戻ろう。ゴフマンが
構築する状況的パースペクティブでは、ある社会的状況とはそれ自身ひとつのリ
アリティを機制し、メディアを介した共在にまで拡張することの出来るものであ
る。つまり「今進行しているのはプロレスである」と定義されうる社会的状況の
もと、ある相互作用を行っていく過程としてプロレスは捉えられる。

「これはプロレスである」という状況とは、状況への参加者が自発的に創造する
定義によって生成される、非常に恣意的で変動性の高いものなのである。プロレ
スの場合、参加者とは興行主側、各メディア、”階層化”されたファン等によっ
て構成されているが、それぞれの次元においてプロレスを「創造する定義」に差
異が生じるのは想像に難くない。これが先に述べた「演劇として」「スポーツと
して」「格闘技として」「芸能として」等などのフレームとして見いだされる。

 このゴフマン理論は、グレゴリー・ベイトソンの「遊びとファンタジーの理
論」に依ったものである。ベイトソンは動物園で互いに闘うだけでなく、闘いを
遊んでいると見られるカワウソを分析している。カワウソは噛みついているので
はなく、「噛みっこ」をしているのであるが、「噛む」という行為のメタ・コミ
ュニカティブレベルで「これは遊びである」という「遊びのフレーム」を設定し
合うという状況を構築しているのである。

この時、「噛む」が基礎フレームであり、その変形として「噛む」ことが遊びに
なるのである。重要なのはこの基礎フレームが、同定可能なそれらの基礎的な要
素に言及するための操作概念であるということである。カワウソは「遊びのフレ
ーム」によって、カワウソ相互のその状況的関与のあり方を組織化されているの
である。

 さてこのように設定された基礎フレームは、変形/転調を重ねることによっ
て、フレームが解消され、新しいフレームが生成されるという動態的構造を持っ
ている。つまりフレームは常に新しい社会的状況によって新しいフレームを構築
し続けていくのである。ゴフマンは、このようなフレームのあり方を「リ・フレ
イミング」と呼んで、フレイムが多元化していく構造において、世界の多元的現
実の様を見て取る。

 カワウソの「噛みっこ」の事例は、そのままプロレスにあたかも応用可能なよ
うに思われる。基礎フレームをアントニオ猪木の「プロレスとは闘いである」と
いう主張にならい「闘い」に設定してみると、つまりプロレスは「闘い」ではな
く「遊び」をフレームとした「闘いごっこ」をしているということになるだろ
う。つまりこのような次元におけるフレームの決定が「プロレス=演劇論」や
「プロレス=八百長論」を生み出すことになる(あくまでゴフマンのフレーム分
析=状況論的パースペクティブからの知見として)。

しかしながら、これは多元的現実におけるひとつの表れに他ならない。基礎フレ
ームに「闘い」を設定した場合、この多元的現実のある層において、「闘い」は
回帰する可能性を持っている。

いわゆるプロレスにおける”シュート”はその典型である。つまり「噛みっこ」
が本気の喧嘩へとシフトする事態であり、ゴフマンはこのようなフレームの
変形を ”downkeying”と名付けている。しかも何が「闘い」であるのかという
定義は、我々が持つリアリティによって決定されるがゆえに、その本質を掴むた
めには困難が待ち受けている。つまり「闘い」が持つイメージの問題である。

90年代全日本プロレスで行われた一連の三冠戦のその過剰さに「闘い」を見い
だす者もいれば、その趣向によって、そうではない者もいるという事実をその一
例としてあげておこう。

  一連の三冠戦が、いわゆる”シュート”であったか否かということと「闘い」
のリアリズムには、ある種の断絶が存在するのである。

 同様に、競技としての格闘技が常識として「闘い」であっても、「闘い」のリ
アリズムにそのまま合致できるとは限らないのである。「真剣勝負はつまらない」
という言説とは、一部このリアリズムとの関わり合いによって生み出されるので
ある。

 このような観点からするならば、「プロレスとは闘いである」とは、「闘い」
という概念が持つ社会的に決定されるリアリズムと、「闘いとは何か」という超
越論的な問いとの相克にある思想といえるだろう。


2 「過激なプロレス」のリアリズム

 このリアリズムに関わるテクストとして「プロレスの詩と真実」を取り上げて
みよう。このテクストでは、あの80年代半ばの「過激なプロレス」というアン
トニオ猪木のパフォーマティブな次元を演劇論的に解釈する中で、「過激なプロ
レス」というキャッチフレーズが無効化する地点へと向かう。

 その無効化の原動力が、リアリズムの社会構築的性格による。リアリズムは時
間的・空間的に変容するが、「過激なプロレス」は既存のプロレスのリアリティ
を乗り越えることで評価を受けてきた。そして今このテクストにおいて「過激な
プロレス」のリアリズムは、プロレスの真実が暴露されることによって乗り越え
られようとしているとされる。そしてそれは演劇論によっては解き得ない知的モ
デルの要求へと向かう。

 まずプロレスラーの身体が持つ記号性に着目しながら、「プロレスは規範的真
実を逸脱した肉体による「度を越えた」演技によって支えられていた。しかし、
このような虚偽の存在を一方の項にしながらも、プロレスのドラマは慨ね規範的
真実の勝利という物語を辿る」(P219)
という。

 この指摘がバルトのプロレス論と重なることはいうまでもない。「虚偽の存在」
とは、ヒールに代表されるフリークスなレスラーの身体性に依る。このテクスト
ではスタン・ハンセンやアンドレ・ザ・ジャイアントがその例としてあげられて
いるが、いかに強くとも正統的なチャンピオンにはなれないと主張される。

 正統的なチャンピオンになれるのは、決して規範から逸脱しない真実としての
オーセンティックなレスラー、”現代プロレスの確立者”ドリー・ファンク・ジ
ュニア、”鉄人”ルー・テーズなどであると解釈される。

 道徳的なドラマが展開されるプロレスにおいて、オーディエンスはこのフリー
クスを悦びとしながらも、このオーセンティックなレスラーの勝利に終結するこ
とによって、虚偽と真実の階層性を回復する「規範的真実の勝利」「道徳の勝利」
となる。

 しかしながら猪木による「過激なプロレス」とは、この「虚偽と真実の階層性
の回復」という認識モデルに対して乗り越えへと向かう。いわゆる村松の言う
「虚実皮膜の世界」の中に真実を見いだそうとする志向とはこのことである。

「猪木の戦略的な独創は、虚偽と真実の闘いとしてのプロレスにおいて、真実の
審級をもう一段あげて見せたところにある。あるいは、猪木はプロレスにおける
道徳性をより強固にしたといえようか。猪木にとって、「虚実」の「実」とは真
実の「実」ではなく、「現実」のことなのであった」(P219)。

 つまり、猪木の異種格闘技戦やIWGP構想、ジャイアント馬場への執拗な挑
戦表明とは、プロレスが依拠する「虚偽―真実」という二項関係に攻撃を加える
ことによって「虚偽―現実―真実」という三項関係を構築する。この三項関係の
構築の成功によって、それまで真実であった道徳的規範を現実へと格下げして、
自ら真実として君臨するというものであったという。

 換言すれば、既存のプロレスにおけるリアリズムに裂け目をいれることによっ
て、社会や時代に先行する新たなリアリズムを構築した。その際この新たなリア
リズムは、プロレス村におけるリアリズムとプロレス外部におけるリアリズムが
錯綜するところで生成される。

 リアリズムとは、シニフィエ=意味内容にのみ限定されるものではなく、シニ
フィアン=形式からも規定されるという性格を持つ。そのためプロレスのような
大衆文化におけるリアリズムの本質は、容易に理解可能な形式の中でリアリティ
を生産する。つまり、無徴としてのオーセンティックなレスラーの規範的身体性
と有徴としてのフリークスなレスラーの逸脱的身体性が、この形式におけるリア
リズム理解につながるのである。

 いわゆる80年代盛んであった一般的な演劇論的視角からの王権=スケープゴ
ート論では、有徴の存在が真実を逸脱するがゆえにその超越性を保つのであるが、
プロレスにおいてはそのまま適応することが出来ない。無徴であるオーセンティ
ックなレスラーがチャンピオン=王権を保持しながらも、観客の悦びを触発する
”美学的”チャンピオン=王権は有徴のフリークスなレスラー(ブルーザー・ブ
ロディがその代表だろう)の逸脱性にある。

「一見スケープゴート風の詩学風の演劇モデルに換言しうるようでいて、実はそ
れとは全く異質な統辞法によって貫かれる」(P220)
のがプロレスなのであ
るという。通常リアリズムの約束事は、バルトの神話作用におけるイデオロギー
批判が示すように、「現実」の社会構成的性格を隠蔽し、その現実の上にさらに
イデオロギーの恣意性を隠蔽し、”自然”として振る舞う。しかしながら、プロ
レスのリアリズム構築上の構造=モデルは異なっているがゆえに、「虚偽で規範
を逸脱した有徴のレスラーの方が、真実よりも魅力的である」(P220)
とい
うその芸術形式のユニークネスを誇ることが出来るのである。
 しかしながらこの「過激なプロレス」は常識的な次元において、「真実を愛す
るもの」によってその虚偽性を暴露される。現実を越えた真実は、常に具体的な
現実からの復讐を受け、その真実を虚偽であるとして暴露される運命にある。

「プロレスの詩の真実」ではその暴露の具体例として、「真実を愛するもの」=
ユセフ・トルコによるウイリー・ウイリアムス戦の八百長暴露(それはあたかも
実証主義的装いをしているかのようだ)というエピソードが紹介される(ユセ
フ・トルコ著『こんなプロレス知ってるかい』参照)。

 「現実」という規範を格下げし、その「真実」の審級を高次化した猪木という
トリックスターはトリックスターであるがゆえ、「トリックが暴露され、現実の
本当の姿はこうだと示されたとき、真実へと飛翔しようとする者は、たちまち失
墜してしまわざるを得ない」(P223)という。この地点に至るとき、かつて
の板坂剛や鈴木邦夫のプロレス論に見られた「過激なプロレス」の無効化を想起
せざるをえない。

 しかしながら、リアリズムがいわゆる現実的な出来事であってもファンタジー
であっても、その両者において存在するのはいうまでもない。逆説的に表現する
ならば、現実とファンタジーを架橋するものとしてリアリズムが存在するのであ
る。「真実を愛するもの」という審級が、決してそれ自体リアリズムではないが
ゆえに「過激なプロレス」のリアリズムは完全な崩壊を見せることはないし、そ
のプロレスの社会的状況において変転していくものである。

 アントニオ猪木のいわゆる「過激なプロレス」とは、プロレスにおける無徴の
正当性と有徴の”美学”をその一人の強力なキャラクター=身体性に共存させる
ことによって、プロレスのリアリズムにおけるダイナミズムを凝縮化させること
にに成功したということになるのではないだろうか。猪木の有徴性の起点となる
のが、タイガー・ジェット・シンとの一連の抗争であり、異種格闘技戦、そし
て”キラー猪木”と名付けられるものへとつながる。

 猪木はよって規範的身体性を持っているにも関わらず、その意味作用の高次化
によって有徴な身体性とそれに付随する過剰な意味=シニフィエをも獲得してし
まった。勿論あらゆるレスラーにもこの二元性は存在しているが、猪木において
そのダイナミズムは前景化した。よって、アントニオ猪木にとって規範的世界は、
至極魅力を欠く世界として見いだされる。


3 演劇的パースペクティブからからの離脱 
 
 テクスト「プロレスの詩と真実」においても触れられているのだが、ユセフ・
トルコによる暴露自体がプロレス内出来事という性格を持っているがゆえに「真
実」に虚偽性がまとわりついている。そこにいわゆるプロレス的”いかがわし
さ”があるとされている。先に述べた規範的身体とフリークスな逸脱的身体との
構図化は、「真実」の問題、現実とファンタジー=虚偽性という二元論的理解の
構図化とパラレルなのである。

 通常リアリズムとは、記号や表象、あるいは物に対して身体的かつ心理的に獲
得される知覚によって認識されるものだが、支配的イデオロギーの価値に対して
も忠実なのである。いわゆるこの二元論的構図による理解は、このリアリズムに
与するものであるし、この二元論的構図の”揺れ”や乗り越えはこのリアリズム
を起点としてこのリアリズムが”揺れる”ことなのである。

 先の二項関係が猪木のプロレスによって三項関係に変容するという視角は、こ
のリアリズムの”揺れ”の変装と考えていい。猪木プロレスに対する八百長暴露
によるその真実の虚偽性を看取し、「そこに真実がない」と嘆く者とはそのよう
なリアリズムに与する者であるということになり、支配的イデオロギーに与して
いるのかも知れない。

 逆に、”揺れ”を看取したものであっても、社会構築的なリアリズムを起点と
するがゆえに、翻って支配的イデオロギーに与するものもいる。

 さて、これまで述べてきた「虚偽―真実」の二項関係から「虚偽―現実―真実」
という三項関係への置き換えによる真実の審級が高まるという分析的理論は、現
在のプロレスにも応用可能である。

 簡単に触れておこう。リアリズム構築に関わる問題であるこの理論は、現在ロ
レスのリアリティが希薄化しているという認識と、猪木プロデュースによるプラ
イド=総合格闘技とプロレスの接合の実践=実験に関わる。

 現在のプロレスはプライドを中心とした総合格闘技の台頭によって、「闘い」
のリアリズムを喪失しかけているとの認識がなされているといっていい。それは、
プロレス最強神話の崩壊や先日の「1・4=長州対橋本」の不透明決着へのファ
ンの反応が物語っている。「長州対橋本」は総合格闘技での顔面への打撃などが
持つリアリティに比較した時、まさに”茶番”に見えるものだった。

 つまりプロレスのリアリティは総合格闘技やK1に劣っているとされる時、プ
ロレスという「虚偽―現実」的構築物は、「真実」を表象する総合格闘技によっ
ていかにも魅力を欠いた現実へとその審級が格下げされてしまう。勿論全てのプ
ロレスがそうであるわけではない。

 しかしプロレスに「闘い」を見ようとするなら、プロレスはありふれた現実的
エンターテイメントに過ぎないとされる可能性がある。そこで猪木プロデュース
とは、その総合格闘技における「真実」性である高次の審級をプロレスに加味す
ることによって、そのリアリズムを時代と適合したものにしようとする戦略と考
えられるのではないだろうか。

 あくまでプロレスという「虚実皮膜の世界」の「実」の審級をあげることによ
って、エンターテイメントとしての豊穣を目指すということだろう。

 では、この「過激なプロレス」の”無効化”以後は、どのような観点から説明
されるだろうか。「プロレスの詩と真実」においては、その観点は見いだされて
はいない。ただ「メタ演劇的知」としてのみ語られ、その具体的記述はない。よ
ってスケープゴート論や演劇モデルとは異なった論理を見いだす必要がある。

 おそらくそれが「パフォーマンスの理論」ということになるのだろう。この理
論を素描することによって、今回のコラムの終わりに代えることにする。

 パフォーマンスは演劇や舞踏との連続性と非連続性を持っている。その意味の
源泉は我々の社会的生活にありながらも、慣習的な生活とのあり方とは異なって
いる。そのためこれまで述べてきたリアリズに関わる視角は有効である。慣習的
な生活との距離感はそのファンタジー性の源泉となる。

 さてパフォーマンスとはその呈示的性格にその特徴がある。ただ単に呈示する
ことによってパフォーマンスになるのではなく、記号としての振る舞いを獲得す
ることによってパフォーマンスとなるのである。そのためパフォーマーは観察者
としても振る舞わなければならない。パフォーマーはパフォーマンスの送り手で
ありかつ受け手でもある。

 この時受け手であるという性格は、オーディエンスの反応を自己に内在化させ
るという身体と意識の弁証法的関係にある。このようなパフォーマー像がすぐれ
たプロレスラー像と一致するのはいうまでもない。それは単にリング上で瞬間的
にその身振りを決定するだけではなく、その時代性や地域性というコンテクスト
によって自ら創造するプロレス像をも決定していかなければならない。

 つまりプロレスのいわゆる話題づくりから、要求されるプロレスのスタイルま
でをもプロデュースする能力が要求される。

 本来パフォーマンスそれ自体は物語性が薄い。それは逆説的にパフォーマンス
の主題決定の複合性や潜在性を意味することになり、自由な表現形式の選択性を
持っていることになる。プロレスにこのパフォーマンス理論を援用すれば、様々
なプロレスのスタイルの存在に納得がいくはずである。

 様々なスタイルによって、「演劇として」「スポーツとして」「格闘技として」
「芸能として」という解釈のフレームを生み出すのも必然である。勿論「パフォ
ーマンスとして」というフレームも生み出されるだろう。またこのフレームが交
差することによって、ダイナミズムを生み出したり、”しょっぱい”試合を生み
出しもする。すぐれたプロレスラーであるなら、つまり意識的な「能動的受け手」
であるなら、飛び抜けて自由かつ多様なスタイルの芸術形式を生み出すだろう。

 プロレスにおける”プロ”とはパフォーマンスにおけるオーディエンスとの相
互作用を意識化している者ということが言えるだろう。能動的な芸術家でありな
がら、社会的規範や慣習を素材としなければならないという矛盾した関係性を止
揚する者、そこにすぐれた”プロ”がいることはオーディエンスの悦びである。
(第5回完)

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