第9回 プロレスこそが”闘い”となれる可能性をもつ―闘いにおける超越と内在 Part3
■投稿日時:2001年8月2日
■書き手:Drマサ


3 ドーナツの穴をめぐる闘い

 ところで、ドーナツの穴はあると言えるのだろうか、それともないと言えるの
だろうか。

勿論ひとつのメタファーであるが、真ん中に穴の空いているドーナツが、穴あき
ドーナツたる保証は、ドーナツの真ん中の空洞=穴にある。

この穴は単に無いということではなく、その無いという形式によってありありと
存在する。この無いということによってありありと存在する穴が、プロレスにお
ける「ほんとうの本物の闘い」といういまだ届き得ない可能性として見いだされ
たものである。

実はこの問題は哲学にとって、かなり主要な問題として扱われてきた
「形式化」の問題に対応している。固有名や言語、主体、真理、神あるいは貨幣
などの哲学上の主要概念は「形式化の諸問題」、あるいは「超越と内在」として
見いだすことができる。我々はこれら主要概念の地位に「闘い」を設定しようと
しているわけである。


 ここで柄谷(『マルクスその可能性の中心』1990)の「形式化の自壊」の
運動に関する議論を参照することによって、いま我々が取り扱っているプロレス
における”ドーナツの穴”論が、超越主義や相対主義の脱構築として同型の議論
であることを概観しておこう。

 まずひとつは「イデア、実体、概念本質といったカテゴリーを、それこそ実体
であると考える」思考形式が超越主義。

ふたつ目には差異の体系によって生じる関係を中心とする思考形式が、至極おお
ざっぱに名付けてポストモダン思想。
 このふたつめの思考形式が、観察する主体を逆説的に鳥瞰的地位に押し上げる
ところに、相対主義が生じる。

 ポストモダン思想とは、超越論的に実体として存在していると信じられている
諸形式、つまり概念、物、柄谷の議論では貨幣が貨幣の関係のネットワークの中
心的地位を超越論的に、つまり形而上学的神の位置から規定しているという信念
体系が転倒であると主張するものである。

 通俗的なポストモダン思想では、この超越論的視座の転倒の思考過程における
関係を”実体化”することによって、実体それ自体は否定され、”戯れ”は逆説
的に神となる。これは実体の単なる否定であり、かつ錯誤であるといわねばなら
ない。実体と関係はどちらかが先ということではない、相互的な関係として言語
のアポリア上において生み出されている。

では超越主義と通俗的ポストモダンの変装である相対主義は、いかに乗り越えら
れるのだろうか。

 柄谷は
「貨幣を否定すること、神を否定すること、それはまだ何ものでもない。それら
は、貨幣を各商品に、神を各個人に内在させることに他ならない。また自覚しよ
うとしまいと、ひとはそうしているのだ」(柄谷、1990、P49)
と指摘
し、超越主義や相対主義という思想両者の脱構築を試みようとする。

 ここで入不二の議論に立ち返ろう。柄谷において見いだされる脱構築のひとつ
の可能性としての思想が”ドーナツの穴”論である。このドーナツの穴は命名に
よる実体化を回避する必要があり、例えばデリダはメタファーとして「幽霊」を
置く。「無いという形でいきいきと在る」もののメタファーである。



 一方、私は、自らを神の位置に置くことも、「神は存在しない」と断言するこ
ともしない。プロレスという「この世」の内にこそ、「あの世=ドーナツの穴
=神」との交信が 埋め込まれていると考えるからである。「神」は別のところ
にいるのではなく、<ここ>に宿っているのである。しかも、無いという形で
いきいきと。

 プロレスとは「ほんとうの本物の強さ」を「虚の神=ドーナツの穴」としてあ
らしめ、かつそれを「不可視の 根拠」として己を支えるドーナツ型の行為である。
あるいは、「いまだ無いものとして のほんとうの本物の強さ」と「プロレス行
為」とは、互いを他に呼吸しあう運動体である。(P149〜150)


 入不二は、このようなドーナツの穴に与しうるプロレス行為の具体的な仕掛け
が暗黙の了解であると指摘する。

 よって暗黙の了解とは、密室における取り決めのような言語化可能なコミュニ
ケーション・メディアをもたない。ブックあるいは試合の中でのアングルは、言
語化可能であるということから暗黙の了解ではない。逆説的にいえば、ブックや
アングルがプロレスの本質かのような振る舞いを見せるならば、我々の議論に則
る限り、ドーナツの穴において”闘いの神”と交信可能であるまさにプロレスの
実質=美学の喪失であるだろう。

 入不二は、暗黙の了解が言語化不可能であることから、「常に事後的に「成立
していたはずだ」としか言えない危ういものである」と指摘するが、この身体に
依拠したコミュニケーションはそれでもやはり社会学的蓋然性をもってして、事
前に成立しているとも言える。

 つまり、道場や実際の試合を学習過程とすることによって、暗黙の了解に則っ
た技と力のコミュニケーションの繰り返しがスタイルを構造化する。つまり日本
的な表現をしてみるならば、”間柄”が成立しているわけだ。間柄の表現とする
ならば、会話など言語のみでなく、身振りや動作の場合であっても、その間柄が
既に先立って与えられている。プロレスであるならば、プロレスの社会的コンテ
クストが、その間柄の性格を決定する側面を持つ。

よって、技というコミュニケーションの道具を媒介にした表現は、その表現によ
って初めて成立するというより、間柄の客観化として事前にあるといえる。

 言い換えれば、間柄においてコミュニケーションの連関的行為としてわかって
いることが、表現に置いて客観として立ち上がるのである。このような間柄が、
社会的に構築されるのではなく、自然法則的に、あるいは本能として組み込まれ
ているときには、コミュニケーションの崩壊の可能性は見いだせない。動物のコ
ミュニケーションがそれである。

 しかし、人間のそれは自然法則に依存しない故、蓋然性という限界を持ってい
る。逆説的に、この蓋然性がコミュニケーション崩壊の可能性を残余として、デ
ィスコミュニケーションが「亡霊のようにつきまとっている」のである。

 亡霊が実際に現出すれば、暗黙の了解が破られたとして「プロレス道に劣る」
と非難される。よって、このディスコミュニケーションの可能性の呼び込みと封
じ込めとして暗黙の了解は存在する。

この亡霊=ドーナツの穴によって、ディスコミュニケーションという暗黙の了解
の崩壊の可能性と、事後的に確認可能な暗黙の了解の成立が同時に招き寄せられ
ているのである。

 プロレスにおける「殴り合い」というコミュニケーションを例にとっても、
「馴れ合いでも殺し合いでもない「表現」として成立した後で初めて、暗黙の了
解によってプロレスが成立していた、と事後的にいいうるのである」(P153)

殴り合いがエスカレートすることによって、暗黙の了解の崩壊の可能性が忍び込
んでくるのである。またその忍び込みの可能性を垣間み得ることが、観衆の悦び
へと接続されるのはいうまでもない。ただ、暗黙の了解の崩壊が顕になるとき、
それが観衆の悦びとなるかどうかは疑わしい。

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