第4回 力道山:神話崩しとしてのプロレス経験─揺れるフレームの悦びと欺瞞
■投稿日時:2001年3月8日
■書き手:Drマサ

テクスト:リー・オースティン・トンプソン「プロレスのフレーム分析」1986年(叢書 社会と社会学3)
『身体の政治技術』栗原彬他、新評論

(岡村正史編、1991年『日本プロレス学宣言』現代書館にて所収)
(『別冊宝島176 わかりたいあなたのための社会学・入門』1993年宝島社に要約所収)

1 メタ・スポーツとしてのプロレス(当コラム第2・3回参照)

 プロレスにおける記号は、当然のことだが言語ではなくて、レスラーの身体と
それらによる相互作用の身体動作である。通常言語という記号では、シニフィア
ンとシニフィエの関係は一対一の不可分離性を保っている。厳密に記号の恣意的
性格を理論的に、あるいは演繹的に適応すれば、その不可分離性は崩れるかもし
れない。

 しかし日常生活においては、この不可分離性のおかげでコミュニケーションは
不和を生じないで済んでいる。つまり言語(特に単語レベルにおいて)とは、デ
ジタル記号’として成立している。ところがプロレスのような身体によるコミュ
ニケーションや映像による意味の確定は、コンテクストに多く依存しなければな
らず、意味の確定は相対的なものとならざるを得ない。またコミュニケーション
の受け手が持つコンテクストにも影響を受けざるを得ない。しかしながらバルト
が指摘するように、レスラーは徹底的な身振りの誇張によって、唯一の意味を瞬
間的な映像のうちに確定する。

 つまり意味の確定が恣意的であるコミュニケーションが、誇張の身振りによっ
てデジタルな表象を可能にする。映像などにおけるシニフィアンとシニフィエの
一対一対応という不可分離性の揺らぎが、不可分離性へと回帰する。多木浩二は、
プロレスが最も記号論的なスポーツであるとして、次のように言う。

 記号論モデルとしてスポーツを考えてくると、プロレスは実に興味深い。すべ
てのスポーツの中でプロレスのゲームのみが修辞学的に「現実の模倣」をめざし
ている。つまりあたかもどちらかの死に至る闘争であるかのような展開をする。
プロレスをやるには それなりに超人的な肉体的条件は必要である。その肉体の
衝突によって遊戯としてのスポーツの限界を超えるように見えることが必要なの
である。

 その時、この格闘は、あらゆるスポーツが偶然にとみながら、全力を注いで目
指している勝敗を脱意味化し、スポーツが洗い流してきた暴力を復活するように
見えるパフォーマンスとしてゲームをプログラミング化する。このプログラミン
グがコードに他ならないのである。プロレスは、現実に近づくように見えれば見
えるほど、勝敗を無化してスポーツの概念を反転し、相対化するメタ・スポーツ
になっていくのである。(多木[1995]P118)

 多木の主張は、バルトと重複する視点を持ちながらも、適応させる認知枠組み
の概念が異なるためそのプロレス観には微妙な差異がある。その認知枠組みとは、
バルトでは演劇であり、多木ではスポーツである。ここではその’微妙な差異’
を問題視せず、多木が「現実の模倣」と表現した論理に注目したい。

 また、プロレスラーを記号論的に解釈することには面白味がないという指摘も
ある。それはレスラーのタイプによる表象が、結局ステレオタイプ化された表象、
つまりデジタルな表象であるからという指摘もある。多木によれば、通常スポー
ツを記号論的に解釈するということは、修辞学を展開することになり、アナログ
的多様な展開がなされ、結果は勝敗というデジタルな終局となる。

 展開においてさえもデジタルな表象となるプロレスにおいては、「現実の模倣」、
ステレオタイプ的表象としての認識こそは、シニフィアンとシニフィエの回帰す
る関係に関与するものなのである。シニフィアンが誇張の身振りとなることによ
って、可能性として多様な意味世界が一元化され、デジタルな表象を生成させる。
「現実」であっても「現実の模倣」であっても、シニフィエという意味の次元に
おいて両者は変化しないしかし、シニフィアンの次元においては徹底的に異なる
性格をしている。シニフィアンは変形するが、シニフィエは表象の透明性を主張
する模倣理論の上に螺旋して舞い戻る。

 多木の議論を援用すれば、このシニフィアンとシニフィエの結合した二次的な
意味作用の次元を基底にして、もうひとつ異なる次元での意味作用が生成してい
るということになる。それが’メタ・スポーツ’という表現であり、’メタ神話
作用’とでも言えばよいであろうか。つまりこのメタ機能を持つものがカーニバ
ルという概念によって包摂可能なのであり、その生成の原理がシニフィアンの誇
張の身振りである。

 シニフィエとシニフィアンが結合したものが記号である。繰り返しになるが、
その記号をシニフィアンとして新たな意味作用が生じて神話となる。理論的には
その神話もまたシニフィアンと化し、新しい意味作用が生じる。理論的には、こ
の意味作用の階梯は二次、三次、四次…と上ることが可能である。しかし’メタ
神話作用’は二次、三次、四次…とされる意味作用とは異なっている。通常の意
味作用=神話作用において、二次的なレベルにおけるシニフィアンは静的、固定
化されたものとなっている。そのため新しい意味が節合され、豊穣な意味世界を
生成させ、先の次元におけるシニフィエは後退するか、包含されることになる。

 しかし’メタ神話作用’では先の次元のシニフィエは保持される。しかし、シ
ニフィアンの振る舞いが異なることによって、先のコミュニケーションの次元と
は異質な意味作用を持ったメタレベルのコミュニケーションを誘発する。つまり
カーニバルとは、我々の日常生活におけるコミュニケーションを常態と仮定した
時、メタレベルでのコミュニケーションなのである。それは単にスペクタクルと
いうだけでは条件を満たさない。日常生活との乖離が必要である。

 メタレベルでのコミュニケーションとは、ベイトソンによって理論化される行
為パターンにおけるメタレベルのパターンの問題、社会的役割遂行におけるコン
テクストの問題によって説明可能である。通常、個人が社会への適応能力を学習
し、習得するするにはテクストの位置づけとなるコンテクストを正確に洞察する
能力を習得しなければならない。つまり、ある言説や身振りが冗談や皮肉である
のか、あるいは芸術や詩的表現であるのか理解しなければ、テクストの読みは錯
誤を生じることになる。

 記号論的な説明を付加すれば、シニフィアンとシニフィエの一対一対応の関係
が、コンテクストによって変化を被るわけである。日常の対面的コミュニケーシ
ョンを例とすれば、表情や声の抑揚、リズムなど非言語的コミュニケーションが
コンテクストとなっている。ここでは非言語が表示的に表明されるシニフィアン
とシニフィエの一対一対応的関係のメタレベルに立って、関係を規定している。
                           (ベイトソン[1987])

 さて、このようなメタ・スポーツという視点からのプロレス論が、トンプソン
の「プロレスのフレーム分析」である。 


2 トンプソンのプロレス論

 トンプソンは日本の力道山時代のプロレスに焦点を当て、ゴフマンの社会的相
互行為論を援用し分析している。ゴフマン理論は、我々が生きる現実社会が既に
ある種の台本に沿って展開されるとする’社会=演劇論’とでも言えるものであ
る。ある社会的状況の下での行為は人間の自発的な行為であるよりも、演技の要
素を含む。行為者は行為者であると同時に演技者=パフォーマーとして、他者=
観衆=オーディエンスを意識した印象の演出者として自己呈示するのである。こ
のゴフマン理論がプロレスに援用されるのは至極当然のことと思われるし、実際
ゴフマンはプロレスを素材にする場面がある。

 ではひとまず、トンプソンのプロレス論を見ていこう。当時のプロレスの魅力
に「日米対抗」意識があるとしながらも、その歴史的事情を乗り越えたところで
プロレス本来の魅力を明らかにしたいという。その装置としてゴフマンにおける
フレーム分析が有効であるという。

 人々の社会的行為(社会学的視角からすれば、人々の行為というものは本能の
ような根源的諸力によってではなく、ある蓋然性を持つ社会的に決定された行為
なのである)は、ある状況に適応した行為を遂行するのだが、その際準拠枠とな
る認知フレームがあるという。我々は既存の認知フレームによって状況を理解す
る。この認知フレームは多元的に構成されたものとして理解されるが、ゴフマン
はそれを解きほぐし、その基底として「基礎フレーム primary frameworks」を
設定する。

 この方法論は我々が生きる多元的現実を理解するためのある種の操作であるが、
この「基礎フレーム」を設定することによって、この演劇論的に構成されている
社会を理解することが出来るようになるとされる。そして社会的状況は、こ「基
礎フレーム」がそのまま適応しうるもの、もう一方「基礎フレーム」を変形tran
sformations することによって適応しうるものに分けられ、変形は転形 key と
偽造fabrications に分けられる。

 転形では参加者全員に「基礎フレーム」が変形されていることが認識されてい
るが、偽造では一部の参加者にのみ認識されているという違いがある。ボクシン
グを例に取れば、「基礎フレーム」を喧嘩として、ルールなどの操作がなされス
ポーツ化するという転形になる。ボクシングの八百長試合は、この転形のフレー
ムを包摂する形で偽造となる。ボクシングを素材にした映画は、転形の転形とし
て位置づけられる。

 ゴフマンはベイトソンを援用し、社会的相互作用の場面における、メタ言及の
問題を理論化するために「基礎フレーム」という操作概念を設定する。

 「基礎フレーム」によって、枠の内部と外部の意味は差異を生じる。「基礎フ
レーム」とはあたかも絶対視可能な解釈図式であり、外部は「転調」や「欺瞞」
によって意味を変換されていく。つまり、「転調」や「欺瞞」であるというコン
テクストの理解によって、メタレベルのコミュニケーションが成立する。
                            (Goffman[1975])

 「基礎フレーム」とは、これまでの我々の論旨からすると、シニフィアンとシ
ニフィエの一対一対応の関係によって成立している理論的な仮想的現実である。
しかも我々のリアリズムへの信仰を生み出し、我々の常識や価値規範を構成して
いる。よって、カーニバルやこれから議論する儀礼とは、常態を「基礎フレーム」
とした時、「転調」されたメタレベルのフレームを構成している。

 では、このフレーム概念によってプロレスの構造を見ていこう。プロレス「基
礎フレーム」を喧嘩とすれば、格闘技として観客に呈示しているという点で転形
と見られるが、「プロレスの八百長説が主張するように、プロレスには打ち合わ
せがあり、試合の勝敗や展開は前もって決められているという声もある」(P190)

あるいは木村政彦の証言「プロレスというのは、勝ち負けということに関してプ
ロモーターに一任しなければならないわけだ」(P190)
から、参加者の一部
のみに認識されているという点から偽造であるとされる。

 送り手側であるプロモーターやプロレスラーの認識フレームと、受け手側であ
るオーディエンスやファンの認識フレームの差異に証拠づけられることによって、
プロレスは偽造であり、人々を欺くものであるという主張である。

 この偽造フレームは偽造されたものであるが故に、補強が必要となる。逆説的
には、時間的空間的な限定や常識的な限定はフレームの弱さとして認識されるが、
その限定を乗り越えや常識に訴えることによって’本当’であることが補強され
る。ひとつには「括弧の使用」と言われるもので、ゴング前の奇襲や、ゴング後
の乱闘、場外乱闘などのルールからの違反こそ’本当’らしさを補強する。つま
り’本当’らしさの認識フレーム=括弧を呈示する。

 ふたつ目には「裏付けの陰謀」と言われ、流血、大新聞による後援、チャンピ
オンベルト、優勝杯、コミッショナーの存在などによる常識や権威の利用による
’本当’らしさ。三つ目として「インサイダーの愚行」。これは「括弧の使用」
と重なるが、「本気であると思われたい人こそ、こういうフレーム(常識)から
のはみ出しを見せる」(P197)
。いわゆる反則がこれに当たるが、プロレス
における過剰な過激さ、異種格闘技戦なども相当すると考えていいだろう。

 極論すれば、アントニオ猪木の政界進出とは「インサイダーの愚行」をプロレ
ス外部への過剰な自己呈示
として考えることもできる(あくまでこの認識フレー
ムを操作的に適応すればという限定において)。

 この偽造として認識されるプロレスの成立には、「情報の限定」が要件であり、
その具体的事例として力道山のインターナショナル選手権獲得の経緯があげられ
ている。この選手権の出所は不明であるとしても、情報の出所が力道山に限定さ
れているが故に偽造は揺るがない。ちなみに” Lou Thesz , Hooker,1998”によ
ると、インターナショナル選手権獲得の経緯は、力道山が日本におけるスーパー
スターとしての地位の確保のためにメジャータイトルを非常にほしがっていたこ
とに始まる。しかしながら力道山とNWAはビジネス上の取引をせず、そこでル
ー・テーズと力道山が手を組むことによって生まれたタイトルである。つまり当
初はNWA認定というよりも、ルー・テーズ認定タイトルとでもいった方がいい
かも知れない。

 では、トンプソンのいうプロレス本来の魅力とは何だろうか。それを「否定的
経験」による参加者の没入とトンプソンはいう。これまで述べてきたことからわ
かるとおり、人々は認識するためのフレームを持っており、それぞれの社会的状
況にどのフレームが適応できるか瞬時に判断をすることによって行為を決定して
いることになる。ところが適応できると考えていたフレームが適応できない場合、
人々は「否定的経験」を覚える。とすると、その「否定的経験」を解消、あるい
は乗り越えるために適合可能なフレームを探すために状況への関与の度合いが高
くなる。

 つまり「プロレスのたくらみとは、そのフレームを壊して、転形したものであ
るはずの試合が喧嘩に崩れていくように見せかけることにある」(P203)が、
フレームの移行は否定的媒介を通じるが故にその演出に熱中するのである。この
とき揺れるフレームは偽造されたフレームであり、つまりスポーツや格闘技を構
成すると我々が信じている常識である。簡単な事例としてトンプソンがあげるの
は、反則や場外乱闘、ファンへの過度のアピールである。

 過度のアピールとは、ヒールがそのヒールであることを誇示するために、観客
に対しても攻撃を加えるかのような振る舞いである。トンプソンは実際に場外乱
闘をするワンマン・ギャングから逃げないよう試みたが、結局は逃げることによ
って、偽造されたフレームを守る観客の役割を結果的に遂行したと述べている。

 私個人にも実は似たような経験がある。場外乱闘するアジャ・コングを無視し
たのだが、その時のアジャの表情は忘れられない。結果私もトンプソン同様、観
客の役割を果たすことになった。つまりアジャから逃げたときに、スポーツとい
うフレームから逸脱することによって興奮を覚えたのであり、このような演出さ
れた逸脱による興奮がプロレス本来の魅力であるという。



3 イデオロギーとしてのプロレス
 
 以上がトンプソンによるゴフマン理論援用におけるプロレス論であるが、トン
プソンはこの視角にくわえて、プロレスにおけるイデオロギーの問題へと議論を
ずらしていく。プロレスが偽造されたスポーツであるという視角から、スポーツ
とイデオロギーの関係をプロレスにも適応していく。パーソンズの機能主義的な
視角を援用し、「スポーツの主な機能は統合とパターン維持であるといえよう。
スポーツは集合体の連帯感を助長する。伝統的かつ支配的な価値やイデオロギー
を繁栄して維持するのである」(P207)


 日本のプロレスにおいて、否定的な社会経験の儀礼的な解消として、最も典型
的なものとしてプロレス草創期の力道山によるプロレスがしばし上げられる。ト
ンプソンも同様である。日米の対立図式をマット上に投影することによって、力
道山の勝利が日本人にとっての心理的昇華になっていたことはよく指摘される。

 「プロレスは、敗戦がもたらしたストレスに基づいて、それを象徴的に解消し
ていたであろう。しかしそれと同時に、プロレスは、「西洋に追いつき、追い越
せ」という「攘夷論」的な、戦前からも存続しているイデオロギーを再生産して
いたのである。「日本人」という集団の生活の苦難の原因と思われていた「進駐
軍」を象徴する外人レスラーを「ぶっとばす」ことによって、「日本人」という
集団を代表する力道山は「民族の英雄」になった」。

 このトンプソンの指摘は、民衆のままならない理想の投影という文脈によって
バルトの視点と共通する。同様に、『民間学事典 人物編』の「力道山」の項に
次のような記述がある。

 「五十四年、米国での武者修行を終えて、再び蔵前国技館で、土俵ではなくリ
ング上でデビューする。シャープ兄弟、ルー・テーズ、ブラッシー……、つぎつ
ぎとあらわれる「鬼畜米国」を相手に見舞う日本伝統の技(?)、「空手チョッ
プ」。五十三年からのNHKや日本テレビなどの本放送の開局とあいまって、プ
ロレスは全国的な人気を呼んだ。街頭テレビの前の黒山の人だかりから、「ヤン
キー・ゴーホーム」の一斉連呼が起こり、彼の額から血が流されるたびに、テレ
ビの生産台数はその数を増大させた。戦争で肉親を失い、戦後の焼け跡から身一
つで生きなければならなかった国民大衆にとって、「力道山」は「現身(うつし
み)」となり、「復興期の精神」となった」(『民間学事典 人物編』P512)

 このようなイデオロギーの反映は、プロレスにおいて日本人が勝利することを
応援することによって、日本人自身を応援するという構造に与する。また、偽造
において構築されるプロレスは純粋スポーツより確実に日本人の心理的昇華を果
たしやすく、かつ偽造であることが前景化=暴露されてしまっては、日本人の勝
利を無効化するが故に偽造であることは隠蔽されねばならなかった。

 日本とは異なりアメリカン・プロレスはそれが偽造であると一般的に認知され
ていたが故に、オーディエンスにとって既に偽造ではなく転形とされていたこと
になる。最近のWWFの’エンターテイメント宣言’はこの伝統において成立し
たのである。

 トンプソンが依拠した資料が力道山時代にあることを枠組みとして、この枠組
みの中でいくつか批評を加えて論を閉じることにしよう。

 トンプソンも指摘するように、プロレスを「スポーツ・ドラマ」として見る時、
転形の転形として認識される。オーディエンスやファンが一様であるはずはなく、
その認識次元における階層性に着目するなら、受け手の能動性を主張さえ出来る。
トンプソンはプロレスの本質を問題視しながら、送り手と受け手の相互作用の問
題、受け手の能動的読解を軽視していると思われる。

 次に、偽造を隠すことによってフレームを揺るがすというよりも、フレームを
揺るがすことにプロレスの美学の一因があるのであり、まさにバルトが魅了され
た点はフレームの揺れが常識の逸脱における人々の悦びにあったのだから。トン
プソンにおいてはすべてが八百長隠蔽のためのフレームの揺るがしとして認識さ
れているものが、バルトにおいてはシニフィアンの誇張の振る舞いとして我々が
抱く常識的な認識枠組み=「基礎フレーム」「転形フレーム」を乗り越え、非
「基礎フレーム」、非「転形フレーム」(単に八百長、偽造といっては事足りな
い)という逸脱を見せてくれる。

 かつバルトにおいては、その素材としてイデオロギーが利用され、イデオロギー
自体が揺れるという側面を有していた。その視角によって単純な社会反映論を乗
り越え、社会の豊穣な、かつ多様な価値世界を予感させるものであったが、トン
プソンにおいてはまさに大衆は騙される非主体的存在と規定されるものとなって
いる。

 最後にトンプソンのプロレス論には限界がある。ボクシングにおいては、ルー
ルという「変形」に対して逆操作を施せば、「基礎フレーム」として喧嘩が浮上
するのは説得的だが、プロレスに関しては逆操作を施しても現実的で限定的な喧
嘩は現れない。例えば亀井は、プロレスというジャンルの説明にとってカギ概念
となる’暗黙の了解’からプロレスを紐解き、入不二基義のリアリズムに関わる
プロレスの哲学的考察を引用する。

 プロレスとは、現実の喧嘩との結びつきはなく、我々が観念化することによっ
て構築されるリアリズムを基底とした「現実的な喧嘩を超える想像的な喧嘩」で
あるとして、トンプソンのプロレス八百長論では理解し得ない側面を浮き彫りに
する。ジャンルを理解するとき、特定の概念が’説明原理’として作動するが、
プロレスというジャンルの’曖昧さ’は既存の概念によって包摂されないという。
よって「八百長」によってラベリングしようとすると、包摂できない現象が存在
するという指摘である。

 同時に、トンプソン理解の問題点はプロレス理解にあるというより、ゴフマン
理論の援用の方に問題があるのではないだろうか。トンプソンの「基礎フレーム」
の設定がそもそも恣意的であるし、「基礎フレーム」の「変形」がコンテクスト
によるというゴフマンが最も強調した論点を軽視している。

 ゴフマンの視点からいえば、ボクシングとは喧嘩のシュミレーションである。

 ボクシングとは一見’本物’と思われているが、実は演じられたものであると
いうことから、我々の素朴なリアリズムを相対化する視点を与えてくれる。ゴフ
マンの「基礎フレーム」とは、日常的な場面を含む社会的相互作用における自己
呈示のドラマトゥルギーを顕在化させるための操作概念として設定されたもので
ある。「基礎フレーム」とは文化的に構築されたシュミレーションによって成立
している。コンテクストによって、それは暴露される。この視点がバルトの神話
概念と類似していることを付言しておこう。

 このような視点からプロレスの「基礎フレーム」を設定しようとすれば、「喧
嘩」ではなく「遊び」でも構わないことになる。なぜ「遊び」を設定することに
気付かないかというと、「遊び」が現実から遊離した我々の素朴なリアリズムに
背くものであるからだ。仮に「遊び」を「基礎フレーム」にするならば、ボクシ
ングは「偽造」になり、プロレスは「転形」になる。

 ホイジンガという哲学者が世界の原理として「遊び」をあげていたことを援用
可能であるなら、ボクシングの方が偽装になってしまう。「基礎フレーム」とは
常識の社会的構成に関わり、常識がいかに作為的=社会・歴史的に構築されたも
のであるかを顕在化させる装置である。

 バルトが指摘するとおり、初めからその作為性を顕にするプロレスとは、常識
を既に離脱している。とすれば、プロレスの本来の魅力は「フレーム分析」によ
って理解されたことになるのだろうか。

(第4回完)

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