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第44回 プロレス格闘技を芸術と見るならば(前半):プロレス格闘技と虚構性
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■投稿日時:2004年1月20日 ■書き手:Drマサ |
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プロレス格闘技を芸術と見るならば(前半):プロレス格闘技と虚構性 先日の「2003格闘技・プロレスシンポジウム」はなかなか盛況であった。た だ、あいもかわらず、私自身の講演?「プロレス=芸術論の虚実」の方は、その 話の内容がアカデミックな装いであるがゆえに、聴衆には届き難かったかもしれ ない。それは反省すべき点ではあるが、あのような語り口しかないというのが、 いわゆる現実でもあるような気がする。ハイデガーの芸術哲学、つまり「芸術作 品とは存在者の真実・真理・真相の作品化」との言説によって示されている内実 が、プロレスを素材として語ることによって伝達されるならと考えていたのだ が。そこで、今回の久々のコラムはシンポジウムで語った話を文章に起こしてみ ることにした。 プロレスを芸術であると指摘する言説は多々見受けられる。タダシ☆タナカは プロレスを「最強芸術」と表現するし、多くのプロレスラーがプロレスを芸術と して位置づけることもある。例えば、ミスター高橋著『プロレス聖書』(2003)で は、「プロレスは、鍛え上げられた肉体を持つ強い者がそれを誇示して観客を魅 了するリアルファイトを演出するエンターテイメント・スポーツである。本当に 殴り合い、痛めつけ合っているわけではないのだが、ファンタジーの世界でそれ をリアルに表現するのだ」として、「こんなに知的で、芸術的で、想像力が要求 されるスポーツはない」とプロレスを定義付け、その属性のひとつとして芸術性 を強調しているのである。しかし、プロレスであれば何もかもが芸術性を持つと いうわけではない。高橋は「W‐1」でのボブ・サップとアーネスト・ホースト の試合を素人のそれとして、「そこには修行を積み、練習に明け暮れ、ひとつひ とつの技をファンに見せて恥ずかしくないように努力してやっと完成させるプロ レスラーの凄味もプライドも芸術性も何も感じられなかった」と非難している。 これら高橋のプロレス観からすれば、プロレスとはプロレス独自の(1)技術体 系(2)人間性(3)芸術性によって構成される身体文化というものにでもなろ うか。以下、このコラムでは(3)の芸術性について考えていこう。 それにしても、芸術とは一体何なのだろうか?もちろん、一概にいうことはで きないであろうが、素朴にいえば、芸術作品は私たちに感動・哀切・喜び・感傷 などの痛切な実感を与えてくれるものである。すぐれた芸術作品は圧倒的なリア リティ、強烈な現実感をわれわれに与えてくれる。このような謂いはどこか抽象 的であるので、極私的な経験について述べよう。ゴダールの映画「軽蔑」(1964 年)を観た時に受けた感動についてである。 簡単にあらすじを述べておこう。劇作家ポールは映画プロデューサー・プロコ シュにシナリオの書き直しの依頼を受ける。ポールは妻カミーユと共にプロコシ ュの自宅に招かれるが、それ以降2人の間には亀裂が生じ始める。亀裂の発端は カミーユとプロコシュが2人っきりになることにポールが同意したことによる。 この亀裂はカミーユのポールへの軽蔑という感情を媒介として徐々に明らかとな り、2人の関係は破綻する。カミーユはこの破綻の責任を取るかのように、映画 のロケの帰り、プロコシュの車に同乗し衝突事故で死ぬのである。 私がこの映画で知ったのはまさに「軽蔑とは何か」ということであるように思 える。われわれは日常的に軽蔑という言葉を使っている。おそらく、誰もが当た り前のことのように軽蔑とは何かを知っているように思っているのではないだろ うか。しかし、私自身、これまでの人生で人を軽蔑したことはなかったと思う。 確かに、他人に対して否定的な感情を持つことはあるが、それは軽蔑という感情 ではなかった。いいところ、好き嫌いとか、うまが合うとか合わないという程度 の感情を経験しただけであったように思うのである。とすれば、おそらく、私自 身はこれまで人を軽蔑したことはなかったのである。つまり、軽蔑という感情は 実は稀少な経験としてしかありえないなにがしかなのではないだろうか。ひょっ とすると、人間というものは生まれてから死ぬまでの間に軽蔑を経験することさ えなく、この世から過ぎ去っていくということもあるのではないだろうか。しか し、この映画を見て、私はカミーユがポールを軽蔑したことを実感したのであ る。不思議なことではないか?軽蔑をしたことのないものが、軽蔑を実感するな どということは。 この映画はわれわれが実生活と考えていることと異なる虚構の次元にある。し かし、その虚構である映画がなにか根深い根拠を持った人間の基本的なあり方、 つまりこの映画の私の経験では「軽蔑とは何か」に繋がっているのである。この 映画を見ることによって、私は軽蔑が何であるのかを知ったのである。これは驚 きであり、気付きである。このように考えてくると、芸術作品は「虚構」を描き 出すに過ぎない。しかしながら他方、日常われわれがさまざまな形で知っている 現実の諸相を、通常の場合以上に知らせてくれるものなのである。つまり、芸術 作品が芸術作品であるというのは、日常あわただしく生きている私たちが見失い 雲散霧消する世界内存在の真実をつなぎ止め、結晶化することにある。極私的な 経験ではあるが、映画「軽蔑」は日常生活において、なんとはなしに知っている と思いがちな「軽蔑」という感情を日常生活におけるそれ以上に知らしめてくれ たのである。ちなみにこのような考えはプラトンの想起説と繋がっている。 とすれば、プロレス格闘技が芸術であるとするならば、映画「軽蔑」が軽蔑と は何であるのかを知らしめてくれたように、なにがしかを知らしめてくれるはず である。ここで、ひとつの仮説を立ててみよう。プロレス格闘技とは「闘いとは 何であるのか」を知らしめてくれるのであると。 ここで、プロレスと格闘技の違いというのが問題になるかもしれない。昨今い わゆる暴露本といわれているものが示すように、プロレスがエンターテイメント であるということからすれば、その有り様は虚構性を身にまとっている。時に、 演劇と同一視するような意見があるのもそのためである。反面、格闘技は喧嘩や 実戦というものと地続きであり、あくまで現実の方に位置づけるのが適当である かのように捉えられている。しかしながら、プロレスも格闘技もステージ化され れば、すなわち虚構性を身にまとうのである。つまり、観衆を前提として存在す るという事実性から位置づけるならば、両者は同一の地平において論じることが できるのである。また、そもそも格闘技こそが本物の闘いであるという主張に は、「本物とは何か」との哲学が欠けている。 このような意見は競技性を強調する文脈からすると、違和感のある考えではあ る。例えば、格闘技で実績を上げていないプロレスラーが、その知名度から格闘 技のトップクラスと闘うことに、競技としての矛盾を唱える意見がその典型であ る。しかしながら、このコラムで踏み込むことはしないが、格闘技を現実の方に 位置づける考え方には本質的な問題があるといえよう。実は格闘技もまた喧嘩や 実戦と地続きというだけではなく、同様、「遊び」と地続きなのである。否、む しろ本来的には「遊び」であり、それはプロレスと同様なのである。おそらく、 プロレス格闘技は「遊び」のひとつの形式として、闘いを現実化したものであ り、それぞれ独自の発展的形態を持つという意味で異なる存在である。しかしな がら、その核が「遊び」という存在論的領域にある闘いであるがゆえに、重なり 合うジャンルなのである。競技性を強調する文脈に正統性を与えるのは、まさに 今のわれわれの社会が競技性によって見いだされる価値規範と同様の価値規範を 支配的なものにしていることにある。 素朴な実感からしても、プロレス格闘技がわれわれの生活とは何らか遊離した ものであることは認められるだろう。リングを中心として観衆が取り囲む空間が 実生活とは異なるのは当然である。そこには、現実と遊離しているという意味で 虚構性がつきまとうことになる。もちろん、虚構性とは嘘やでたらめ荒唐無稽さ ではなく、それによって見えるようにさせる技法・テクニック、あるいは問題設 定や展開装置、一種の知的操作が備わっている。それらは映画が独自の様式を持 っているのと同様、プロレス格闘技には独自の様式が備わっているのである。そ れは伝達手段としてのメディアも含めてである。まさにリングという空間の設定 は典型的な文化的仕掛けであり、理想的な表れをするときには芸術的仕掛けとし て機能するのである。例えば、アングルの設定や自然に見いだされてしまうスト ーリーなどはその典型である。 ただ、その設定が荒唐無稽なものとなるときには芸術作品としては失敗作とな るかもしれない。なぜならリアリズムの創出に失敗するという意味でコミュニケ ーションに失敗する可能性が高いからである。もちろん、マニアックな見方をす るプロレスファンならば、その荒唐無稽さにパロディ的な喜びを見いだすかもし れない。それはそれでいい。また、荒唐無稽な設定が逆説的にもその荒唐無稽さ の中に、あるいはそれを乗り越えてリアリズムを創出することもある。そうする と、観衆やファンなどの受け取る側次第で受け取り方が違うということになる。 ポピュラー文化としてプロレス格闘技を捉えれば、このような相対主義的な見方 は必然ではある。しかし、芸術として捉えるならば、プロレス格闘技は「闘い」 を各自の原体験を増幅した形で生き直すような経験を与えてくれる作品である。 (続く) ご意見・御感想等ある方は、下記ボタンで送信していただくか、掲示板にお書き頂ければ幸いです。 |
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