第43回 閑話休題 舞踏観戦記
■投稿日時:2003年4月29日
■書き手:Drマサ


閑話休題 舞踏観戦記

 芸術の分類方法はいくつもあるようだ。そのなかのひとつに、ファイン・アー
ツとパフォーミング・アーツとに分類する方法が存在する。ファイン・アーツは
絵画・彫刻・建築など美術を、パフォーミング・アーツは演劇・舞踏・音楽を総
称している。前者は空間芸術、後者は時間芸術あるいは舞台芸術と位置づけられ
ている。プロレスを芸術であると主張するなら、リングという舞台と観客を前提
とするプロレスはパフォーミング・アーツと位置づけられるだろうか。
 プロレスラーや評論家?あるいはファンが「プロレスは芸術である」と語るこ
とがある。そう語ることができるということは、芸術とは何であるかということ
を知っているということになるはずである。しかしながら、私は寡聞にもプロレ
スを芸術と位置づける根本的な議論を知らない。

 ところで、私は3月28日、三軒茶屋にある世田谷パブリックシアターに生ま
れて初めて友人と舞踏の公演を見に行った。H・アール・カオスによる「忘却と
いう神話」と題される舞踏パフォーマンスである。舞踏は先に述べたようにパフ
ォーミング・アーツに分類されるが、私自身はちなみに舞踏に対する知識は全く
なく、ましてやH・アール・カオスという団体も、その主要な舞踏家である白河
直子に関しても全くもって無知な状態での”観戦”であった。この公演を見に行
った理由は、プロレスを身体を基底とした舞台芸術と仮定した上で、舞踏と比較
すると面白いのではないかと漠然と感じていたからである。

 私は定員500名程度の落ちついたモダンな劇場の中で、パフォーマンスが始
まる前のひととき、小さなパンフレットに目を通していた。そこには、このパフ
ォーマンスの主題と思しき文章が綴られていた。

「忘却、根元的な無への恐怖とその充溢への欲望の体系。この語り得ないもの、
「歴史」はあらかじめ分断された時間の蓄積であり、「事実であると信じるも
の」の「破片」の総体であろう。言葉という過剰さのなかに花開いた私たちの文
化や、個人としての記憶もいずれは破片としてさえ残らない。しかし、「生」が
宇宙的な視野から見て完全な忘却から決して逃れられないものであるからこそ、
「今」というこの与えられた瞬間に、身体のエクリチュールを紡もう。
   ・・・私が世界を忘れ、世界が私を埋葬する日のために・・・」

 無という語り得ぬものを恐怖する錯誤が歴史や文化を断片的に構築する。それ
らは言葉という概念化作用を媒介とする。ちなみに舞台装置として百科事典のよ
うな分厚い本が幾重にも積み重ねられていたが、それは人間の歴史的記憶のメタ
ファーである。さらに、断片的な紙切れが散在していた。つまり、言葉は書かれ
蓄積され、本という保存メディアになる。その一片としての紙切れ。書くという
表現技術を媒介にして、記憶が物質的に保存される。しかしながら、逆説的にも
書かれることによってその記憶は個人の記憶から忘却されてよいものと化してし
まう。記憶とは逆説的にも諸々の社会的・物質的条件によって決定され、それら
の条件の変動によって常に流動していくなのである。忘却はそのありふれた極限
的な様相である。では、忘却を必然とする人間の「生」は、その「生」を同定す
ることができないとして嘆かなければならないのだろうか?恐らくそうではな
く、そうであるからこそ逆対応として、人間存在そのものを投じて「生」が制作
され、それをまた表現する芸術としての舞踏が必要とされるのである。

 舞台が始まると、照明が落とされ舞台に全観客の神経が集中される。プロレス
では、その反対にビールを飲むもの、隣の友人と話をするもの、試合に集中する
ものなどそのあり方は多様であり、弛緩し、散逸した空間である。この空間性の
違いを頭に思い描きながらも私は舞台に引き込まれていった。

 ひとつのドアが開けられ、その狭い空間の中で6人の舞踏家が上下左右さまざ
まな方向に無秩序に出入りし、交錯する。それは非常に幻想的なイメージを醸し
出し、創造の前に存在するとイメージされる混沌が描き出されていると感じられ
た。

 無秩序に出入りし、交錯するいくつかの身体の中にひとつの突出した身体が存
在する。それは突如、ドアひとつ分の空間によって垣間見得ていた世界から、舞
台前方に投げ出される。おそらく人間の誕生を演出するパフォーマンスなのであ
ろう。投げ出された身体は揺らめくように動き、時に直線的に動くこともある。
しかしながら、その動きに何か具体的な意味を想像することはできない。

 そのうち、舞台には5つのドアが設置され、5つの身体が垣間みられる。それ
らの身体も最初に投げ出された身体のようにうごめき、ドアの前の空間に放り投
げ出されるようにして踊り続ける。時にそのドアの内側に身を沈めることもあ
る。このように6つの身体は、おそらくはそれぞれの精神活動と結合し、われわ
れ日常の身体とは異なった変幻を見せてくれる。それぞれの身体がその内面に生
起した情緒や感情をその身体を媒介として外在化するのだが、この時点での踊り
手の内面はいまだ無秩序への傾向が強く、その意味するところをわれわれは説明
しがたい。その様に説明しがたい精神のありようが物語化されていたのである。

 ふと気付くと、6つの身体はそれぞれ男女の衣装を身につけていた。そこから
物語が具体化されるのである。それはすれ違いを運命とする男女の物語を悲恋と
して奏でるのである。悲恋は悲劇のひとつの形式である。悲劇から逃れようとす
る人間はその過酷な運命と闘わなければならない。しかし悲劇は運命であるがゆ
えに逃れることはできず、その闘いは悲劇を重ねていくものでしかない。

 この舞踏では人間の過酷な運命との闘いが劇的に演出されていた。演出例をひ
とつあげてみよう。2人の踊り手が宙づりとなる。宙づりのまま前方へ突き進
み、欲するものを掴み取ろうともがき苦しむが、掴み取ることはできない。後方
に退くとき、欲するものから遠ざかってしまう。この前方への運動と後方への運
動が繰り返されることによって、欲望の充足が不可能である人間の運命が劇的に
表現され、その運命のあり方が増幅されるのである。宙づりになってもがき苦し
む身体は運命への抵抗を意味していると思われる。このシーンが象徴的に表現す
るのは、人間がその身体全てを使って闘い、その身体と精神に傷を負い、あるい
はある人間はその苦しみによって時には息絶えてしまう様相である。不覚にも私
自身はこの劇的な演出に涙を流してしまった。

 しかしながら、この物語は悲劇にとどまるわけではない。6人による舞踏から
白河直子ひとりの踊りへと舞台は変化する。男性の衣装を身につけていた白河が
その衣装を脱ぎ、上半身裸で踊り始める。その身体は研ぎすまされ、他の5人と
は異なる次元にある舞踏家であることを実感させる。そして驚くことに、上半身
裸のその身体からは性的な身体性を感じられないのである。つまり、男性でもな
く、女性でもない身体が踊るのである。ちなみにカーテンコールの時の白河は間
違いなく女性的な微笑みと振る舞いを見せていた。

 このシーンでの白河の踊りは、それまで悲劇を視角化する男女の物語が乗り越
えられている。つまり、悲劇の直中で抵抗と傷を負う過程を通じて、ただ踊る自
由を獲得するのである。仏教用語でいえば、涅槃の境地とでもなるのであろう
か。踊る、その身体のエクリチュールは投げ出されて生まれてきたその場所を、
自らのそして聖なるものとして発見するのである。人間はただ生まれてきただけ
で過酷のなかにある。それは、日常の中で忘却されているのだが。過酷のなかに
あることが運命であるとしたら、生きることは闘うことなのではないだろうか、
私はその様なことを考えていた。

 ハイデガーは芸術を「存在者の真理・真実・真相の作品化」、「真理・真実・
真相の創造的な保存」であるとして、芸術作品それ自体にその本質を位置づけ
る。芸術作品の根源は存在者が何であるかを開示する。この「忘却という神話」
と題された舞踏は、その踊り手と観客によって象徴的に格闘を生きたのである。
そこには、まさしく悲劇とはあるいは過酷な人生とはどのようなものであるのか
が表現され、存在者が何であるかを開示するのであった。存在者は傷つきながら
記憶という長い時間と闘い、時間の超越の果てに涅槃の境地に至る。あるいは祝
福を受けたのである。私は1時間あまりのこの講演のあいだ、集中を切らすこと
なく巻き込まれ、感動していた。

 この舞踏は闘いを表現していた。では、冒頭の問いに還り、プロレスが芸術で
あるとすれば、どのように表現するべきなのか?ふと次のような問いが頭に浮か
んだ。この舞踏での演出はどれほどまでに考え抜かれていたのだろうか?白河の
その身体の研ぎすまされたありようはどれほどの過酷に耐えて創られたのであろ
うか?それに較べて、日本のプロレスはどのように評価することができるであろ
うか?ひとりのプロレスファンとして心許なくなってしまった。

 しかしながら、それぞれ時代の雰囲気が異なっていたり、その表現方法やその
人物の背景が異なってはいても、力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木の
プロレスに何がしか過酷な人生の中で闘う人間を見ることができたように思える
のだ。勿論、この3人にのみその思いが限定されるわけではないとも思われる。
それとも、ただ単に私の独りよがりの思い入れに過ぎないのであろうか。

 ご意見・御感想等ある方は、下記ボタンで送信していただくか、掲示板にお書き頂ければ幸いです。



前へ 一覧へ 次へ



本稿の著作権はすべてKANSENKI.NET及び「書き手」に帰属します。

戻る
TOPへ