第45回 プロレス格闘技を芸術と見るならば(後半):プロレス格闘技と原体験
■投稿日時:2004年1月20日
■書き手:Drマサ


プロレス格闘技を芸術と見るならば(後半):プロレス格闘技と原体験


 前回はプロレス格闘技両者が観衆を前提とするステージ化の作用によって、必
然的に虚構性を帯びざる点を述べた。この虚構性とは芸術の形式性である。今回
はその芸術が表現する内容あるいは意味について考察する。

 映画「軽蔑」が「軽蔑とは何であるのか」を知らしめてくれたように、プロレ
ス格闘技もまた「Xとは何であるのか」を知らしめてくれるなら、それは確かに
芸術に値するだろう。芸術作品とは人々の生をあり方をありありと反復反芻し、
各自の原体験を増幅した形で、もう一度生き直し、その生を見つめ返すことがで
きるものである。繰り返すが、「軽蔑」は映画という形式において、軽蔑という
経験を生き直し、その生のあり方を見つめ直させてくれたという点において芸術
となる。このような軽蔑という感情は自律性を持っている。つまり、人々の意志
を越えて立ち上がるのである。古代の人々にとっては、感情の自律性とはそれ自
体神々の訪れであった。ゆえに、神は怒り、妬み、悲しみ、憎しむのである。
 この考えを適応すれば、プロレス格闘技は「闘い」を各自の原体験を増幅した
形で生き直すような経験となる時、芸術として位置づけ可能と考えられる。
もち ろん、この仮説は「X」を「闘い」と設定した上での議論であり、「X」に異な
る言葉を組み込むことも可能であろう。例えば、「遺恨」「復讐」など。しかし
ながら、おそらく「闘い」こそは人々の生の原理として包括的な概念であり、そ
れゆえプロレス格闘技はいいしれぬ魅力を持っているのである。おそらくは、怒
り、妬み、悲しみ、憎しみなど神々の訪れである感情と「闘う」という意味で、
「闘い」こそは各自の原体験なのである。先に芸術が表現する意味内容について
考察するといったが、「闘い」は怒り、妬み以下諸々の感情である意味内容をを
包摂する形式とでも捉えられるのではないだろうか。

 では、その原体験について考察するために、聖書におけるレスリングの記述に
着目してみよう。いわゆる「ヤボクの渡し」といわれる一節であり、イスラエル
という国家の命名の起源である。ここでは聖書の引用は省略する(「創世記」3
2参照のこと)。「創世記」に語られる物語によると、ヤコブはアブラハムの息
子イサクとその妻リベカのあいだに生まれる。ヤコブは老いて目の見えなくなっ
た父イサクを欺いて、双子の兄エサウになりすまし、兄に変わって父から祝福を
受け、一族の長としての地位を得る。騙されたエサウのねたみを逃れて、母の兄
ラバンのもとに身を寄せたヤコブは富を築く。その財を持って故郷に帰ろうとす
る途上、ヨルダン側で何者かと格闘し、負傷する。英訳では、格闘をwrestling
としている。ヤコブは恩恵としてイスラエルという名を与えられるのである。ち
なみにイスラエルとは神と争う者という意味である。国家の起源がレスリングを
媒介としているという神話は、レスリングに関心のある者なら魅力的な話のはず
である。

 社会学者A・フランクは、このヤコブの物語を自らの病の物語の寓話として受
けとめている。彼は社会学者というだけではなく、実際に癌であり化学療法を受
けていた身でもあった。「病という個人的な神話の一部として、私はヤコブの行
った格闘を生きることになった。そこには、病とはどういうことかが描かれてい
る。傷つきながら長い夜を闘い、太陽が昇るまで持ちこたえられれば、祝福を得
られるのである。ヤコブの話を読んでから私の病は冒険となった」(A・フラン
ク、井上哲彰訳『からだの知恵に聴く』日本教文社、1996:114)。ヤコブは夜明
けまでという長い時間、怪我を負いながらあきらめることなく闘い続けた。フラ
ンクもまた癌によって傷つき闘い続ける。

 フランクは病との闘いにおいて見いだされる物語の諸要素を分析している。そ
れはヤコブが天使(神)と闘い、傷を負い、祝福されるまでの苦しみの物語と一
致している。ヤコブの物語りは、ひとつの要素として、自己というものが身体を
役立たせることを通じて形作られていることを示している。つまり、レスリング
という身体の闘う形式において物語は媒介されているのである。

 ふたつ目には自己は神に対して開かれているとフランクは分析する。この物語
は読者にとって神としか呼べないような者への複雑な抵抗の物語である。神はヤ
コブがそれと闘わねばならない謎である。そもそもヤコブは誰と闘っているのだ
ろうか。ここで闘う対象はヤコブにとって、つまり人間にとって、不可知の(
非)存在である。闘いは何か明確な目的を設定して行われるものではなく、それ
自体で自律的に動き出してしまうもののようである。通俗的な理解からすれば、
闘うことは何か目的が設定されているものである。例えば、勝利であるとか名
誉、あるいは金銭などである。しかし、この闘いの哲学からすれば、勝利、名
誉、金銭は闘いの本質と触れてはいない。フランクはヤコブが天使から受けた傷
に着目し、この傷の持つ意味に注視しながら、「生命の神的spiritual な側面」
に開かれていくことになると述べている。

 三つ目には自己は内在性の契機の内に存在していることが示されているとい
う。ヤコブは闘いを通じて自らが聖なる土地にいることを発見する。彼がそこで
野営しようとしたときに神は姿を現さない。が、闘いを通じて神は見いだされ
る。ヤコブは神が不在であったと考えることもできたが、傷を負うことによって
神が存在することを学ぶ。しかも、その傷は消えないものであるということか
ら、神は常に一緒にいるのである。傷こそ神の印である。神との闘いはヤコブに
傷を負わせるが、彼は神とともにあり孤独ではないのである。彼の闘いは苦しみ
という内在生の契機を抱えているが、それこそ神という(非)存在が共にあるこ
とを実感することなのである。

 四つ目には神に開かれた自己は継続的な責任を負うという。イスラエルという
名をつけられたものは、その責任から自らの生きる場所が聖なるものであること
を再発見するために闘い続けなければならない。ゆえに闘う者、つまり人間は永
遠に闘うことを運命づけられているのである。神とともにあることを内在してい
るがゆえに、人間は闘いから逃れることは神を単純に否定することである。つま
り、責任とは神とともにあることの人間の意志なのである。

 ヤコブは人間の象徴的存在として考えられる。この物語りの分析からすれば、
生きることは闘うことなのであり、それは神という得体の知れないものとの闘い
なのである。これが闘いの原体験であるとすれば、プロレスや格闘技というもの
はこのような闘いをまさにその身体によって演じることによって表現する虚構空
間を構築するものである。そして、それを見る経験とは、まさにその闘いを追体
験することではないのか。

 プロレス格闘技とは原体験としての闘いを「遊戯化/演劇化/芸術化」したも
のに他ならない。われわれは通常野球やゴルフなどのスポーツとは異なって、直
截に闘いであると信じる形式であるプロレス格闘技にこそ、この原体験としての
闘いを見いだしやすいのである。また、それゆえ、プロレス格闘技以外のスポー
ツやその他われわれの生活のある局面をプロレス格闘技によって喩えるのであ
る。例えば、討論を言葉の格闘技であるなどというのはそのためである。
 フランクの病との闘いの諸相の検討を導き手とすれば、プロレス格闘技におい
て伝達されうる意味内容は「闘いとは何であるか」という問いに対する答えとい
うことになる。sそれはフランクが「病とは何か」という問への答えをヤコブの
物語に観たののとなんら変わりはない。それは具体的明示的に定義しうるもので
はないが、神としか呼べないものへの複雑な抵抗の物語として表現され追体験さ
れた意味である。あえて言葉にするならば、「闘いの真実・真理・真相」とでも
いえばいいだろうか。

 しかしながら、このような闘いの真相はなかなか開かれることはない。先にあ
げた「軽蔑」の私自身の極私的経験が単なる思い過ごしに過ぎないのではないか
と批判されたら、実の所返す言葉がない。他者が私と同じ追体験をしたかどうか
は証明し得ないものである。おそらくそれゆえに、同じ追体験であると広く人々
が共有するには文化的仕掛けが必要なのである。つまり、人々のリアリズムに答
えるような形式が必要なのである。このリアリズムの形式とメディアとの相関関
係によってポピュラリティ(大衆性)が担保されるのである。

 個々の芸術作品においてあるひとつの真実と出会うということは、その世界が
未知の世界ではないことを意味している。むしろ芸術作品においてわれわれは自
らを理解するのであり、それは人間の歴史的社会的現実との関係において見いだ
されるのである。リアリティはこの歴史的社会的現実によって構築されるのであ
る。つまり端的にいって、芸術作品において開かれる真実・真理・真相は社会的
歴史的現実を媒介とせざるを得ないのである。プロレス格闘技であるならば、そ
の最もわかりやすい、かつかなり普遍的なリアリズムの仕掛けが「善悪の対立」
「遺恨」「嫉妬」「最強神話」なのである。それぞれはその社会的歴史的現実と
の関係で構築される。いわゆるプロレス用語でいえば、これが広義のアングルで
ある。

 たとえば、PRIDEはガチンコというリアリティの演出により「最強神話」を演
出することに成功した”あたらしいプロレス”である。社会のリアリズム形成の
あり方がガチンコという形式を求めているのである。昨年の野球のオリンピック
予選において、長島ジャパンが見せた野球を思い出してもらいたい。通常のプロ
野球のペナントレースや日本シリーズとは異なった緊迫した雰囲気の中で行われ
た試合はまさにガチンコという趣であった。この趣こそ、リアリティが社会的に
産出されることの表れである。

 プロレスについてひとつの事例を考えておこう。力道山プロレスが戦後の時代
状況におけるリアリズムといかに適合的であったかはいうまでもないところだろ
う。第二次世界大戦で日本を敗ったアメリカ人を空手チョップで倒すという図式
がいかにその時代のリアリズムと関わっていることか。それゆえ、テレビという
新しいメディアの力と共に、あれほどまでの大衆性を獲得し得たのである。この
ように考えてくると、力道山プロレスとはアメリカ人を倒すという図式によるリ
アリズム産出の仕掛けと、その仕掛けにおいて「闘いとは何であるか」という真
相が開かれる経験であったと考えられはしないだろうか。だからこそ、単にアメ
リカ人を倒すことがその時代の日本人の心理的昇華であったとの還元論は避けな
ければならない。  

 もちろん、力道山プロレスのみが以上のようにいえるわけではない。おそらく
は馬場・猪木・藤波長州・タイガーマスク・天龍・四天王・UWF・船木・・・こ
れらわれわれプロレスファンの心に刻まれたプロレスにはその時代状況にあった
リアリズム産出の形式と闘いの真相を追体験させてくれるものがあったのではな
いだろうか。先に聖書のヤコブのレスリングについて考察してきたが、ヤコブは
傷を負うものであったことを思い出してもらいたい。この傷の意味をプロレス格
闘技において考察するのが、次の課題である。

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