第42回 閑話休題5
■投稿日時:2002年7月17日
■書き手:Drマサ


閑話休題 5

 映画『ガイア・ガールズ』が封切りされてしばらくたつ。女子プロレスという
日本のサブカルチャーに焦点を当て、新人がデビューするまでの過酷な日々を追
うこの作品は、私の周囲を見る限り、おおむね好評であった。私がこの映画を見
たのは、1月下旬である。ちょっとした知り合いからビデオを借りることができ
たからである。丁度2月初旬、某大学で「情報文化論」の集中講義を担当してい
たこともあり、なかなかいいテキストになるのではないかと『ガイア・ガール
ズ』を講義のテクストとして利用させてもらった。1日5コマ、そして3日間連
続の集中講義ということもあり、延々講義し続けるよりも、ビデオを見ることで
メリハリがつくであろうし、また日常的に触れているメディア文化ではあるが、
実際に考えるいい機会になるのではないかという選択をしたというわけである。
まあ実際は私の趣味を押しつけたという感じでもある。

 『ガイア・ガールズ』以外にも、TBS系列で好評だった加藤貴子主演の「奥
様劇場」『温泉にいこう』と日本テレビ系列の『マネーの虎』をテキストとして
採用し、講義ではテレビが構築するリアリティや物語性に絞ってみた。当初、メ
ディア・情報・文化という概念を説明し、その議論を土台としつつ、テレビ番組
を含めた映像の視聴経験を考えてもらおうという試みであったが、成功したかど
うかは良くわからない。少しばかり具体的にするなら、ある特定のメッセージ性
があるリアリティを生み出す時、そのテレビ番組の形式はどのような効果をもた
らすのか、あるいは物語にはどのような手順が通常用いられているのかという社
会学的な議論も絡めながら、日常的に見ているテレビ経験と繋げるような試みを
してみたのである。映像を見て感動したり、怒ったり、なにがしかの感情の動き
があるのはなぜなのだろうかということである。ちなみに、恥ずかしながら、
私、『温泉にいこう』が好きである。

 『ガイア・ガールズ』に関しては、一応試験と称して受講者に感想文を書いて
もらった。少々反則かもしれないが、この感想文についてまず紹介してみよう。
ちなみに、ビデオを見る前と見た後それぞれの女子プロレスの印象と、ドキュメ
ンタリーという手法によるリアリティ構築に関して質問してみた。ここでは、女
子プロレスの印象に絞っておく。

 数名を除いてプロレス自体に関心がなく、ビデオを見る前の印象は否定的なも
のばかりであった。言葉遣いが汚い、格闘技は男のやるもの、痛いのはいや、流
血が恐いなど「女らしくない」「かわいくない」というある意味女性らしい意
見。女の人が闘うこと自体がよくわからない、理解できないなんていう意見もあ
った。また、クサい気がする、「どうせやらせ」「パフォーマンス・ショー」に
すぎないからくだらないものというジャンルへの否定的評価というかある意味偏
見もあった。そんなプロレスにはまっている奴は馬鹿だ、アホらしいという意見
もあった。何か私自身のことを否定されたような・・・

 ところが、ビデオを見るとかなりの者が評価を一変してしまう。「女らしくな
い」という地点に立ち否定的意見を述べていたものが、自らの夢に向かい努力す
る姿に感動し、共感し、実際実現するということから尊敬の気持ちを抱くように
なる。プロレスの闘いが内包する意味作用、つまり「あきらめるな」「勝利を掴
め」「悔しい気持ちをぶつけろ」「たくましく成長する」「プロ意識」などのメ
ッセージをもっていること、それが直感的に受容される。この直観の延長線上に
自らを重ね合わせ、職業や生きることという人生論を見いだす者もいた。

 また、プロレスを単に「ヤラセ」と捉えていた者が、客を前提とするスペクテ
ーター・スポーツであるという論理を直感的に理解し、プロレスを読解するリテ
ラシーを少しばかり前進させる。また、パフォーマンスであると認識する地点に
立ちながらも、プロレスラーになることの困難を理解し、パフォーマンスである
ことが否定的な評価から、肯定的評価へと変化する。例えば、大袈裟なアクショ
ンも観客に伝えるための演技として肯定的なものとされる。かつ、命を落とさな
いための厳しく辛い練習という見方をするようになる。

 これ以外の色々な感想も勿論あったし、当然大学の講義という制約もある。
が、総じて、厳しい竹内の練習風景を中心として女子プロレスを「びっくりし
た」「凄い」「感動した」「プロレスにも深い意味がある」と捉えていたようで
ある。しかも、竹内がプロレスをやめたことを告げると、かなり困惑していたも
のである。

 ここからは、私の個人的感想を述べていこう。

 ところどころ挿入されるのどかな田舎の風景や、女子プロレスラーたちが素顔
を覗かせる流しソーメンの楽しい光景など、これらは女子プロレスラーもまさに
普通の女の子であることを、あるいはその日常性を象徴的に表現する映像として
演出されていたように思われた。

 勿論、それはプロレスという職業の過酷さを引き出すための仕掛けである。新
人竹内の過酷な練習やなかなかデビューできない現実、複数の新人の夜逃げ、挿
入される里村と加藤の闘いなどはその過酷を表現している。例えば、竹内がスパ
ーリングを必死にこなしながらも合格点には到達せず、口から血を滴らせている
シーンはわかりやすい例であろう。また、竹内の練習風景を見ていると、プロレ
スが競技のように見えるという感じを受けた。つまり、3カウントをとられない
ために必死ではねのける練習をしているように見えるのである。3カウントを簡
単に取られてしまえば、高度なプロレスは構築できない。そのためには、どんな
攻撃を受けようとも3カウントを取られてはいけない。ミック・フォーリーが言
っていたように、ショーであるからこそ途中であきらめるわけにはいかない過酷
なジャンルの原点が、3カウントを取られないための練習風景に発見されたよう
な気がしたのである。このような見方が正しいか否かは良くわからないが。

 さて、一般の視聴者からすれば、この練習シーンだけで十分プロレスが”非人
間的”なジャンルであると説得するのに十分のようである。この”非人間的”な
稽古を乗り越えても、待ちかまえているのは里村と加藤の過酷な闘い模様である
ことをこのドキュメンタリーは告げてもいる。。

 しかしただ過酷だけに身を置く者がプロレスラーというわけでもない。プロレ
スラーにとって日常性と過酷はいつもひとつのセットとしてその身にまとわりつ
いてもいる。里村が楽しげにポピュラーソングを歌うその間隙、一滴の涙がただ
静かに落ちる。里村は日常性に身を起きながらも、プロレスという闘いを職業と
する過酷を忘却することができないでいるのではないだろうか。これは悲劇であ
る。なぜ、里村が涙を流したのかの明確な理由はこの映画の中で語られてはいな
い。しかし、この語られないというあり方によって語られているものに思いを寄
せてみるならば、この映像シーンはこの映画のテーマを乗り越え、プロレスの本
質を一瞬にして表現してしまっている。確かにこの映画の表面的なテーマはプロ
レスラー誕生という努力と成功の物語である。しかしながら、プロレスをドキュ
メントするという方法論は必然的にプロレスがなんたるものかをかいま見せてし
まうのである。先に過酷を忘却できないとの表現をしたが、より正確にいうなら
ば、過酷が訪ねてくるという表現の方が正確かもしれない。

 このようなドキュメントもまた当然ではあるが物語である。物語は時間軸によ
って出来事が選択されて構築される。竹内のプロデビューに向かう時間軸の上
で、いくつかの出来事が監督の視角によって選択され、関連づけられている。こ
の選択と関連づけが一つの方向を構築し、竹内の成功物語というひとつのまとま
りを作り出している。先の学生たちの受容もこの物語を中心としていたわけであ
る。

 とすれば、その視角にかなわぬ出来事は排除されてもいる。しかしながら、監
督の視角と別に登場人物たちの視角が映像の中で生み出される。そこに「意識の
光景」が発見される。つまり、監督がなにがしか物語化する意図をもって映像を
制作するその内部に、通常その出演者によるその意図と適合したり、あるいは反
したりする物語が紛れ込むのである。しかしながら、このドキュメントという手
法はなにが監督の視角であり、なにが紛れ込んできた視角なのかを容易に理解さ
せないものでもある。特にこの里村の涙のシーンはその視角が監督による意図的
な選択であるが、その里村の涙によって引き寄せられてくる複雑な意味内容が意
図的なのかどうかは判然としない。

 ただ、この涙が単に里村という女性あるいはいまだ少女といいてもいいかもし
れないが、彼女にのみ生じた涙ではないという事実を招来させる。それは、私に
とってプロレスの本質をかいま見せる経験である。プロレスの本質とは八百長で
あるとかヤラセであるとかいう次元にはない。『現代思想』プロレス特集の編集
後記には、プロレスは人間扱いされてこなかった者達の、人間への復讐という嘆
願であると述べているところがある。私なりに翻訳してみるなら、過酷を過剰に
背負ってしまったと意識する者、あるいはそれは意識していないこともあるのだ
ろうが、そのような運命をもつ者があのリングに産み落とされることによって、
プロレスという闘いのメタファーに依拠しながら、その過酷な生を空間化する。
よって観客は巻き込まれ、日常性の直中にある観客が意識することのない過酷を
かいま見ることができる。それがプロレスであったのではなかったか。それは単
に練習の厳しさや上下関係のいびつさといったことをのみ意味するのではない。
その厳しさは我々の理解の枠組みを構成する補助の役割でしかない。その認識枠
組みを乗り越えて、発見されるものがプロレスの本質である。

 この”仮説”が正しいなら、過酷をなにがしか表現しないプロレスとは、その
フォーマットがプロレスであるとしても、プロレスではないのではないだろう
か。過酷が奪われている時代状況が、プロレスを奪い去っていくのだろうか。た
だ、先の講義の感想から見るならば、少しばかりその過酷に学生たちが触れたよ
うにも思われる。このドキュメントが、その中心的物語を竹内の成長物語として
いながらも、私の考えるプロレス体験を表現している側面があると考えても良さ
そうである。

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