第41回 ジャンボ鶴田修士論文読解 Part5
■投稿日時:2002年6月29日
■書き手:Drマサ


5 鶴田によるプロレス理想論

 鶴田のスポーツ=身体観はギリシャ哲学を志向する。もう少しこの志向を延長
するために、プラトンの遊び概念=パイディアを考察してみよう。プラトンの遊
びという概念は、オットー・バタイユ・カイヨアなどの聖なるものの考察の先駆
けとなっているのはいうまでもない。祭式、呪術、典礼、秘蹟、密儀などの聖性
を象徴する事象およびその観念は、プラトンにとってことごとく同一的なるもの
として扱われている。プラトンは対話編『法律』の中で、アテナイ人に人間はた
だ神の玩具(”遊び”道具)として創造されたと話させ、かつそれこそが人間の
最良の部分であることを主張する。つまり、人間自身こそが遊ばなければならな
いのだと主張する。

 もちろん、この遊びが我々が普通にイメージする遊びとはなんらかの隔たりも
あることも確かである。それは、プラトンの思想がそのイデア論として結実する
とき、魂(プシューケー)の善こそがその最終審級として、いやあるいは根本原
理として欲求されるていることに関わっている。

 プラトンからすれば、当然遊びもイデア論に整合されなければならない。ソク
ラテスはアテナイ市民がひたすら金と評判、名誉に眼が眩んでしまう日常的現実
を批判して、それと対置するところに哲学という学問を位置付ける。誤解される
ことを恐れずに簡潔に述べるならば、「金や評判、名誉」と無関係な地点に存在
するものを「知と真実」と命名し、「金や名誉、評判」にがまんならない、ある
いは無関係な動性を魂(プシューケー)という世界の原理とする。その魂の最高
状態が善のイデアである。このような思想において、「金や評判、名誉」という
ものの原理は身体(ソーマ)という。とすれば、遊びもまた魂(プシューケー)
に整合的な現象であるときに初めて、全的な遊び=「神に関する事柄」が実現す
る。

 プラトンはアテナイ人に戦争が魂の善と全くもって不整合であり、戦争の中に
もっとも真摯、厳粛なる遊びも教育もないと主張させる。先に格闘技が原始の殺
し合いをその原理とするという認識論を批判したが、それは人間同士の殺し合い
とは、当事者同士の関係性の不均等に由来するものであるからである。つまり、
古代社会では暴力を振るうことを許す許容範囲が設定され、その適応範囲は同種
族や同等の立場同士においてなされる。簡潔に述べるなら、この次元での暴力に
は最低限、暗黙のルールが存在する。ところが、殺すことが許容される場合は、
その対象が自らの位置から低位にあるものとされるのである。つまり、両者の間
に不均衡があるとき、暴力は無制限のものとなる。暴力の無制限を生産する論理
は、社会的な抑圧や差別などの不均衡を媒介とするか、あるいはそれらを反転さ
せた誤った正義なのである。この論理は、先の身体(ソーマ)に対応する。
 それに比して、鶴田が理想とするレスリング観の延長線にプラトンを媒介とし
て思いを馳せるなら、真にレスリングするものは魂の最高の境地を実現している
ことになる。プラトンは若い人、あるいは動物がただ飛び跳ねたいという欲求を
もつところに遊戯の起源があると推定する。この言葉を拝借してみるならば、た
だレスリングしたいという欲求に遊びの一つの形態の起源があると推定すること
ができる。ホイジンガの言葉を借りれば、「宇宙的洞察に満ち、社会的発展をは
らんだ神聖な遊戯」というユートピアに思いを馳せることさえできるだろう。こ
のユートピア的、あるいは”真”のレスリングとは、文化に先行して存在してい
た美と神聖の遊びという届き得ない存在でありながら、その行為の基底において
常に行為を秩序づける力を有するのである。入不二によるプロレスの「ドーナツ
の穴」論を以前議論したが、この文化に先行するレスリングという考えは入不二
論と通底する問題意識であると指摘しておこう。

 さて、少々鶴田の議論から飛躍してきたので、鶴田自身の議論に立ち戻ろう。
鶴田はギリシャ時代のレスリングの彫刻に高度な芸術性を読み解く。そのうえ
で、その彫刻に現代のプロレスリングの連続動作との共通項を見いだし、現代プ
ロレスリングにギリシャ的な芸術性の一端を発見する。その芸術性をレスリング
の理想像とみて、この彫刻に型という美学を抽出する。その際理解する枠組みと
して採用されるのは、日本文化を理解する雅俗という考えである。

 西欧における階級間の文化移動が低い状況と比較して、日本では階級意識も低
く、対立性も希薄であるという状況認識から、日本文化の分析装置として雅俗の
有効性を取り上げる。「一言で言えば、「雅」は型であり、「俗」は表現世界の
エネルギーの塊である」という。つまり、「俗」という人々の歴史的・社会的心
性あるいはエートスが、「雅」という日常的あるいは儀礼における身体所作にお
ける無意識的表現と、またいわゆる芸事を含む文学や芸術などの意識的表現にお
いて絶妙なバランスで秩序だっているという文化のあり方を示している。具体的
にはいくつか列挙しているが、たとえば鶴田は武道の型をあげ、型の習得を通し
た身体的のみならず精神的な強さを表現する文化を指摘する。

 では、この考えをプロレスに適応するとどうなるのであろうか。先のギリシャ
彫刻におけるレスリング像と現代プロレスの共通項の発見から、レスリングの芸
術美をレスリングの型として定式化し、それぞれレスラーは得意な型を身につけ
る。つまり、それぞれの型=レスリング・スタイルを通してレスラーのエートス
を発揮することが企てられる。あるいはすでに実践されているのであろうが、そ
れを明確に意識化する。レスラーのエートスは通常強さの表現となるが、いくつ
かのバリエーションが生み出されるかもしれないし、逸脱することもあるだろ
う。ところで、鶴田がユニークなのはプロレスを3部構成にしようというところ
である。

 第1部。レスリングの型の披露。たとえば、往年の名レスラーにレスリングの
身体所作から導き出される技術を披露してもらい、プロレスのファンタジーをプ
レゼンテイションしてもらう。イメージされるのは、その昔おこなわれた「カー
ル・ゴッチ対藤原」であろうか。この事例が適切であるならば、第1部ではフィ
ニッシュのジャーマンがもつ型の「雅」を頂点として感心させられるということ
になるだろうか。

 第2部。エンターテイメント・サービス。あまり具体的な言及はないが、いわ
ゆる現在通常プロレスといわれているレスリングを意味しているように思われ
る。鶴田は現状のプロレスを「エンターテイメント・スポーツでしかない」「エ
ンターテイメント・スポーツであることを認めざるをえない」と指摘しながら
も、そのエンターテイメント・スポーツの定義を「格闘技+芸術的スポーツ」と
している。ただ、あらゆるプロ・スポーツがエンターテイメント・スポーツであ
ると注釈をいれているが。「芸術的スポーツ」として意味するのは、フィギア・
スケートなどの現在の採点競技である。この視点からは、WWF(現在のWWE)のド
ラマ仕立てのプロレスは「芸術的スポーツ」としてとらえられていない。おそら
く、一般化すれば、「芸術的スポーツ」におけるパフォーマンスの力学とドラマ
の力学のバランスの問題からの判断であろう。ここで重要な視点が、レスラーが
レスリングの型を身体技法として獲得しているか否かである。その身体技法に則
った自由演技がおこなわれるのが第2部ということになるのであろう。

 第3部。格闘技としての試合。鶴田は、「一般のスポーツ・格闘技において
は、「相手の得意技を封じて、自分の得意技で決めた場合」が最高である。プロ
レスでは、「相手の得意技を受けて自分の得意技で決めた場合が最高である。
「技のダメージ(得意技の型をもっている)プラス神通力」なのである」と格闘
技とプロレスを区別する。あるいは、「格闘技(勝ち負けの世界)とプロレス
(勝ち負けの世界+観客を魅了する内容のある試合)」と区別している。プロ興
業という力学からすれば、単純に格闘技が純粋な競技として成立するか否かを問
題視することができるが、今その問題はとりあえず不問にしておこう。そのうえ
で、通念として競技を思い描けばよく、94年以降のパンクラスやUFCに始まる
総合格闘技を想像すれば十分であろう。ちなみにプロレスと格闘技の線引きをす
る機能をはたしたものとしてUWFが取り上げられている。

 現状、1興業でこの3部構成がなし得ているとはいえないが、すでにマット界
という広いフィールドでは半ば成立していると解釈できるだろう。問題点は、マ
ット界において、それぞれの団体が実はその身体所作における技術体系からすれ
ば、共通のフィールドにいることを認識するべきであるということになるであろ
う。そのうえで、格闘技としての表現手法、つまりスタイルをその下位区分にあ
る価値として主張しつつ、共存すればいいのである。ただ私個人の好みからすれ
ば、1つ団体が鶴田指摘する3部構成を共存させるダイナミズムも見てみたいの
だが。

 さて、このような3部構成からなる興業が、鶴田描くプロレス興業の理想像で
ある。そのうえで、強調されるのは身体技法の基本がアマレスとプロレスでは同
一であるという点である。鶴田は大胆にもアマレスのルール改正を主張し、関節
技などの許容など総合格闘技化を唱えている。それにより、プロとアマの垣根を
越え相互交流を果たし、総じてレスリングの地位向上を果たせると主張する。こ
の価値意識に基づくレスリング観から多様なスタイルが成立するのであり、鶴田
の論点に依拠すれば、この同一性の不在はプロレスではないという帰結を生むは
ずである。この同一性に基づく限り、プロレスという表現世界における美学が主
張されるのである。

 プロレスは確かにその暴力性に依拠する表現からすれば、いわゆる一般的に信
じられる美学、あるいは通俗化すれば、品位を転倒させたジャンルである。しか
し、その身体所作にレスリングという、人間にとって遊びという存在論的に規定
される技術がかいま見れるとは、なんとも贅沢な芸術ではないだろうか。

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