第40回 ジャンボ鶴田修士論文読解 Part4
■投稿日時:2002年6月12日
■書き手:Drマサ


4 遊びとしてのプロレス

 オランダの哲学者ヨハン・ホイジンガが論じるとおり、文化の根源が遊びであ
るとのある種ロマン主義的思想を受け入れるならば、スポーツの競技化および勝
利至上主義とは、遊びという実生活から遊離するところに生まれる芸術性/美学
の喪失を意味することになるだろう。鶴田は「子犬や子猫がじゃれるようにその
遊戯をスポーツ化させたのが格闘技の誕生」と指摘しているが、筆者もまた基本
的にこの見解に賛成する。この動物の遊びとファンタジーの関係を考察したベイ
トソンの見解から見ても、コミュニケーションにおける超越的経験と自己の組み
替えがレスリングにおいてもまた一致する。

 時に、原始時代の格闘技が殺し合いであったと指摘がなされることがある。つ
まり、格闘技の本質を殺し合いとするものである。唯一人間のみが殺し合いをす
るという事実から、弱肉強食こそが世界の最高規範であったとの見解をたち上
げ、そこに人間の本能という説明原理を代入し、究極の格闘技を殺し合いの技術
であると論じるのである。しかしながら、この見解は一方的なもののようであ
る。ホイジンガ指摘するとおり、格闘技は本来のその構成要素として遊びを蔵し
ている。遊びの破綻という事態を受けて、喧嘩や殺し合いが生み出されると考え
ることができる。とすれば、格闘技は、遊びとその破綻として論理的には事後的
に生じたであろう殺し合いとの複雑な関係性の中で構築されたものといえるので
はないだろうか。さらに、遊びをこそ人間の本来的存在の現象化と見るロマン主
義を採用するなら、殺し合いを究極とする格闘技とは、まさに遊びを本源とする
ことからの離脱であり、遊ばない非人間、非文化を賛美することになる。

 いままで時折言われてきた、あるいは触れられてきたことではあるが、プロレ
スとはこのホイジンガの言う遊びという概念から捉えられるものと考えた方がい
い様に思われる。後述するが、プロレスは単に競技でもなければ、演技でもな
い。あるいは誤解を承知で言及するが、競技でもあり、演技でもある。このよう
な矛盾する言説を乗り越える言説として「プロレスはプロレスである」というジ
ャイアント馬場的なトートロジカルな言説や、「プロレスとは闘いである」とい
うアントニオ猪木的な言説が産み落とされる。

 ホイジンガによれば、われわれが生活する中で遊びは特殊な地位にある。一切
の夾雑物を含み得ない遊びそのものという観念を想定するならば、遊びは生活に
おける必要や欲望の直接的な享受やその満足とは無関係な空間を構築する。つま
り、衣食住という生活に根ざすあれら欲望の過程を一次的に中断し、まさに人間
固有の完結した行為を現実化する。

 第1義的に見るならば、遊びは遊びという空間の中で自律するのである。この
ような遊びが日常生活の中である地位を示すことによって、あるいはその日常生
活にあたかも囲い込まれるかのような間奏として位置づけられるとき、第2義的
な遊びへと変換される。この時、遊びは生活から遊離することを断念し、生活機
能の1様態へと位置づけられ、社会的・文化的結合関係を機能化することにな
る。その様な意味で、第1義的な遊びは届き得ないものとなるかのようでもあ
る。しかしながら、それでも遊び本来の目的性を考慮するなら、第2義的な遊び
もまた直接的な物質的利害の外部を構築し、あれら生活の必要と欲望の充足の外
部におかれるのである。

 ホイジンガは遊びを2つの形式において理解する。競技(闘争)と演技(表
現)である。機能として捉えられた2つの形式は、何かを求める闘争が表現とし
て形式化、かつ同時に最高の表現者を見いだすために闘争という形式となる。
 つまり、競技と演技は弁証法的に融合しつつひとつの秩序を形成している。先
の馬場的言説、あるいは猪木的言説はホイジンガ的な弁証法的理解とその趣旨を
かなりの程度一致させた異なる表現である。さて、その秩序とは「遊戯には美し
くあろうとする傾向がある」との表現においてなされている。美という観念がも
つ作用を言い表すとき、「緊張、平行、安定、交代、対照、変化、結合、分離、
解決」という美的因子を表現する言語が使用される。これらの言葉のそれぞれが
先の弁証法を構築する結合と解放、あるいは肯定と否定に与する言葉になってい
る。弁証法的な”完全”なる単語を表現しようとして、それら美的因子を表現す
る単語が”酌み交わされる”のだが、それらの”酌み交わし”の極点として秩序
がある。現在、プロレスあるいは格闘技ジャーナリズムが勝負論と観客論の関係
を問題視することがあるが、まさにホイジンガのこの弁証法の問題における議論
であり、苦悩を物語るのように思われる。競技の徹底化が資本主義的欲望にから
めとられるとき、表現としての形式性が後退し、遊びの有する実存的な美学を欠
如させてしまう。それは同様、闘争の形式性が後退することにも対応する。

 通常、この秩序の成立する状態をギリシャ哲学では調和(ハルモニア)と呼
ぶ。鶴田はレスリングにこの調和(ハルモニア)を見いだそうとするギリシャ人
の美学に呼応しようとする。前節で上げたように、「実力勝負の世界」と「観客
を魅了する世界」との鶴田の表現は、競技と演技に見事なまで一致する。しか
も、それらのバランスの高度な水準での調和(ハルモニア)を理想とすることと
もまた一致する。

 ギリシャ人はこの美を捉えるための創造として芸術作品を捉えていたという。
鶴田は彫刻作品に言及する。1節でレスリングのブロンズ像を「プロレスの組み
手からロープにとばして「ハイ・キック」や「ジャンピング・ニーアタック」へ
移行したんではないか」との鶴田の分析を紹介したが、ギリシャ人の美学という
問題からアプローチすると、この場面にギリシャ人は端的に美を鑑賞し、1レス
ラーの身体所作に、あるいはレスラー同士のコミュニケーションに調和(ハルモ
ニア)を発見していたがゆえに、ブロンズ像は創造されたと考えることができ
る。

 鶴田は力強く宣言する。「プロレスの世界の中に、古代ギリシャのスポーツの
芸術美が生きていることを確認したいと思う」と。それはブロンズ像によって捉
えられた美の決定的瞬間であり、それはその美を生成するコンテストを内在化し
た歴史的出来事としてオーディエンスに受容されるようなものである。鶴田は端
的に「生きた生命、力強さが捉えられている」と指摘する。
 先の鶴田の分析は、この視角の具体的な分析の1つである。現在のような高度
なテクノロジーを有するメディア状況にない時代に、彫刻という手法は美を表現
する身体が生成するその間隙を切り取り、動を一端静止化することによって、反
転しその連続動作における美の生成をモノ化して再現することができる。また彫
刻を鑑賞する者は、静止の中に生成する身体の美をファンタジー化して心の内で
再現することができるのである。それは円盤投げの選手の身体を彫刻化したとき
にも同様である。先の鶴田の分析資料はビデオであるが、ギリシャ時代と現代の
メディア状況の違いを考慮に入れると、美に対する社会的感受性の違いや、社会
的身体のあり方の違いへと考察は進むかもしれない。

 ところで、レスリングは1人の身体において美が生成されるのではないところ
もまた興味深い点である。テリー・ファンクが「ほうきとでもレスリングでき
る」との趣旨の評価を受けていたと記憶しているが、改めて言うまでもなく、通
常は2人の人間によってレスリングはなされる。バックドロップで投げられる身
体が空中でバランスを崩す、あるいは技を受けないように必死でもがく状況はす
でに美を損なっている。調和(ハルモニア)を原理とした、あるいは理想とする
美学の直中において、”受けの美学”は必須の身体所作であり、表現である。レ
スリングの表現が2人の人間のコミュニケーションを基礎とするという端的な事
実に、社会におけるルールや、まさに調和(ハルモニア)の原型を垣間みては、
さらにロマン主義であると批判されるかもしれない。

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