第39回 ジャンボ鶴田修士論文読解 Part3
■投稿日時:2002年5月28日
■書き手:Drマサ


3 ジャンボ鶴田の生活史

 鶴田はオリンピック終了後すぐプロレスからの勧誘を受けているが、プロレス
入りには葛藤があったようである。その理由は2つに整理できるだろう。ひとつ
は3年ほどの競技経験しかもたないアマレスに対する自己の可能性への欲求であ
る。国際ルールへの順応、鶴田の身体の大きさに見合った練習相手の有無、国際
大会に出場するための経済的条件などの様々な環境問題がクリアされれば、当然
自己のアマレスの実力を伸ばし、試してみたかったようである。

 ふたつ目にはプロレスへの偏見の問題である。鶴田自身、「ためらいもあっ
た」として次のように言っている。「私は最初プロレスはスポーツと違い、大新
聞・テレビでは報道しないし、マスコミは普遍的、本質的価値があるスポーツで
はなく、人工的に作られたエンターテイメント・スポーツだとイメージしてい
た。それでスムーズにプロレスの世界に入れなかった」と。鶴田は競技化が進行
した現代スポーツのあり方や、オリンピックやあるいはワールドカップのような
世界規模で開催されるスポーツ・イベントによって象徴的に理解しうる現代的構
造を「普遍的、本質的価値がある」として、社会的に構築された恣意的な価値規
範を素直に受容していたようである。「スポーツとは何か」というラディカルな
問いを発するなら、このような近代スポーツのイデオロギー的側面が決して「普
遍的、本質的価値」を体現し得ないばかりか、プロレス的”受けの美学”に、よ
りラディカル(根源的)なスポーツの存在形式を発見してしまうかもしれないの
である。本質化すべきではないかもしれないが、なぜなら我々は古代のレスリン
グを描いた壁画にバックドロップのような”受けの美学”をこそ不可欠とするか
のようなスポーツの存在形式を知っているからである。

 では、この「ためらい」を乗り越えさせたものは何だったのだろうか。それは
プロレス自体にロマンを見たのではなく、自らの社会的状況を勘案したリアリス
ト・鶴田友美の選択という色合いが濃い。その要因は2つ挙げられる。ひとつは
まさに現実的・経済的事情による。オリンピックから帰国したまさにその9月、
父親が逝去する。そのため生活の自立を強いられた鶴田はアマレスを続けるため
の経済的状況がいかなるものか丹念に調べ、自らの生活設計と照らし合わせたよ
うである。それは「スーパースターの可能性のあるプロの世界」が魅力あるもの
として映し出される状況を作る一因であった。

 ふたつ目には、レスリング界の最大の実力者八田一郎会長の助言が強力な援軍
になったことが挙げられる。「プロが栄えれば、アマも栄える」との助言によっ
て、ある種偏見のまなざしにおかれるプロレスというスポーツの中で、鶴田友美
というアマレスラーの成功がアマレスとプロレスとの連続性を強化すること。ま
た、その偏見を軽減しかつアマレス人口を増大させるとしたら、それは鶴田にと
って現実的具体的な夢を描かせるのに十分であったのだろう。

 鶴田は坂本龍馬を愛し、彼の人生をチャレンジ精神として理解しているが、プ
ロレス入りとはまさにそのチャレンジ精神の発露だったわけである。それを後押
しする夢を八田会長の言葉の中に読み解いたといえるだろう。ちなみに鶴田は坂
本龍馬の言葉を引用している。その2節は「何をくよくよ川端柳、川の流れを見
て暮らす」「死ぬときはドブの中でも前向きに倒れて死にたい」である。傍目か
ら見れば、鶴田というアマレス・エリートの全日本プロレス入りはエースを約束
された順風満帆の道として指摘されることが多いようだが、まさにそれは他人か
らの欲目でしかなかったのかもしれない。当事者にとってはチャレンジ以外の何
物でもなかったのである。そして、鶴田は旗揚げ間もないジャイアント馬場率い
る全日本プロレスという、鶴田からすれば新鮮味あふれる新興の会社へと「就
職」する。ジャンボ鶴田が生み出されたわけである。

 鶴田はプロレスの名勝負の条件を挙げ、そこに自らのプロレスの理想像を投影
させている。また、時間軸に沿って、自らのプロレスとその名勝負の条件の成就
について分析し、自身のプロレスラーとしての成長を吟味している。鶴田は名勝
負の条件を7つ挙げているが、あえて3つに整理しよう。それぞれ(1)試合環
境(2)競技性(3)演技性とカテゴライズできる。

 (1)試合環境とは試合を構成する舞台設定であり、試合以前にその試合がも
つ意味を構成する。例えば、タイトルマッチであるとか、対戦相手と実力差があ
ることが周知の事実であるとか、あるいは体格差が大きい、プロレス歴の違いな
どなどである。見る側もプレイする側もこれらを少なくとも暗黙裡には共有して
いるはずであり、当の試合の意味を社会的な広がりとして構築する。

 (2)競技性とは、プロレスにおける勝ち負けが真剣勝負として見るものに提
示されるということ、また試合の過程において技術上の取り合いや駆け引きがプ
レイする者の体験として勝ち負けを構成しているというリアリティに関わってい
る。補足ではあるが、鶴田は修士論文という枠組みではあるが、あくまでプロレ
スラーとしての仁義を守り、シュート活字的視点を論点として提示することはな
い。

 (3)演技性とは観客に提示するスポーツであるという視点から「ほんとうの
試合の勝負から来るプレイの能力と観客の期待感が切れないギリギリのところ」
で構成される名人芸、演技力である。ここで鶴田が強調するのは、プロレスの試
合が「華麗なる見せ物」になってはいけないという視点である。この演技力はス
ポーツとしての名勝負を構成する範囲内で許容される。この一線が引けないこと
にはプロレスリングは構築し得ないと考えられている。

 ある舞台設定という試合環境の元、この競技性と演技性が絶妙なバランスで構
築されるとき、プロレスの名勝負が実現する。鶴田の言葉では「実力勝負の世
界」と「観客を魅了する世界」のバランスの上でプロレスは成立しなければなら
ない。また前者に秀でた試合を「プレイ内容のある試合」、後者に秀でた試合を
「名人芸、職人芸の演技としてのプロレス」と差異化して表現している。特に名
勝負が初対決に多いとの指摘もされている。初対決であることによって、対戦す
る両者は双方の実力や価値判断をもっていない。かつ、観衆もまたその尺度を共
有していない。そのため、緊張感のある攻防が生み出されるケースが多いという
指摘である。昨今のプロレスではそのスタイルが細分化され、かつ技の基本がレ
スリングから逸脱することも多く、初対決がただぎくしゃくした試合となる可能
性が高くなっているのではないだろうか。このような視角を拡大解釈してみれ
ば、プロレスリングがプレイする者の間において共通言語として成立し得ないこ
とになる。それはプロレスリングというジャンルの大きな変容を意味することに
もなるだろう。

 さて、鶴田はこの名勝負の学習過程、つまりプロレスラーとしての成長と円熟
を自らの名勝負12試合を選択し分析している。最初の試合が、1971年10
月9日の日本でのデビュー戦である。ジャイアント馬場とファンクスの3人の師
匠に取り囲まれ、この3人の試合の駆け引きに呑み込まれ、付いていくのが精一
杯であったと分析としている。
 ちなみに12選の内、ガニア戦(1976年3月10日、日大講堂、ジャンボ
鶴田試練の10番勝負第1戦)を紹介しておこう。
    
     バーン・ガニア(1―1)ジャンボ・鶴田
         1、ガニア(裸締め、19分54秒)
         2、鶴田 (原爆固め、9分54秒)
         3、両者カウントアウト(13分52秒)

 ガニアの関節技は観客の見えないところでしっかり私の腕、足、首を極めてき
た。コー チ学的にはレスリングの基礎テクニック、相手の腰に重心をあびせて
動きを止め、さら に立てなくするために左足を殺している。完璧にコントロー
ルしつつ、攻撃をゆるめな い。左足を殺し、同時に右腕を殺すという技術は寝
技の基本である。攻められた側はつ まさきを立て、相手のコントロールに任せ
ず、虎視眈々と反撃の機会をうかがう様子  は、なのあるレスラーを感じさせ
られ、基礎の大切さをこの試合を通じて改めて思い  知った。

鶴田は、ガニアの実力が本物であったと感想をもらし、またアマレス出身同士で
あっただけにやりにくさとやりがいを感じたという。我々が鶴田の言説を信じる
限り、鶴田がこの試合を自ら評価する理由は先のプロレスの”内なる”競技性、
あるいは「プレイ内容のある試合」であるという点にある。
 最後は1990年の対三沢光晴戦で「胸を貸した」敗戦である。しかし、この
ころの鶴田は「胸を貸す」という余裕を感じながらも、そろそろ自らの絶頂期が
終焉に近づいているとの実感をもっていたという。このころから、新しい人生設
計を考えはじめた鶴田は、その後第2の人生へとチャレンジし、大学院へと進学
したのである。

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