第38回 ジャンボ鶴田修士論文読解 Part2
■投稿日時:2002年5月14日
■書き手:Drマサ


2 鶴田友美の生活史

 ジャンボ鶴田=鶴田友美は1951年3月25日、山梨県東山梨郡において
父・林、母・常代のもと「未熟児すれすれ」で生まれた。母は小柄ではあった
が、父・林は179センチ・90キロ、軍隊時代柔道で鍛えた体躯をもっていた
という。この父はスポーツ好きで、「スポーツで日本一になれ」というのが口癖
だったという。後にアマレスでオリンピック出場を果たしたことからしても、こ
の父の言葉が言霊となって鶴田を導いたのかもしれない。資料には鶴田家の家系
図が示されている。

 幼少期は山梨の自然環境の中で育っている。「学校が山の中にあり、毎日走っ
て畑の中を通学した」、また農家という家庭環境からその手伝い、力仕事を行
い、生活の中で身体が形成されていったことが重視される。それら生活を構築す
る環境風土によって培われた筋肉を「生活筋肉」とカテゴライズする。仮説では
あるが、この人間として自然な生活環境において形成される筋肉、あるいは身体
のあり方を理想として位置づけている。いわゆる科学的な方法によって身につけ
る身体のあり方は身体形成において従属的な地位を占めるのであって、日常的な
生活環境の中で自然環境の利用することを第一義としつつ、つまり換言すれば、
体を鍛えるという目的意識があるなしに関わらず身体は形成されていくことに着
目するのである。我々は日常的な所作の中で、自ずと身体を形成しているのであ
るが、スポーツに秀でたものはその日常的な身振りにおいて、スポーツに秀でる
べく高度な運動を身につけているのである。

 これは科学的なトレーニングが無意味であることを全くもって意味しない。以
前、アントニオ猪木が指摘していたことが補助線となるので接合してみよう。猪
木によれば、昔の農家は人糞を肥桶に入れて、肩にかついで運ぶ際、人糞を道に
落とさないバランス感覚をもっていたという。これは人糞を運ぶこつという一様
相に留まるものではなく、様々な場面でのバランスという身体の機能の基礎を十
二分に獲得していることを意味する。現代人は総じてこのようなバランス感覚を
身に付けていない。また身につけようとしても、大変な労力と時間が必要となる
だろう。

 鶴田は例証として女子柔道アトランタ五輪代表の田辺陽子を上げている。田辺
が柔道をはじめたのは高校3年とかなり遅いが、それまで培ってきた身体能力、
特に陸上における投擲競技の経験が柔道競技の技術特性と身体の潜在的な能力と
結びつけられ、柔道の成功へと導いたと考察する。

 つまり、鶴田はこのような事態を説明する概念として「生活筋肉」を提示して
いるのである。この「生活筋肉」の高度に発達した身体をもつ者が科学的トレー
ニングを行うことによって、そのスポーツ競技に即した身体の獲得が促されるの
である。つまり「生活筋肉」は身体形成の土台により高い可能性を付与する。ま
た、このような身体観からすれば、現代人と呼称されるイメージによって想起さ
れる人間にとって失われた身体ということになるのである。

 鶴田の少年期は自然環境に恵まれ、また農家という生活環境から帰結される
「生活筋肉」を獲得し身体をはぐくんだのである。東京オリンピックが開催され
たのは鶴田が中学生のころであり、かなりこの世界的イベントにインパクトを受
けたようである。「スポーツで日本一になれ」という父、叔父が元幕内力士甲斐
錦、また中学2年生の時には朝日山部屋に体験入門したというスポーツに囲まれ
る環境の鶴田少年にとって、東京オリンピックは世界と自身の内面世界の多様な
事象によって大きなインパクトを与えられているその生き方を方向付ける力を有
していたようである。このインパクトが鶴田に与えた影響は重要な社会学的要因
と考えられる。なぜなら、個別具体的な経験に明確な論理や感動を思い起こさせ
るのは実はなかなか少ない出来事だからである。つまり、このインパクトはある
まとまりのある物語として意味世界をその内面世界に構築する内的かつ外的出来
事であり、そのため鶴田自身にとって有意味な内実を構築させるのである。鶴田
は、その様な意味で、オリンピックによってその内面世界を大きく変容させたと
いえるだろう。

 事実、鶴田は市川崑監督の映画「東京オリンピック」を記録映画としてではな
く、「競技する選手の内面を描いた人間ドラマ」として捉えている。つまり、ス
ポーツがもつメディア的性格としてメッセージを提示する部分に魅了されている
のである。ここではそのイデオロギー的性格の批判は回避しておくが、特にその
メッセージ性は「何か象徴(本質的価値、魂の部分)」という、鶴田感じるとこ
ろの人間の普遍的価値とされている。つまり、これがインパクトの内実である。
また、山梨出身のオリンピック選手、例えばマラソンの円谷などを身近に感じて
いたという。

 鶴田自身の中学時代のスポーツ実践の記述は意外に少ない。しかし、高校時代
の記述は具体化し、鶴田自ら分析を行っている。文武両道の日川高校に進学し、
野球部に入部するが、近眼により断念し、身長によって利するバスケット部に入
り、3年連続高校総体に出場、国体では旗手まで務めている。バスケットの経験
は先の少年時代に獲得した「生活筋肉」の能力に関わって、その能力の延長線上
に「身体のバランス、速い身のこなし、持久力、ジャンプ力、試合の構成力が磨
かれ」たと自己分析している。

 また、県の相撲の大会に借り出され、1週間の練習で3位になったという。ま
た体育の授業でのラグビーの経験が後のレスリングのタックルに役だったと叙懐
している。ラグビー担当の教諭からラグビー転向を進められていたようだが、目
立たぬポジションであるロックに魅力を感じていなかったようである。鶴田によ
ればラグビー出身のグレート草津と阿修羅原は「余り器用でなく持久力はあるが、
レスリング技術がない」と評価している。ここで強調される観点は、先の「生活
筋肉」から帰結される「自然に作った筋肉」のスポーツにおける重要性である。
ちなみに霧島関を具体的事例として、その努力を評価しつつ、人工的に作った筋
肉が直接その強さに結びついたわけではないと分析している。

 中央大学に進学した鶴田は当初バスケット部に入部する。ちなみに法学部を選
択した理由は「つぶしが効く」と考えたからということである。バスケットの日
本のレベル、また団体競技であることからオリンピックにでることは不可能であ
ると判断した鶴田は、あっさりバスケットを捨て、レスリングをはじめるのであ
る。若き鶴田にとって、オリンピックは「社会的価値+個人的価値」追求の最高
の場として唯一絶対の価値、強烈な憧れを持っていたようである。鶴田は「当時
私はオリンピックにでることが目的であって、何の種目ででるかは手段であっ
た」と述べている。ゆえに、他人にとっては驚くべき選択ではあるが、鶴田にと
って自身の可能性を発揮できるオリンピック競技がレスリングであるという選択
はその内的動機からすれば当然であったようだ。

 しかしながら、決して順風満帆ということではない。中央大学レスリング部は
バスケットから”逃げ出してきた”鶴田の入部を拒絶する。20歳になってはじ
めたレスリングである。ゆえに、オリンピック出場のためには人一倍の努力を要
する。鶴田は1日6時間の練習、自衛隊体育学校で週3日の練習、肉体改造とし
てのボディビル、個人練習によって、大学2年で社会人選手権で3位、大学3年
で全日本選手権や国体で優勝するまでになる。これらの実績から、大学4年の時
には、入部を断られていた中央大学レスリング部から勧誘があり入部することに
なる。鶴田はこのような経緯を自らの「反骨精神」の表れと叙懐する。ちなみに
ラグビー・バスケットの経験がレスリングのスピードに関して適応し易かった
が、パワーとバックを取るという動作が初めての身体所作であったため適応には
時間が必要であったという。

 鶴田は国内で好成績を上げ、ミュンヘンオリンピックに出場するが、その成績
は芳しいものではなかった。結果は2回戦警告負けである。鶴田は経験不足と国
際ルールに不慣れであったことを敗因として分析している。実際3分3ラウンド
のルールでの試合が初めての経験であったという。しかしながら、実質3年間の
経験もない鶴田が世界の最高水準で力負けしたわけではないというのは驚くべき
事実である。オリンピックの結果はこのようなものではあったが、世界の桧舞台
への参加、また日本はもとより世界のトップ・アスリートとの交流を十二分に楽
しんだようである。特に日本バレー・チームと行動を共にすることが多かったよ
うだが、大古選手に「大会が終われば俺はどこかのバレー部の監督だけど、鶴田
はプロレスができるから良いなあ」と言われたそうである。プロレス入りの少し
ばかりの動機付けとなったのかもしれない。

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