第34回 死に包囲されるプロレス、死を包囲するプロレス Part5
■投稿日時:2002年3月1日
■書き手:Drマサ


5 死で包囲されるプロレス

 三沢率いるノアは自由を旗印に、王であるジャイアント馬場の狂気によって創
造された世界から逃走した。いや、「〜からの逃走」であるというよりも「〜へ
の逃走」という男性原理に満たされた行為であるといった方がいいかもしれな
い。しかしながら、このような自由を希求する自意識に縛られた行為は世界の無
根拠性を前にいつかしっぺ返しを喰うはずである。

 香山はこのノアの旗揚げに際して、ディファ有明の前に設置されたスクリーン
を観戦する観客の振る舞いに着目する。超満員にふくれあがった旗揚げ会場に入
りきれなかった観客は、この会場前にあるスクリーンをまさに行儀よく鑑賞して
いたのである。それはプロレスファンの熱狂や興奮とはかけ離れた、「何もな
い。どこにも行けない。そんな世界の際にある場所に集まり、じっと何かを待っ
ている静かな人たち」であった。それはノアのレスラーが金髪になり、会場内で
自由な振る舞いを見せびらかしているのとは余りに対照的な光景である。

 香山はこの観客を「まるで”死者”のように」と形容し、自由によって逃走し
きれていたはずの死がノアの旗揚げを完全に包囲しているのを発見する。馬場の
狂気が我々プロレスファンに礼を要求していたのを忘却するわけには行かない。
ゆえに、会場の外部の観衆は「まるで”死者”のように」正しき振る舞いをして
いるのである。「旗揚げの日、会場は死で包囲されていた」のである。

 ノアというプロレス史の1ページを包囲する過去のプロレス。それはジャイア
ント馬場という存在によって象徴される。プロレスを真に見る行為とは、会場の
内部でノアの旗揚げ戦を熱狂において感受することではない。まさに外部に存在
し、内部を包囲することによって歴史化する過去のプロレスや、そのプロレスに
おける狂気と共に今現に実践されているプロレスを歴史的現実において感受する
ことである。それは、まさに過去に生きた者たち、つまり死者との語らいなので
あり、かつ狂気という理不尽の存在を前に「礼」を知る行為なのである。プロレ
スを見るとき、我々は沈黙しなければならないのだ。

 このような死との関係性は、我々が生きる現代社会にとって奇異なことなのだ
ろうか。現代社会において、メディアが死を表象するのはいうまでもない。我々
はワイドショーやニュース番組、あるいはドキュメントなどテレビの中で、ある
いは新聞、雑誌などにおける多様なメディア環境の中に死の表象とその意味を求
めることができる。

 しかしながら、結局は死それ自体を対象化する不可能性を前にして、死の周り
に配置される生者の振る舞いや、死者の生前の振る舞いにおける欲望のあり方に
飼い慣らされてしまう。例えば、ワイドショーなどでよく見られる光景である
が、有名人の死に直面して悲しみに暮れる人々が映し出され、その周辺にその死
を装飾する多様な言説や映像が配置される。それらは、メディアの欲望によって
構成編集され、”未だ生きている”オーディエンスの読解と共に、メディア・テ
クストとして死それ自体と交換不可能な地点において、生の頽落的な持続が我が
物顔で闊歩する。現代のメディア環境は、メディアという反自然主義的な領域に
おいて、死に対して独自のリアリティと意味を生産しているのである。ただし、
それは勿論、死それ自体ではなく、死の周辺に関してであるが。

 現代のメディア環境においては、近代においてタブーとされ隠蔽されるはずの
死が闊歩している。我がプロレスにおいても同様である。ジャイアント馬場が不
意の死を遂げた時、メディアはジャイアント馬場の死をめぐって様々な物語を提
示し続けた。ジャンボ鶴田においても同様である。

 ジャイアント馬場が死に至るまでの病状などを中心として、その経過を懇切丁
寧に伝える。時にはフリップという仕掛けによって、より伝達が安易になるよう
に。そこでは、死という不可能なものが安易なものへと交換される。そして、元
子夫人との二人三脚を愛のドラマとして構成し、全日本プロレスの一員の父とし
て、あるいは正直な人物として、また悲しみに暮れるファンを映像により切り取
り、アントニオ猪木との関係を過剰に語り、死の周辺の意味をメディアの前の視
聴者の日常に伝達する。この死の周辺をポリフォニックに語ることによって、生
きるところの意味を過剰に語るのである。それは、まさに死の隠蔽であり、三沢
が自由を勝ち取ろうとするその欲望と大きな差はないと思われる。そこにジャイ
アント馬場の王としての狂気が表象されることはない。

 メディア・テクストによってジャイアント馬場の死を経験するということは、
実に生に根ざした映像によって死が意味され、それによって視聴者であった我々
はジャイアント馬場の追悼をしたのである。同時にジャイアント婆の周辺にいる
者たちの様々な生や、ジャイアント馬場の過去の生を経験することを意味する。
ここに、死をタブーとする近代のイデオロギーが反転した形式において当のイデ
オロギーが完遂するのである。死が持つ”生々しさ”やあるいは表象不可能性は
そこに存在しないものとして浄化されている。つまり死は生の形式によって、現
代社会においては消費される財なのである。死の周辺に生を配置すること、これ
こそが近代の欲望のひとつの結実ではないだろうか。

 しかしながら、先に論じたノア旗揚げをめぐる死のあり方は、この近代の欲望
とは全く反対の形式を有している。つまり、生の周辺に死を配置すること。死に
よって生を包囲することである。我々は日常飼い慣らされた死を経験することに
よって死をリセットし続けるというのに、プロレスという芸術形式は、この飼い
慣らされた死とは異なる位相で死を経験させてくれるのである。しかも、ここで
意味する死はその暴力性ということからもほど遠い。

 生と死が記号交換されるのを拒む表象のあり方というものがある。トスカーニ
は広告分析の中で、資本主義社会というシステムによって生と死の交換装置とし
ての広告が、生が断ち切られた瞬間のリアリティを、あるいはその死の不可解な
暴力性をその交換の狭間に存在させてしまうと指摘する(トスカーニ 1997
『広告は私たちに微笑みかける死体』紀伊国屋出版)。例えば、戦争をメディア
が伝達するとき、戦争における生の側面が前面に押し出される。アメリカが自由
と正義を強調する文脈とはそういう側面を持っている。しかし、その背後には血
塗られた死や苦痛が埋もれながらも存在しているのである。それは、ジャイアン
ト馬場の死を報道するメディアにおいても同様である。ジャイアント馬場の亡骸
を見ることが無理であるのは当然である。もし、その亡骸を見ることができたの
ならば、生前のジャイアント馬場のプロレスラーとしての勇姿やプライドが、死
という暴力性によって無化する瞬間を目撃することができたはずである。確かに
それを目撃することはなかった。しかし、病によって生が断ち切られた瞬間を葬
儀の映像は担保していたはずである。

 しかしながら、それにもまして、生を包囲する死のあり方は死を隠蔽しようと
いう近代の欲望を余りに演劇的な誇張を持って、あたかも静止画像のように、近
代のその帰結を暴露してしまっているのではないか。プロレスは死を隠蔽する生
を劇場化するのではなく、「死を隠蔽する生を劇場化する」空間を劇場化してし
まうのである。バルトはプロレスには歴史がないと言い放った。確かに歴史は近
代のものである。それゆえ、その近代のメカニズムを暴露する劇場であるプロレ
スに歴史そのものは存在しない。プロレスにとって、歴史は死を媒介とする素材
でしかないのだから。近代的な欲望によって、自由を謳歌しようと前進するノア
の空間は、いつかは死や狂気が降り懸かる時がやってくるのではないだろうか。
香山は「試合中も無数の「死たち」が会場の外から支えていた」と、この劇場空
間の構造を見通している。川田利明が全日本プロレスに残留した事実とは、単に
ジャイアント馬場の死に対して畏れを抱くゆえ、三沢らと異なり選択するという
近代的な欲望を見いだせなかったということなのかもしれない。この服従こそが
真の自由である求道者の選択ならざる選択なのである。ここには自由と強制の区
別がない。

 フロイトは死の欲動こそが一切の欲動、つまり生の欲動の根源ではないかとた
じろぎ、このニヒリズムを回避した。しかしながら、近代という生の欲動を囲い
込む死のあり方を想起せざるを得ない。つまり、生の根源としての死を。死を前
にして、敬虔であり畏れを持つこと。つまり「礼」を失わないことこそが、死を
生に代置し忘却することを拒否するプロレスのあり方なのである。それでも尚、
死それ自体を人間は知らないのであるが・・・。

#今回テキストとした香山リカさんの(連載)「デッドマン・レスリング」が単
行本『死の臨床格闘学』(青土社)と名付けられ発売されています。今回このコ
ラムでは取り上げていない死とプロレスの関係の考察は非常に面白いので、お勧
めしておきます。

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