第33回 死に包囲されるプロレス、死を包囲するプロレス Part4
■投稿日時:2002年2月13日
■書き手:Drマサ


4 狂気を閉め出すプロレス

 2000年8月5日、全日本プロレスから離脱した三沢光晴率いるプロレスリ
ング・ノアはディファ有明にて旗揚げした。そこでは、ジャイアント馬場によっ
て育てられた王道・全日本プロレスとは少しばかり異質な空間が築かれていた。
新エースと目される秋山準のフロント・ネックロックによる”旧”エース三沢光
晴の秒札劇。また同様、秋山による2本連取。確かに、新しいノアによるプロレ
ス空間には鮮烈な印象と変化の風を感じた思いがした。

 ノア旗揚げに際して、社長三沢が掲げたテーマは「自由」であった。事実、
「反復強制的に『王道プロレス』を続けることを強いられてきた」プロレスラー
は、全日本プロレス時代とは打って変わって、コスチュームや観客へのアピール
など様相を一変させる者も多かった。そして、ジャイアント馬場が許さなかった
花道が設定されていた。香山はこの旗揚げに際して変化したプロレスラーのヘア
ースタイルを象徴的に取り上げる。

 自己を表出する行為として、社会において道徳的な振る舞いから逸脱するとい
う戦略がなされることがある。例えば、サラリーマンがサラリーマンとして自己
を律するとき、その服装や言葉遣い、マナーなどは一定した振る舞いとなる。し
かしサラリーマンが自己を表出しようと欲するとき、それら一定した振る舞いか
ら逸脱するという戦略がなされるときがある。つまり一定した振る舞いによって
規定されるサラリーマン像と、そこから逸脱するサラリーマン像との差異が、彼
という人間の表現となるのである。この差異は、”〜にあるまじき”という規範
に縛られてきた者にとっては、ひとつの飛躍があるゆえに、自己表出となるので
ある。ジャイアント馬場によって律されてきた王道プロレスにおいて禁止されて
きた茶髪は、ひとつの表出行為なのである。

 しかし、ノアの選手たちにとって船出の日の茶髪や金髪は、社会の制度への異
議申し立てでもなければ偽装し続けることからの逃走でもなく、解放の喜びの表
明を、あるいは漕ぎ出す未知の大海原に引く新たな航路のトレースを意味してい
た。国家はもはや転覆させる対象としてあるのではなく、新たに創設するものな
のだ。

 ノアの選手たちが茶髪にすること、花道で自己を過剰にアピールすること、あ
るいは、既存の王道プロレスとは異なる表現方法のプロレスを選択すること、こ
れらは自由な選択による新しいプロレスの構築として捉えられるやに思われる。
おそらくノアの選手もまた「若さとパワーと情熱にあふれる、統治なき自由な新
国家」と新団体を考えていただろう。そういえば、「力道山の意志を継いで…」
という旗揚げに際した常套句が聞かれないのは、またどうしてだろうか。

 しかしながら、ノアのプロレスが自由に裏打ちされたプロレスであると判断す
るわけにはいかない。自己の身体を通じて産出し獲得された対象物、例えばそれ
はプロレスラーの身体やその茶髪でもいいだろう、それらは私的財産であるとし
てその所有権が正当化されるのは、資本主義の原則「身体の自己所有」をその根
拠とするだろう。私的所有とは自由であり、「身体の自己所有」という理念に支
えられているとロックはいう。確かに、このような”道徳”は現在でも強固なも
のである。

 しかしながら、身体を主体の特権的な所有物として捉える考え方にはなにがし
かの違和感がつきまとう。例えば、我々は臓器売買や売買春、極限的な競技化の
果てに見いだされたドーピングや麻薬問題、カルト集団の無制限な自殺を自由と
して認知することに躊躇してしまうだろう。この倫理的な抵抗感の源とは、身体
の非所有、あるいは自己ならざるものに所属するという局面である。つまり、自
己の根源的な他者帰属が見いだされる。このように自己性の直中に他者が組み込
まれているということの自覚は、倫理の萌芽となる。自己の非所有が他者との関
係に身を開かせることによって、暴君的ともいえる統一的な近代的自己像を回避
させ、かつ責任回避という自己放棄に向かわせるよりも、さらに責任ある主体像
を可能とさえする。

 この責任ある主体像はいかなる他者と関係を持つことになるのだろうか。それ
は、具体的な人間の声であることを乗り越えた声、またその声によってもたらせ
られる言説が否定的告知であってはならないこと、あるいは選択的条件=確定記
述であってはならない、その様な”声”の他者である。この問題は我々の身体に
所属する他者性が、具体的な個別的主体であるよりも「存在論的=仮想的」な他
者であることにつながる。それでも尚、具体的他者による承認によってのみ、つ
まり他者の選択という責任によってのみ成立するという形而上学と現実の交叉と
いう飛躍が見いだされる。実はパラドキシカルにも、選択の自由のないところで
行う受動的選択にこそ自由は存在する。この拘束のあり方が、根拠なしの選択、
選択ならざる選択、いわば我々の欲望、自由なのである。

 茶髪にし、花道を闊歩し、自由にアピールするプロレスラーの振るまいが、解
放され自由を獲得したと歓喜するとすれば、それはロック的な自己によって自己
所有した身体という錯誤をこそ歓喜しているに過ぎない。

 香山はこのような自由のパラドキシカルな性格を、「王の狂気」という無根拠
の力学から接近する。「王」とは勿論ジャイアント馬場のことである。つまり、
ノアの旗揚げとは王であるジャイアント馬場によって生み出された世界からの離
脱なのである。このあまりにもありふれた事実の背後にある心理の内奥を考えて
みよう。

 香山は丹生谷貴志の『死体は窓から投げ捨てよ』を引用し、王と国家設立の関
係からノア設立へ接近する。国家設立においては、無根拠と理不尽であることを
性格とする王の狂気が媒介となる。つまり国家設立には本来的にはどのような根
拠もありえない。しかしながら、その無根拠を飛躍し、王は国家設立を断言する
という理不尽を実践する。もし理性が稼働するなら、国家設立の無根拠から国家
設立という選択肢は除外視される。とすれば、理性と対比される狂気こそが国家
設立の根拠となり、この狂気を一身に引き受けることによって、理不尽な「礼」
=規範が設立される。王の狂気の引き受けによって、他所での狂気の流出が回避
され、この秩序が保たれる。西欧世界というものは、この王の狂気をキリストと
いう超越者に引き受けさせることによって、狂気を神に引き受けさせ、生活世界
における狂気は間違いであると排除し、啓蒙化の対象とするのである。いわゆ
る、狂気の締め出しである。とすれば、ノアの旗揚げとはジャイアント馬場によ
る「礼」=規範からの離脱という、狂気の締め出しではないか。

 「先王の狂気」や王の設立した「礼」を否定し、狂気や死の色を消し去ったこ
とにより、解放されて自由を獲得したと歓喜するノアは、まさに王の支配を断ち
切り、合理的なキリスト狂的な合理的世界を作り上げた西欧の歴史の写しとして
考えることができる。

 三沢率いるノアは、先のロックによって支持される自由を獲得しようとの欲望
に先導され作り出された西欧近代史の構図と合致する。真の解放や自由という啓
蒙の目的とは、西欧の歴史を貫く狂気や無意識の合理化という自家撞着、倒錯的
志向なのである。ノアは、ジャイアント馬場によって作り出された「礼」=規範
を、その出所でである狂気を閉め出すことによって拒絶し、自由を中心的理念と
した世界の秩序をノアのプロレスラーという地上の人間を主体として構築しよう
とする企てなのである。

 大森・高山のノーフィアーがノアの中で理不尽な振る舞いをし、狂気を演出し
てはいる。しかし、それは演出された啓蒙化された理性によって計算された振る
舞いであることは明らかである。ゆえに、ただ「アングル/ヤラセ」としてしか
見いだせないのである。しかも、それはある一定の限界を受容しつつ、本人の自
由な選択として。それは、理不尽な礼によって作り出された力学を喪失してい
る。ゆえに、アングルがヤラセであることを乗り越えるリアリティ産出装置とな
ることは稀少な出来事になるのではないだろうか。

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