第31回 死に包囲されるプロレス、死を包囲するプロレス Part2
■投稿日時:2002年1月13日
■書き手:Drマサ


2 死を内包しないプロレス

 香山は2人のプロレスラーに魅了されている。現在の”アメリカン・バッド・
アス”ではなく”葬儀人”ジ・アンダーテイカー、もうひとりは新崎”ハクシ
ー”人生。2人は、死を表象するキャラクターを演じている。

 プロレスはバルトが指摘するように、カーニバル的世界を、リングを中心とし
た空間において現実化し、人間における生それ自体を喝采し、喜びを体現する。
この空間に死が介入することは難しい。我々が生きる社会の道徳という生の仮止
めは、プロレスにとってたやすく乗り越えられ、侵犯され、あるいは無効化され
るためにあるかのようだ。

 生の仮止めとは死という本来的可能性を忘却させる装置である。ハイデガーの
いう「世人」は、平均的日常において世事の内にこの本来的可能性としての死と
直面することに抗らっている。その抗いを具体化したものが道徳である。つま
り、死と没交渉化するために道徳という安全が仮構されるのである。しかしなが
ら、逆説的にも死の本質的契機からするならば、道徳の堅守は生における死の内
在化であり、仮止めとしての死なのである。我々が道徳を堅守するとき、はから
ずも常に死を迎えているのである。

 しかしながら、プロレスは死さえもカーニバル的に乗り越えるかのようなカオ
ティックなジャンルのように思われる所がある。プロレスを観戦するとき、身体
が巻き込まれていくような過剰な関与のあり方があるのはいうまでもない。とこ
ろが、その横で弁当をむさぼっていたり、つまんなさそうにビールを飲んでいる
観客さえいる。それはあたかも「試合を見ない自由」さえ付与された弛緩した空
間と、熱狂する空間を混在化させている。

 生きることにまつわるすべてが、ここではその存在を許されているような気が
する。これら、あたりに充満する生命の破片、いわば生のモナドたちは決して互
いに何らかの関係性を結び合うことなく、広い天井に散逸していくのだ。かくし
て会場は、弛緩した生の雰囲気で充填される。

 弛緩し、散逸した空間を生み出すのは何か。それは「ここにあるのは死に裏打
ちされた生ではないからだ」という。それは先に挙げた「世人」が死の忘却のた
めに、生の仮止めである道徳を遵守する事態とは明らかに性格が異なっている。
なぜなら、プロレスにおいては、道徳とは侵犯されさげすまれるためにある文化
的仕掛けに過ぎないからである。道徳の遵守が死を忘却するために死を前提とす
ることによって、死をまとわりつかせるのに対して、プロレスにおけるカオティ
ックな空間は道徳を侵犯する自由によって、死を遠隔化し、生のみをまとわりつ
かせるかのようだ。それは道徳を遵守するとしても、既に侵犯のための可能性と
して開かれているがゆえに、既に遵守という効力を無効化しており、道徳という
シニフィアンにおいて、道徳が持つ一般的なシニフィエが接合されていないとい
う事態になる。つまり、プロレス空間においては、道徳というシニフィアンが過
剰の振る舞いを獲得しているために意味を脱構築してしまうのである。

 香山が指摘するとおり、プロレスは死に言及した言説を数多く持っている。
「死神」「秒殺」「殺人医師」・・・、しかしこれら死に言及し、そのヒール性
や残忍性を誇張したとしても、それがギミックであり、リングというカオティッ
クな空間に縁取られれているがゆえに、そこに真に死が待ち受けている訳では勿
論ない。死の周りに付随する否定的なイメージや残忍性、あるいはフリークス的
なイメージをさらにイメージ化する”シュミラークル”的な死が待ちかまえてい
るのみだ。死にまとわりつく表象をシュミラークル化することによって、「レス
ラーも観客も、誰もそこで繰り広げられている性が不確かだとは疑っていない。
そこに身をおく限り、生命は採最初から保証済みのものとなるのだ」。生命はバ
ルトの指摘するとおり「光の輪の強烈で垂直な性格」として、意味世界の創造的
な弁証法を謳歌するのである。

 香山はこのようなプロレスと死の関係を要約する上で、根拠のない絶対的な確
信、つまり「ブロディもアンドレも力道山だって生きている」とする元プロレス
マニアの分裂症者の話からふたつの真実を発見する。その観念は、鍛え上げ、超
人的な強さを持ったプロレスラーが死ぬわけがないとのシュミラークル的確信に
支えられている。(1)死を内包しない(2)死という対立項を持たず浮遊しな
がらいつまでも続く。そのような生の「光の輪の強烈で垂直な性格」が真実とし
て照らされる。

 死は万人に確実に訪れるはずである。私たちの明日に、いやまさに現在に控え
ている。このまま今の私の消滅としてイメージされるはずの死が、プロレスラー
は永遠に闘い続けるものとしてメタ・イメージ化されているのだ。死という観念
の失効。まさに、人間にとって最上の幸福ではないか?生身の身体を乗り越えた
身体を謳歌するプロレスラーに死が訪れるはずはない。とするならば、プロレス
において死という言葉のシニフィエが脱構築されているのである。そしてそれを
実現する仕掛けは、プロレス空間における死というシニフィアンが、いわゆる死
という観念を保存させている普通の死というシニフィアンと異なる言語となって
しまうことにある。プロレスにおいて死というシニフィアンは過剰な振る舞いを
謳歌するのである。「死という対立項を持たず」とも死というシニフィアンは存
在している。とすれば、死のシニフィエは生ではないか?

 ”葬儀人”アンダーテイカーは過剰な振る舞いを身につけている。「黒シャ
ツ、黒ズボン、黒ブーツに灰色の彼。長くたらした茶色の髪の隙間から覗く蒼白
い顔。名前をコールされてもてさえあげることすらしない」「アメリカンプロレ
スの世界に死と闇とを持ち込んだスーパースター」アンダーテイカーによって表
現される記号の突出性。

 彼の振る舞いは、表情を変えないとの表現を導きとして「過剰な抑制」という
過剰な身体の、シニフィアンの振る舞いを形式化している。しかし彼の振る舞い
は、「会場にあふれる浮遊する生をことごとく否定するような動きを示」すこと
によって、「光の輪の強烈で垂直な性格」にあふれるプロレス空間を素材化し、
既存の空間をずらしてしまう。つまりアンダーテイカーは、死を内包しないプロ
レス空間に死を代入するのである。それは豊かな生の浮遊運動を死によってその
運動を停止する”事件”である。死が生を宙づりにする。

 アンダーテイカーの執事ポール・ベアラーは次のようにいう。

 アンダーテイカーは、ずっと彼方に何があるのかを私たちに知らせてくれるた
めにここにいる。誰もが死すべき人間としてこの世に生きる時間を与えられてい
る。しかし、それが終わったあとに、まだ何かが待っている。彼はそのことに気
付かせるものなのだ。


 しかしながら、死のあとに何かが残っていえるなどと本当にいえるのだろうか。
まさか単に死語の世界の存在を主張しているなどと捉えるわけにはいかないだろ
う。まさか大衆に向けられた儀礼的メッセージに過ぎず、大衆操作するためだと
はいえないだろう。プロレスという摩訶不思議な空間で、”事件”としてあるこ
の言葉とその言葉を身体で体現するアンダーテイカー。近代的で典型的な死の感
覚を素材としながらも、”死それ自体”からは遠ざかっていく物語ならぬ物語を
かいま見せている。

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