第30回 死に包囲されるプロレス、死を包囲するプロレス Part1
■投稿日時:2002年1月8日
■書き手:Drマサ

テクスト:
香山リカ、「ジ・アンダーテイカーと死のプロレス」『イマーゴ』1994年9月号
     「薔薇の薫る暗闇に指を這わせるように」『インターコミュニケーション』11号、1994年冬号
      (連載)「デッドマン・レスリング」『ユリイカ』2000年8月号〜2001年7月号


1 プロレスとテレビの親和性

 武道館で行われたジャイアント馬場の”お葬式”。死者の霊に向かい長蛇の列
が北の丸公園の木々の間隙をぬう。その長蛇の列のひとりとして私も存在してい
た。ふと見上げると木漏れ日の間隙から、菱形の光が目に飛び込んでくる。なぜ
かその光の陰は暗く滲んでいる。たしかなことは膨大な記憶という過去の結実で
あり、新しい季節の到来である。しかし、ふとした刹那、これは巡ってきたもの
と知ってしまう。過去に幾度も経験してきた記憶が回帰したのか。なぜ、暗く滲
む陰が見えたのか。おそらく、死を数えてしまったのだろう。死こそは知りえぬ
人知を越えたもの、そう信じてきたのに。なぜ、ジャイアント馬場を弔うため、
私はその時、武道館にいたのだろうか。

 死を知りうるとして、数学のごとく計算する人々を愚劣なものと笑ってきた。
しかしそのような愚劣な態度は自身に返る。なぜなら死をこそ生き急いでいるの
が真実なのだから。そう、そこに死があることの質感を、手触りをこそ確かなも
のとしていることは錯誤でもあるのだ。しかしそれでも尚、死の質感こそが、生
成を仮止めである存在者として認定し有効とする。事象の生成は、この仮止めの
中で実に生き生きと鮮やかに姿を垣間みせるのだ。死の確信を契機とした本来的
自己に目覚めた他でもないこの存在者、そしてこの存在者を認識しようとする存
在者という自己言及的矛盾をループとして永遠回帰する問い。死という不可解
が、これらを支えつり上げている。武道館に向かう私の思考はすべからく働きえ
ないものとなり、自動人形のごとくただ並び、死者の霊のある方に向かうのであ
る。

 死の存在論的な問いとプロレスでは、余りにその問いのあり方に乖離があるよ
うに思える。しかしながら、精神医学で著名な、またメディアでの露出も多い香
山リカは両者を接合するところで、独自の考察を柔らかでかつ自由な表現の中で
行っている。今回のテーマは死とプロレスに関する考察である。

 香山はプロレスというジャンルがもつ混沌としたカーニバル的性格を肯定的に
捉えながらも、プロレスが持つ何もかも飲み込んでしまうカーニバル性が死をも
飲み込む力学を有するか否かという問いへと進んでいく。曰く、「これから始ま
る物語の中で私は、プロレスリングの唯一にして最強の敵である「死」という問
題について、そしてそこから浮き彫りにされる現代の「死」のあり様について、
ささやかな考察を行っていきたい」と謙虚でありながらも、難解な問いを構築す
る。

 プロレスのカーニバル的性格とは、テレビというエンターテイメント・メディ
アと非常に高いところで親和性を有している。テレビはブーアスティンやボード
リアールなどの社会学者が指摘するまでもなく、近代における社会のリアリティ
構築のあり方を変容させたメディアである。例えば、近代的写実主義が有する、
事物の存在や意味の存在などの客観的な存在様態の信仰に支えられていた。つま
り世界の問題規制は、客観や普遍あるいは一般からの規定として考えられ、これ
ら客観を認識するところに「ホント」が待ちかまえている。しかし、テレビとい
うメディアはこの「ホント」と「ウソ」の境界線を、映像を媒介としたリアリテ
ィ構築の多様さによって無効化する機制を動的に創出する。

 テレビというマス・メディアとは、しばし言及されるように、単なる技術中の
出来事ではない。それは社会的・歴史的文脈において理解されるべき社会的事実
である。ここで仲介すること、つまりは媒介する力学とは創造における新しい位
相の編成なのであり、リアリティ構築の手法が異なっているのである。テレビに
よる媒介作用は創造の主題となる。ここでよく問題とされるのが、受動的な大衆
像である。大衆がたやすく消費できる紋切り型に還元された文化的価値の伝達の
あり様が批判される。時には真実を伝達し報道するジャーナリズムの位相から。
あるいは真理を構築するとされるアカデミズムの位相から。大衆の受動という位
相における虚偽=「ウソ」とマス・メディアにおける伝達という位相における真
実=「ホント」との間にある乖離を、現代の重要な思想のひとつがこの不当な状
況を解消しようと努力するのは間違いない。例えば、プロレスというジャンルに
おいてシュート活字が望む姿勢とはこのような努力にあるとみることもできるか
もしれない。

 しかし、その場合、問題なのは単にこのような教育や啓蒙だろうか。教育や啓
蒙が教条的になるのはわかりやすい。とすれば、大衆化に逆らい、自由に呼びか
け、そして、大きな抽象的な全体性を持つ人工的な集団に向かうのではなく、個
別化された集団の注意と期待を推進する努力を要請すべきである。それは大衆を
対象とするのではなく、観衆に密着した振る舞いと考えればよい。このような観
衆の自発性に活気を創造することが、豊かな芸術創造の要求を具体化する礎にな
るのではないか。シュート活字といわれる言説群が、この礎の一端を構築する機
能を果たしているかもしれない。

 テレビに関しては、単純化すれば、活字によるリアリティ構築から映像による
リアリティの構築へ、あるいは常に過剰なまでの映像による出来事のシュミラー
クル化によって、構築されるリアリティが常に既視感を持っているなど、様々な
言説を生み出している。そのような言説の中で、テレビがヤラセを日常化したメ
ディアとして考えることに違和感はないはずである。ヤラセとは「ホント」と
「ウソ」の境目を対象化して命名したものといえる。ヤラセもまたリアリティの
構築を行うのである。香山はテレビについて次のように言う。

 テレビはいつだってホントとウソの境目を乗り越え、「ホントかウソか?そん
なこと、どうだっていいじゃないか」と囁きかけてくる。そして時には、ウソが
現実のホントさえ変えてしまうことさえある。

 テレビが創造するリアリティの方が、我々が現実的であると信じている事柄よ
りリアリティに関して上位の審級として構築されてしまうことはしばしばある。
そのような意味でも、リアリティとは社会的に構築される恣意的なアクチュアリ
ティの仮止めとしての現象化なのである。テレビのリアリティにおける錯綜は、
このアクチュアリティの仮止めのあり様に気付かせてくれたのである。テレビ草
創期において、プロレス番組がアメリカでもまた日本でも重要なソフトとしての
役目を果たしたのは、そのような意味で偶然ではない。そのヤラセの構造が持つ
リアリティ構築においてテレビと親和的であったが故である。プロレスはテレビ
番組として模範的、教科書的な存在であったといえる。

 プロレスには様々な演出意図やそれに伴う構成が存在する。人によってはそれ
は「ウソ」であり、ヤラセの構造となっている。しかしながら、レスラーの極限
的なパフォーマンスや、非演出的なハプニングの可能性、予測不可能な筋書きに
よる生々しい人間としての素顔や葛藤、あるいは苦しみ、苦々しさがヤラセの構
造を包含するリアリティを構築し、アクチュアリティを垣間みせる。ゆえに、逆
説的にプロレスを構成するお膳立てが重要になるのである。お膳立てが空虚なも
の、形骸化されたものではそのリアリティ構築のダイナミズムが矮小化され、単
に「ウソ」に回収されてしまう。

 よって最高のプロレスとはこのような文脈からすれば、「虚偽を問わない、ど
んな反応にも寛大である、行き着く先も目的も曖昧」「浮き世の一切の関係性や
価値観から開放され」るのである。真偽や善悪という二項対立的な我々の仮止め
の認識枠組みやその境界線が無効となるアクチュアリティを垣間みせること、つ
まり混沌をリングという芸術空間に現出させること、プロレスの美学はそういう
ところに存在する。そのためには、逆説的にも文化的仕掛けとして意図せざると
否かに関わらず”アングル”や”ブック”が欲求されるのである。よって「対立
さえ混沌の中にある」というパラドキシカルなプロレス的世界観が、世界を呑み
込んでいくのである。「ホントかウソか?」という訴状は、我々が生きる社会生
活の認識論的起点である。プロレスはこの訴状を乗り越えながらも、その背後に
この訴状を再三回帰させる永遠回帰を巡る問いを投げかける芸術ジャンルなので
ある。

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