第29回 閑話休題(2)
■投稿日時:2001年12月21日
■書き手:Drマサ

 今回は気楽にタイムリーな話題を語ってみようかなと思います。小難しいこと
を並べ立てたり、分析なんていうことを気にしないで。で、テーマはミスター高
橋著『流血の魔術 最強の演技 すべてのプロレスはショーである』について感
じたことをつらつら〜と語ってみます。手に入れたのは発売してすぐだと思いま
す。なんせ、週に3回位は神保町の本屋街をうろちょろして、新刊のプロレス本
をチェックするのが習慣になっているものですから。

 さっと立ち読みして、アラ驚き。ピーター、どうしちゃったのっていう感じで
した。まあ、下司な見方をすれば、警備会社の資金提供がなされないことからの
恨みじゃないのなどと思うのであったが、それもまたどうでもいい。マジ、内部
からのエンターテイメント宣言が遂にでたのかと正直驚きを禁じ得なかった感じ
でした。そういえば、隣で立ち読みしていたお兄さんは「何かいけないものを見
てしまった」という雰囲気を醸し出していて、何というかその気持ちを察しま
す。ある種の共感を覚えました。でも、そうやって強くなって行くんだぞ、など
と昔の自分を見ているような。まあ、私も大人になったようです。

 で、購入して、近くの157円でコーヒー飲める店で、内容を吟味。内容に関
しては、インサイダーではない私にとっては、知らないこともあり、なかなか楽
しめるものでした。ただ、既に田中正志さんの著作を読んでいたり、自ら推理小
説のごとく想像を繰り返してきたものにとって、想像内の記述ともいえるかなと
感じるのも事実。

 そういえば、実は、札幌での藤原の長州襲撃は生観戦しており、年を重ねなが
ら、ある程度推理小説的に想像はしていたのですが、現場の人間の具体的なコメ
ントはやはり迫真に迫るというか迫真それ自体なわけで、信憑度が異なっていま
す。生観戦しているときには、とにかく何が起きているのかさえ理解不能なの
に、とにかくすごい緊張感に包まれ、呆然としたものでした。高校生の私は。ア
ニマル浜口がマイクをもって、すごいテンションで何やら叫んでいるのに、会場
はシーンと静まりかえる。これはその場にいたものしかわからない臨場感なき臨
場感というか。とにかくそのシーンは、怒号があるにも関わらず静寂をもってい
る静止画像とでもいったらいいでしょうか。いまだに、私の記憶にぽっかり浮か
んでいるのです。それにしても、人々を呆然とさせてしまう力を持ったエンター
テイメントってのは、希少な芸術ジャンルではないでしょうか。

 それにしても、藤波の「こんな会社やめてやる!」まで決まり事だとすると、
それまた凄い演出であると驚愕しますが、本当なのでしょうか。勝手に想像して
いたのは、全てを藤波は知っていたわけではないんじゃあないのかと。このよう
なあらぬ想像を掻き立てるところに、プロレスのユニークネスがあるとも思える
ので、真の真相はやはりそうは掴めないような気もします。その時のメーンイベ
ントは「猪木・前田組VSホーガン・もう一人(忘れた)」で、前田がホーガン
のアックス・ボンバーでピンホール負けという何でもない試合だったのです。
が、試合後、不思議な光景が。その日の前田は精彩がなかったとは思うんだけれ
ど、猪木が前田に張り手を見舞ったのです。私の気のせいでなければ、当の前田
は不服そうな、怪訝そうな表情だったように思えたのでした。藤波の件とこの前
田の件をつなぎ合わせて、また想像を巡らすというのもまたプロレスの豊かさ、
ユニークネスだと思うんですが、いかがなものでしょうか。

 それにしても、猪木は面白いというか凄い。舌出し事件を代表として数々の事
例。「人間的には・・・」なんて、どうでもいい。なんせ我々ファンは観戦する
権利を持っているのだから。プロレスという過剰なエンターテイメントの世界
に”身を売った”者たちは、その劇的表現の独占的な地位をもっているのである
から。猪木はこの独占的地位をさらに独り占めである。常識的な世界観をその表
現世界における非日常に持ち込んで、非難するとは愚かしい。猪木は最も顕著な
創造的個性をもって表現者であることを無意識的に演じているのであろう。プロ
レスを見る体験というものは、それが人々の心に錘をおろすには、スペクタクル
として提示され刻印され、感情を表出させなければならない。そのため我々の内
なる生活の感情の奥底がドラマとして演じられることによって、プロレスが真の
プロレスとなるような気がする。猪木に振り回される新日の人間たちは、それは
ピーターも含めて常識的見解で猪木を批判する。やはり、愚かしい。と、”猪木
信者”は猪木を擁護するのであった。

 話が脱線していきそうなので、ピーター本の影響をつらつら〜とちょっと考え
てみよう。エンターテイメント宣言が八百長という忌まわしいまなざしからの完
全離脱を目指すものであると主張されているようだ。が、これはそう簡単ではな
いような気がする。プロレスがエンターテイメントであること。それは競技では
ないことをまた意味する。競技でないことは、その論理の延長線上に八百長を用
意している可能性がある。事実、「ほらどうせプロレスは・・・」という言説が
インターネット上でもあちこちで見られる。そのような無理解はやはり以外と根
深い感じがする。

 エンターテイメント宣言がいわゆるカミングアウトであるとして、アメリカの
それと同列に論じれるのかという問題。アメリカではWWFの裁判でのカミング
アウトはスムーズに受け入れられたようである。それは、アメリカではもともと
プロレスをエンターテイメントという領域に境界設定することが一つの常識にな
っていたのではないだろうか。プロレスの競技性が棄却されることに何のショッ
クも受けない風土がもともとあった。それと比較して、日本でのカミングアウト
はプロレスの中心的ファン層(週間雑誌を中心として情報を仕入れている層?)
にかなりのショックを与えるのではないだろうか。プロレス受容の社会的風土が
その中心的層においてかなり異なっているような気がする。

 エンターテイメント宣言はプロレスの境界設定でもある。プロレスというジャ
ンル自体がどのような歴史的展開によって今日のような”制度”化されたプロレ
スとなったかは、いろいろと見解があったようである。単にシュートや競技性が
存在し得ない領域として設定する場合、未来のプロレスのあり方を決定づけてし
まうような気がする。インサイダーのプロレス知識がなにがしかのプロレスのあ
り方を忘却させている可能性もある。例えば、ルー・テーズによれば、エド・ス
トラングラー・ルイスは1938年なんと48歳で競技としてのプロレス
competitive wrestling を行っている。ところがエドは試合前に怪我を負う。そ
れでも、リングに上がるエドに対してテーズは、「レスリングする男」であると
賞賛する。これをプロレスラー魂の真骨頂としては、余りにノスタルジックであ
ろうか。このような競技性がが回帰するところをもまた、プロレスとすることも
可能である。つまり、境界設定は「プロレスと何か」という問いを喪失させる可
能性をもっている。問いの失効は創造性を欠如させるかもしれない。いわゆるど
こまでをプロレスというのか、できればルーズな方がいいのではないだろうか。
それは情報公開という流れの中、シュート活字的な知識がきっちり補完してくれ
るだろうし。

 エンターテイメント宣言が猪木の異種格闘技戦の価値を下落させる視角を生み
出してしまうような気がする。当時の時代背景からすれば、現在の競技としての
格闘技を興業という枠の中で実施するのは現実的な選択肢ではなかっただろう。
それな、勿論対馬場という戦略でしかなかったかもしれないが、そのような文脈
を乗り越えて独自の力学を獲得したと考えられるだろう。それに、一歩間違え
ば、競技ではなく、殺し合いになりかねなかったのであって、また興業会社の利
益を考えれば、その中で、人々に提供しうる最上の闘いであり、エンターテイメ
ントであったのではないか。競技を成立させるには歴史的経過という熟成が必要
であった。大き過ぎる限界性を保持しながらも、猪木がそれに貢献したという評
価は正当なはずである。時代背景とその歴史的展開を鑑みれば、興業という人々
に喜びを与えるジャンルの連続性を強調し、その意義を正当に評価する必要があ
る。勿論、それは厳しい批判的まなざしの結果見いだされなければならないが。

 まあ、色々意見を出してみたりしたんだけれども、東スポの『紙プロ』広告を
見ると、ピーター・インタビューや田中正志さんの意見ものるようなので、それ
を今日は楽しむことにしよう。まあ、何があっても色々楽しみを提供してくれる
んだからありがたいということです。想像上の体験と現実生活の体験に区別を見
いだすことは難しい。というよりは、その区別が何を我々に提供するかを理解す
るのは難しいものだと思う。その体験の内容は定義されるのではなく、構築され
ながら変容し続け、人々の喜びをドラマ化し、コミュニケーションされる。その
ようなとき、人々の関心とは、このドラマを支える不可視の思い入れである。こ
の思い入れのために、プロレスが豊かなものとなりますように?

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