第28回 プロレスにおける身体論の可能性 Part4
■投稿日時:2001年12月14日
■書き手:Drマサ


4 反「道の文化」としてのプロレス

 笠松は、プロレスを西欧の精神中心の世界観をカウンターする可能性をはらむ
ものとして位置づける。身体こそが先駆け、精神を稼働させる原理であると。プ
ロレスは身体がもつカオス性をかいま見せてくれるのである。この文脈からすれ
ば、プロレスは身体が先駆けとして存在しているという人間にとっての原初的事
実を想起させる(反)文化的装置である。しかしながら、精神を生産する身体
は、はからずも精神に従属する地位へと転落してしまうのである。

 精神に飼い慣らされているとするならば、そう仮定したとき、プロレスであっ
ても我々の複雑な社会構造を反映しているはずである。単なる娯楽であるとされ
るプロレスが、社会構造によって維持される道徳、つまり当該社会において当為
とされる精神、態度、あるいは感情を追体験させ、社会の現状維持に貢献させて
いるというわけである。当コラムで、既に取り上げてきたボールの儀礼概念によ
るアメリカのプロレス研究を思い出し理解していただければ十分であろう。

 例えば女子プロレスを民俗学という視角から研究する亀井好恵は、女子プロレ
スの観客が共有する物語として「成長物語」を上げている。「成長物語」が我々
の社会構造を映し出す一つの物語のあり方と理解するのに、そう問題はないであ
ろう。子どもが成長し、一人前の大人として自立していく。あるいは、恋愛を経
験する中で人間的な成長が描かれる。就職し、仕事や人間関係に悪戦苦闘し社会
人として、あるいは人間として成長していく。それら成長物語はかなり一般化し
ている。このような物語を肯定するか、否定するかは別として、社会構造を反映
した物語であることは如実である。女子プロレスでは「世代闘争」が主要なモチ
ーフとなって観客側に提示され、また観客側もその物語を観戦の視角としている。
亀井は女子プロレスの「世代闘争」を、当時の25歳定年制と重ねて、次のよう
にいう。

 全てのレスラーが、レスラーとしての花をこの期間に咲かせることが出来るわ
けではない。いかに同期から抜け出せるか、レスラーとしての身振りを獲得する
にはどうしたらいいかはレスラーにとって大きな難問である。そういった悩みは、
雑誌の記事を通して観客側にも伝えられる。観客は、レスラーの悩みの状況と目
の前で行われるプロレスとを引き比べ、悩みの過程やそこからの脱却に、まるで
自分の知人に対するかのように 一喜一憂することになる。(亀井 1995)

 このように「世代闘争」という”劇”が成長物語というイデオロギーとして共
有されるのは、社会構造を反映しているがゆえである。

 勿論、このような社会構造を反映する物語には裂け目がある。プロレスを支え
る物語の多様なあり方を全面的に把握しようとすれば、その多様さゆえ、なかな
か困難な作業である。しかしながら、これまでみてきたように、社会構造を反映
する物語は、かなりの程度強力に機能し循環しているかのようにも思われる。し
かしながら、「世代闘争」という物語がはらむ、その下位構造にある意味論的次
元には、「世代闘争」という物語自体を無効化する可能性をもつ言説が待ち受け
ているかもしれない。あるいは、「世代闘争」が成長物語を表象するにしても、
成長物語が終結を迎えることもなく、異なる物語がプロレスに”代入”され、成
長物語が宙づりとなってしまうことがあるかもしれない。この物語は異なる論理
が攻撃するや否や、ちょっとした綻びを垣間みせるものである。勿論、それは垣
間みせるのであって、即座に構造は立ち直って見せるだろう。

 構造を構成する諸要素は、諸要素間の接合関係において原理的な一貫性を保持
しているのではなく、恣意的な関係にある。この恣意的な関係こそが、逆説的に
も社会構造を反映する物語の虚をつく論理をもつ意味論的次元を導き出す原理で
さえある。我々はこのような虚を突く論理を導き出す原理として、一つの仮止め
として身体という概念を設定しているのである。笠松は、精神を世界の原理とす
る世界観=社会構造の虚を突く身体という概念がもつ論理をプロレスに垣間みる
のである。とすれば、身体を原理とすることをプロレス構築の一次的次元とする
ならば、「世代闘争」あるいは成長物語という物語性は、プロレスを構築する上
で二次的な次元となる。それゆえ、いかなる物語であっても、普遍の物語である
ことを維持することは困難なのである。ましてや、身体を前景化する芸術形式で
あるならば、物語性を無効化する可能性を常に内包しているといわざるを得な
い。

 笠松は日本にプロレスが存在することと、日本文化の社会的構造を維持する物
語である「道の文化」の関係について言及していく。日本文化にも様々な特質と
いうものがある。その諸特質の中から、「道」が抽出され、「道」がもつ論理を
起点に日本の文化を素描する。すなわち、武道、芸道は固有の精神的風土をなし
ており、「道の主催者」の君臨が当該社会や文化の行為を規定する。よって、
「道の主催者」の否定は社会秩序を堅守するために無意識的にも意識的にも回避
される。歴史的な過程を重ねた上で、「道の主催者」が当為を決定すると、極度
の精神主義を接合することによりいわゆる軍国主義や、極右的思想を生みだし、
「道の外の人が外人」との排外的性格を前景化するという。

 このような笠松の見解からすると、相撲において小錦が横綱昇進を果たせなか
った理由は排外主義であるし、野球が国民的娯楽として「野球道」を提示する場
面はまさに右傾化し、硬直的な日本社会のあり方に還元されるものとなる。勿論
相撲にしても、野球にしても「道」的な論理を逸脱する場面があるのはいうまで
もない。よく知られるように、相撲は元来芸能である。例えば、近代化の過程に
おいて相撲は変容し、日本社会の周縁的な地位から日本社会の伝統を代表するも
のとして生き残ってきた。つまり、周縁的なものが回帰するとき、「道」の論理
構造の裂け目が瞬間立ち上がるはずある。

 プロレスは相撲が日本社会の伝統を代表するのとは対称的な地位にある。

 幸いにしてプロレスは、国技とはほど遠いところに在る。これでいいのだ。プ
ロレスが道の文化に組み込まれてプロレス道とでもなれば、プロレスはプロレス
ではない。生き生きとした身体の躍動、対話、パフォーマンスは消滅する。

 つまり、「道の文化」が上意下達のコミュニケーション形式において実体化す
ることがその排外性を生み出すのとは対比的に、プロレスは身体を媒介にした相
互作用的な、「対話」のコミュニケーション形式がアモルフルな世界の創造へと
結びつくユートピアを顕現すると理解される。勿論、これは叶わぬユートピアで
しかないはずであり、留保をつけておくべきだろう。

 このような笠松の視角は、1993年当時の前田日明がプロレスに「道」を接
合させる危うい存在として映る。前田は「自覚的に身体の戦略をはっきり打ち出
したレスラー」であるがゆえに、三島由紀夫的な文化論にからめ取られてしまう
のである。三島の文化論とは「道の文化を防衛の本旨」とし、大衆は「道」によ
って作り出される観念「みやび」をまねびとする。とすれば、笠松は前田のプロ
レス戦略は「まねび」でしかないとして、前田に「伸びやかなレッスルを見せて
欲しい」と批評するのである。規格された身体は、社会構造を反映した意味論的
次元を再生産する。しかしながら、プロレスを身体芸術としてみなすことが可能
ならば、身体の新しい秩序をかいま見せてくれるはずである。それは身体の脱秩
序化と再秩序化というパラドキシカルな現象を生産する。身体を脱秩序化の原理
としてみなす視角からするならば、プロレスがその表現形式において意味を剥奪
化し、構造を逸脱する美学を見いだすことは可能かもしれない。それは、バルト
のプロレス論においてさえかいまみることが出来るようにも思われる。

 そういえば、アントニオ猪木がその引退興業において一休禅師の「道」をメッ
セージとしたのが想起される。猪木が「プロレス道」というとき、それはこれま
で批判してきた「道の文化」が持つ意味論的構造を反映しうるのだろうか。猪木
というパーソナリティが「道」を朗読するとき、硬直化した世界像を表現してい
るようには思われない。今はそれをただ”開かれ”としておこう。とすれば、プ
ロレスは自らの境界を設定し、その枠内において自閉するわけにはいかない。常
にジャンルとして”開かれ”てあることが、文化的豊かさを保証するのではない
だろうか。

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