第27回 プロレスにおける身体論の可能性 Part3
■投稿日時:2001年12月7日
■書き手:Drマサ


3 身体の復権

 笠松は、「プロレスの蔑視は身体の蔑視に通じており、これは西洋哲学史を貫
く二元論的図式と連関する」と分析し、西洋哲学における精神の優位、身体の劣
位をプラトン・中世・デカルトの哲学から、全くもって大筋でしかないのだが、
西洋の存在を限定してきた思考として取り上げる。つまり、プロレスを蔑視する
視線を生産する力学は、理性信仰であると。そして、笠松は理性信仰を転換する
哲学としてニーチェを上げる。ニーチェは身体を「宣揚」する。ニーチェらしく
高らかに、「身体こそが大いなる理性である」「創造する肉体がこれの道具とし
て精神を自らのために創造したのだ」と。ニーチェは『道徳の系譜学』におい
て、キリスト教を起源とする禁欲主義的な理想、つまりは理性による合理的世界
(世俗化したキリスト教的な神の世界)が人間の本来的生の否定にあると看過し
た。この思想を接合するならば、プロレス蔑視とは、現状の道徳及び規範を肯定
し、固執する”中途半端なニヒリズム”を抱く者の社会への迎合である。

 では、簡単に西洋哲学における「精神の優位、身体の劣位」を概観しておこ
う。非常に簡略化された要約となるが、プラトン哲学を中心としよう。ソクラテ
ス以前の哲学は自然の秩序を認識する営みにおいて自然自体を知りうるとされて
きたが、ソクラテス及びプラトンではその構図が転倒する。実は秩序づけている
ものは、人間の精神(ヌース)の方にあり、精神をこそ探求しなければならない
という問題へと転換される。そこで、精神をさらに秩序づける原理として導き出
されたのがイデア論である。精神は真・善・美を愛智するとされる。そこで、批
判されるのが身体(ソーマ)である。なぜなら、精神つまり、「その魂(理性的
思考)を自らの内に閉じこめるものが身体である」とされるからである。真・
善・美・を愛智する人間の精神にとって「身体は悪しき牢獄」であると理解され
る。

 しかしながら、このプラトン哲学の理解には大きな問題点が存在する。プロレ
ス論という枠からは逸脱するやもしれないが、簡単に触れておこう。つまり、ニ
ーチェのいう身体とは実は位相がずれているのではないだろうか。身体を言語を
介して認識する営みは不可能なものである。ニーチェからすれば、身体とは権力
の意志において支配される力と支配する力の相関項として見いだされるものであ
る。つまり、我々の身体は偶然の産物であるが、諸々の力の相関項として見いだ
されるとき、科学的、生理学的、社会的、政治的な身体として暫時的に現れる。
我々が身体を認識するという営みは、偶然性によって構成される身体を、意識と
いう外界の影響を被る自我の領域という必然性によってからめ取ることでもあ
る。しかしながら、それは認識のベクトルを転倒させるならば、偶然性を垣間み
るということから、身体とは驚くべきものとして経験される。偶然性を世界の根
源とする思考において、身体とは偶然性を垣間みせる多様な現象であり、意識に
還元不可能な力の顕現である。意識を媒介に認識される世界像は、よって受動的
なものであるが、身体への「宣揚」は能動的であり、意識、精神、理性からすれ
ば反動的な人間の”本質”なのである。

 認識はそれ自体、生成の中では不可能である。だとすれば認識はどうすれば可
能なのか。己自身についての誤謬として、力への意志として、錯誤への意志とし
てである。捏 造し、意欲し、自己を否定し、己自身を克服するものとしての生
成。・・・(中略)・・・生命が示すもの一切のものを、傾向全体を表す略号と
みなすこと。それゆえに「生命」を力への意志とする新しい概念を固定しよう。
                       (ニーチェ『力への意志』)


 そのような意味では、身体もまた仮止めの意識の産物かも知れないという留保
の可能性を示唆しておく必要があるかも知れない。要約しよう。キリスト教的な
道徳=真理を基礎づけてきた理性及び精神の力学は、意識によって自己限定的に
見いだされた流転する生成を仮止めしたもの過ぎない。しかしながら偶然性をそ
の根源として立ち上がる生成の流れは、非対称的、非認識論的に、つまり身体に
おいて受容されている。よって、ニーチェは音楽などの芸術を、その身体の受容
という次元を想定することによって「宣揚」するのである。とすれば、プロレス
は芸術であるのか。

 さて、ではプラトンの身体とはいかなるものであろうか。プラトンは徹底的に
身体を批判する。なぜなら、プラトンがいう身体概念とカップリングとしてある
人間の生物学的存在を「生き延び原理」とする思想が通底しているからである。
ニーチェが生物学的な人間理解もまた、人間存在を仮止めした理解として批判し
ていたことを先に挙げた。身体が生成を捉えるための概念であったのに比較し
て、プラトンの身体概念は、世界が物質的構成としてある原子論への批判という
側面を有している。簡略化すれば、プラトンは人間身体をモノとしてのみ捉える
認識の錯誤を批判したのである。プラトンの魂(プシューケー)とニーチェの力
への意志を比較対照するとき、このような問題意識は通俗的な西洋哲学史理解と
反するが、常識というニーチェが告発する道徳と「生き延び原理」に整合的な面
があることもまた指摘できると思われる。ちなみに原子論とは、ソクラテス以前
の哲学において、本来同一なるものであった魂と身体が分離させられる認識論に
由来する。 

 プラトンにおいても、ニーチェにおいてもその通底する真偽への志向は、通俗
道徳批判として顕在化する局面があるように思われる。ニーチェがキリスト教道
徳を欺瞞として暴露したのと同様、プラトンもギリシャ時代の道徳を金・名誉の
愛求者を「身体(ソーマ)の愛求者」としてラディカルに批判する。現代におい
てなら、バイオテクノロジーや医療の高度化など端的な科学技術信仰にみられる
人間の生物的存在への追求がもつパラドキシカルな性格を想起すれば十分である。

 さて、余りにプロレスから離れてしまったように思われるだろう。しかしなが
ら、この通俗道徳批判という局面を焦点とするならば、プロレスはその存在のあ
りようとして通俗道徳をカウンターする芸術形式と考えることが出来る。笠松が
見いだす通俗道徳は西洋哲学的な枠組みにおいては精神あるいは理性中心の世界
観であり、日本思想という枠組みにおいては「道の文化」ということになる。

 デカルトが精神あるいは理性中心の近代的世界観を確立したとして遡上に登る
のは常識でもある。ちなみに、デカルトはこのような理解を乗り越える局面があ
り、そこにこそ哲学者デカルトの真髄があると私は考えるが、ここではおいてお
こう。ここで理解される精神=自我は孤立し唯一絶対の存在者として確立し、世
界の中心的存在者となる。プロレスは、このような世界観が弛緩するときに生み
出されたと笠松は指摘する。つまり、プラグマティズムの席巻が思想状況として
見いだされるという。時は南北戦争の頃である。プラグマティズムは真理の基準
を有用性に置くと理解されるが、実は重要なのは、今あげたデカルト的自我中心
的世界観からのパラダイム・シフトにある。つまり人間の精神、あるいは自我と
いう存在は作られたもの、物語であると明らかにした。いわゆる、G・H・ミー
ドが理論化した自我の社会性である。

 身体を賦与された人間は、環境との相互作用の過程において経験を位置づけ、
その作用の結果として精神・意識・理性・自我が形成される。この視角において
は、身体の優位が必然化する。プロレスに適応すれば、プロレスという経験は対
戦相手のレスリングする身振りを先取りし、自己のレスリングを他者に向けて行
為するということである。実は、対戦相手の攻撃の理解は、身体において先取り
されながらも、精神において反省的契機において事後的に意味付けされるのであ
る。それは相手を制御することを志向したり、相手の持ち味を引き出すという行
為を志向することもありうる。よって、その複雑なコミュニケーションの志向性
が複雑な表現を生み出すであろうし、その両者の相互的志向が乖離や違和をはら
むならば、コミュニケーションの破綻が露呈する。両者が何手先をも読み、その
読みの彼方コミュニケーションが螺旋的に上昇するとすれば、その奇跡の実現こ
そを我々は”信仰”するのである。なぜなら、全的なコミュニケーションが成立
しているとは未だ不可能なユートピアであるのだから。笠松がいう「プロレスに
は、身体や音声を媒介にする身振りの対話、すなわち以心伝心の人間の原初の対
話を見て取れる」とは、全面的に自己の身体を与えること、全くもってそれとは
倒錯的に全面的に自己提示することを可能にするパラドクスを原理とするコミュ
ニケーションの神的顕現への信仰表明であると理解するとすれば、誤読に過ぎな
いであろうか。

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