第26回 プロレスにおける身体論の可能性 Part2
■投稿日時:2001年11月30日
■書き手:Drマサ


2 プロレスを見る経験

 では、具体的に笠松の論旨に入っていこう。笠松の論点は大きく分けてふたつ
ある。ひとつはプロレスというある種社会から逸脱したジャンルが有する美学と
は、近代哲学以来人々を秩序づけてきた精神(思惟)中心の世界観と対比すると
ころにあるとするものである。つまり、身体の宣揚である。もう一方は、日本文
化批判の文脈から日本人の精神を構築してきた道の文化を右翼思考と接合する地
点において、プロレスを批判の拠点として評価する。つまり、本質主義的な日本
人観への批判である。

 笠松は冒頭、「何を隠そう、私はプロレスが好きだ」と宣言している。「何を
隠そう」という表現に見られる笠松のある種の羞恥心は、既にプロレスの社会的
地位を先取りしている。又、それだけではない。この表現においては、彼の社会
的地位をも先取りしているが故に「何を隠そう」との表現が生み出されるのであ
る。プロレスとの関係を築く主体は、プロレスの社会的地位とその主体の社会的
存在としてのありようとが接合される地点において生産される”一瞬の目覚め”
を経験する。ここで、彼の社会的地位の高さを問題視し、高みからプロレスを論
じているのだとして批判する必要はない。彼はプロレスという特異なジャンルと
出会うことによって、揺らぎを持った自己を確認する作業を行っているのであ
る。その揺らぎを「何を隠そう」という言説に押し込めて表現することによっ
て、自己と出会うのである。故に「私はプロレスが好きだ」という自己を発見す
るのである。よって、このような発見が持つ隠された世界観をより明確にするた
め、プロレスについての考察が進められることになる。それは、彼の社会的存在
のありようとしての必然かもしれない。

 そのような彼のプロレスとの相互作用における自己の発見とは、プロレスに魅
了される者にとっては普遍的な経験なのである。プロレスを等閑視する者でなけ
れば、プロレスを嫌悪する者であっても、このような自己発見の”旅”としてプ
ロレスは位置づけられる存在とすることが出来るはずだ。嫌悪するという関与の
あり方は、魅了されるという経験と同様、絶対値として等しい。ただ、嫌悪にお
いてはその嫌悪する自己を考察する機会が苦痛となることが多いであろう。よっ
て、プロレスについて考える機会は少なく、そのような意味でもプロレスによっ
て知る経験を喪失してしまう。勿論、このような経験はプロレスに限るわけでは
ない。よって、嫌悪する者は他の領域でこの経験をしているのである。ただ、嫌
悪する自己を知る経験とは、自己を知る経験として重要な契機になる可能性を持
っていることも確かではなかろうか。

 笠松は、「プロレスは嫌いだ、と公然と言い放つ人」とは、「プロレスは八百
長だ、スポーツではない、野蛮だ」とすることによってプロレスを位置づけてい
るとみている。そして、彼は言う。「私は声を大にして叫びたい、プロレスはプ
ロレスだ、と」「プロレスはスポーツでもないしドラマでもない。まずもってプ
ロレスの独立自尊を認知して欲しい」と主張する。つまり、プロレスを嫌悪する
ものは、プロレスを認識する枠組みを誤って作動させてしまう。つまりカテゴリ
ー・エラーを起こしているにもかかわらず、それに気付かず、プロレスに相半ば
類似するジャンルのカテゴリーを適応させてしまうことが、その嫌悪を生み出す
ひとつの原理になっているとみている。

 「プロレスはプロレスだ」というのは、ある種既に常套句のようになっている
が、とすれば、プロレス業界に内在する論理を内側からすくい上げ、プロレスを
語る言葉を見いださなければならない。そう考えるとき、現在シュート活字と言
われている言説の出所がプロレス業界に内在する論理をすくい上げてくる可能性
を持つという点で、間違いなくある程度の結果を出してもいるし、可能性として
も評価できる。唯、我々が注意しなければならないのは、言語化するというこ
と、カテゴリー化するということがプロレス経験の”なにがしか”を喪失させる
こともありうるのではないかと、慎重な問いを確保しておくことにある。

 笠松はプロレス業界に内在している者ではない。よって、彼が依拠する論理は
彼の生活史によって規定される論理でしかない。いわゆる普通の生活者として、
また彼の職業によって規定される大学での研究者、教育者として発話が生み出さ
れている。プロレス業界の外部に位置する者が、自ら依拠する論理によってプロ
レスを語る。しかしながら、それは必然的なものであって、敢えて自ら内部に”
侵入”する以外は、それぞれが根ざす生活の諸相から語る以外の方法はない。

 よって、先に述べたある種の他者としてのプロレスとの出会いを語るために、
彼は自らが援用できる知の枠組みを接合してくる。彼がそこで依拠する論理と
は、西洋哲学史を貫く二元論的図式における精神の優位、かつ身体の劣位という
思想とその乗り越えとしてのニーチェを起点とする身体の宣揚である。このプロ
レスに外在するかのように見える論理は、しかしながら決して単に外在的なもの
ではない。なぜなら、ある種の他者性として今定義づけたプロレスを理解しよう
とする同一化のベクトルを持っているからだ。また、プロレスが社会的存在であ
ることからすれば、近代という問題に包摂されていることは必然であるからだ。
このように理解するならば、我々に対する課題としてひとつの視角が生み出され
る。つまり内在する論理と外在する論理の接合関係とその距離感であり、その観
察によるプロレスの理解である。それは、プロレスの理解に留まるものではない
こともまた明白なことである。さらに重要なのは、「内在/外在」という二項対
立図式の維持を維持する言説は、どちらでも構わないがその一項が自己以外の運
動と連動しているが故に、その隙間に亀裂を生みだし、揺動化され、言説内部か
らの力によって突き破られる運命にある。

 さて、笠松は彼がプロレスを語る批評的な身振りをその哲学上の概念に依拠し
ながら切り取っていく。つまり、それはプロレスのメタ言説となっている。しか
し、メタ言説にはいる前に彼のプロレス理解が語られてもいる。村松友視的な視
角と重なるが、簡単に要約しておこう。

 他のスポーツではその職業化がプロスポーツとなるが、プロレスはレスリング
の延長線上にある職業化ではないとして、(1)レスラー(2)レフリー(3)
観客という3つの次元に分別して、その理解を語る。レスラーの存在は観客を前
提とするが故に、対戦相手の技の受容が必要となる。これが自己の技に意味を与
え、効果的に観客へと拡張する。そのためにも「操り人形」のようなレスラーで
は、”真”のプロレスを構築できない。。バルトの言葉を借り、レスラーとは
「レッスルすることによって生身の人間となる」と理解される。レフリーは、試
合を裁き、勝者を決定する中立人ではない。「観客とレスラーとのボルテージの
高い交流を可能にする仲介人」であり、助演者である。観客は「見せる=見る」
の信頼関係によって醸成されている存在であり、ここに八百長云々という外部か
らの声は無効化する。

 このような理解によって、彼が賞賛するプロレス・スタイルは自らプロレスで
あることを否定するかのようなプロレスである。彼は前田日明率いるUWFより
も、大仁田厚の電流爆破デスマッチを既成プロレスの否定、新しい試みとして評
価する。笠松にとって、大仁田は「生身の人間」をリング上に顕現させるのであ
ろう。このような視角を只アナクロニズムとしてラベリングするのではなく、
「生身の人間」という観念がいかなるものかを、先に論じたように、彼のメタ言
説との距離を観察することから理解する必要があるだろう。次説はその試みとな
る。

 只ひとつ留保をつけておきたい。笠松の見るプロレスはリング上に限定されて
いる。もしリングをとりまくプロレスという”環境”をこそ「レッスルする」プ
ロレスラーを、その視野におくならば、前田日明もまた「生身の人間」であり、
「レッスルする」存在であったと考えてもいいはずである。

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