第25回 プロレスにおける身体論の可能性 Part1
■投稿日時:2001年11月23日
■書き手:Drマサ

テクスト:笠松幸一「プロレスの記号論 ―身体の復権のために―」『学叢』第52号、1993年


1 観客の身体

 余りに”天の邪鬼”になってしまったプロレスファンであっても、プロレスの
ある場面で一瞬我を忘れるということがあるはずだ。作り手側の論理に精通する
ファンであっても、あくまで予想することは出来ても知り得ないということから
すれば、「そう来たか!」と想像を越える展開やシーンに驚きがもたらせられる
ことはあるはずだ。あるいは、ハーディボーイズのラダーマッチの様な余りに過
剰で、想像力豊かなプロレスになら、とにもかくにも身を乗り出して我を忘れる
ことがあるだろう。そして、その創造性から新しいプロレスのスタイルとして認
知し賛辞を送るはずである。それは見る者のファン歴の長さや多様な社会的属性
を乗り越えて、その核心において全ての人々に共通するのではないか。勿論、そ
の過剰さが意味という暴力によって、翻って賛辞を嫌悪にする場合もあるのだ
が。より直截な例を出すなら、”ミスタープロレス”天竜源一郎の水平チョップ
の衝撃音には未だに驚かされる。その直截的な身体の衝撃が、伝統的な様式とし
て結実しているそのリアリティは普遍的でさえある。

 確かに、プロレスは遺恨を中心とした感情劇的な性格を持っている。しかし、
その意味論的な領域はこれら身体論的な領域からの派生物なのではないだろう
か。

 プロレスというテクストを読解する過程において、観衆や視聴者が包み込まれ
ていく空間はどこからしら虚構としてある空間のように思えるときがある。事
実、プロレスをファンタジーと形容するのだから。しかしながら、それはプロレ
スラーの身体にあくまで依拠しているのである。身体に絡み付く表象や観念とい
う意味論的な付属物が常につきまとっている。しかし、身体はあくまで具体的現
実的な位相を放り出すことはない。つまり、肉体という位相を。

 2人、ないしは4人、あるいは多数のプロレスラーが織りなす、レスリングと
いう共通言語を身体化した者同士による相互作用のコミュニケーションがリング
という空間を中心として成立する。この虚構としてある空間は、現実的具体的な
人間の肉体を土台としていることになるはずだが、身体が忘却されてしまうとき
があるような気がする。故に、バルトは「レッスルする世界」において、「魂の
ない身体、いうならば魂と化した身体」による歴史性を喪失した「光の輪の強烈
で垂直な性格」を持つ「見せ物」と表現したのである。バルトの表現は、身体と
いう観点からすると常に両義的であるし、後にテクスチュアー、あるいはジュイ
サンスという身体を起点とした概念を生み出していることからすれば、「レッス
ルする世界」において単に身体を忘却したとしては片手落ちである。

 プロレスの語り口としては、時として物語性を中心としてきたという経緯が上
げられる。学術的な研究においては、実際そのイデオロギー構造を問題視する視
角が圧倒的である。これまでの表現でいえば意味論への視角を中心とするものが
多いと思われる。しかしながら、ここまで簡単にではあるが論じてきた身体が忘
却されるかのようなコミュニケーションにおける身体性への視角は未だ不十分と
いわざるを得ない。そこで、今回は身体という視角を中心として、プロレスを論
じている笠松論文を取り上げることにする。ただ笠松の考察は決して体系的な考
察ではないし、量的にも原稿用紙10枚程度の小論である。事実、論文というよ
りはエッセイといっていいだろう。本来なら身体を視角とする哲学や社会学の知
見から考察を進めたいところではあるが、現時点では荷が重い。そこで、笠松の
身体への視角を踏み台としつつ、”プロレス身体論”の可能性を探る、これが今
回のテーマである。

 さて、まず笠松論文にはいる前に、ここで身体と表現されるこの概念が持つイ
メージを共有したいと思う。ただ極私的な、思考実験的なイメージの素描であっ
て、定義とは異なっていると理解しておいていただきたい。

 プロレスには好勝負、あるいは名勝負といわれるものがある。総合格闘技もま
たそうである。これら想像力に富む試合が、観客に試合という作品世界に没入さ
せる間、観客は試合を媒介として周囲の現実に巻き込まれ、その空間の外にある
現実と交信する意識を忘却している。そういう状態に入り込ませることが、理想
的なプロレスの試合であるとすれば、そこに見えるのは日常的な意識の輪郭が霧
散してしまうようなまさに非日常的なファンタジーという比喩によって表現され
るものである。ゆえに、アリーナから抜け出し、外気に触れた瞬間、今度はそれ
らのファンタジーが霧散するのを恐れて、友人などの周りのものとその余韻に浸
るべく、言葉を酌み交わす。ファンタジーからの覚醒は心苦しい。だからこそ、
ファンタジーを構築し損なった試合に観衆は落胆し、非難する。

 また、ビデオや雑誌などによるプロレスとの関わりがある。実は、このような
メディアを媒介にした経験にも、媒介された作品世界への没入がある。ここで
は、観衆は読者という位相へと変化している。アリーナでの直接的な経験とは異
なって、読者がたどるテクストの空間が構築されるとき、メディアにおける作品
世界はフロイトの夢診断の世界のように圧縮されたり誇張されたりしている。こ
のような経験は、プロレスを素材としたドキュメンタリー・伝記・批評・エッセ
イ・インタビューにおいてもその圧縮と誇張のあり方こそ違え、同様の構造を持
っている。我々プロレスファンが”井上編集長”いうところの活字プロレスを享
受している場面である。この読者という位相においても、試合の直接的な享受と
同様、日常的な意識の輪郭が霧散してしまうファンタジー空間が創造されてい
る。よって、日常的具体的な現実を体験する空間とはある種の乖離を持ってお
り、これまで述べてきたファンタジー的な空間であり、時に錯綜した空間として
現出してくるはずである。それにも関わらず、メディアの中身に没頭する限り、
主体の想像力によって独自の読解を生産し続ける力を持っている。とすれば、こ
の空間のもつ力学は読者の読解のひろがりと限界を秩序づけることになる。

 今二つの身体の諸相を見いだした。ひとつはアリーナにある身体。もうひとつ
はメディアを読む身体である。前者における身体は、アリーナに定位するという
ことからすれば、日常的な現実世界から既に逸脱した身体である。しかし、その
身体は日常的な現実世界を定位とした身体を背負っており、アリーナにおける没
入が逸脱した身体を生み出すことになる。定位を持っている身体から定位が消失
する、つまり身体が融解するような経験である。後者における身体は、通常読書
という日常的な現実世界を定位とした身体であるが、この読書行為自体への没入
がこの定位を消失させることによって、身体を融解させている。この時、この身
体の定位の中心点はメディアのテクストの中へと進入して行くだろう。
 この二つの身体のあり方をいま融解という概念で括ってみたが、その質は異な
っていると考えられそうだ。その考察は今後の課題としておいて、とりあえずバ
ルトいうところのテクスチュアーやジュイサンスという概念がその導きになるの
ではないかと問題意識を共有しておきたい。

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