第24回 閑話休題(1)
■投稿日時:2001年11月15日
■書き手:Drマサ

 いつも”お硬い”コラムをやってるんだけれど、今回は少し硬さをほぐしたも
のにしようかなという感じで、よろしくご賞味下さい。ただ、ささきぃさんのよ
うな情感溢れるものにする力はありませんから、お許しを。ただ、彼女がまた
「観戦記ネット」に戻ってくることを願うのみです。ひとりの読者として。
 で、普段のDrマサのコラムというのは、いわゆる”学問”とかいわれる領域
でプロレスが扱われている論文なんかを持ち出してきて、要約し批評をする中
で、どうにかその延長線上の議論に持っていこうとしているものなんだけれど。
どのような評価なのか?文体や概念なんかも硬いしね。でも、そのような硬さに
よってしか伝わらないものもあるような気もするんですね。それについては、な
かなか説明するのはしんどい作業になってしまいますので、そんなこともあるか
なと流して下さい。お許しを。
 また、そんなことをいいながらも、あくまで論文ではなくて、エッセイという
スタイルを取っているつもりなので、特定の概念なんかを定義付けしないで語る
という暴走もあるかもしれません。確か、アドルノは「エッセイは、自ら用いる
概念を定義しない」といって非体系的な思考形式を評価していたということがあ
ったと記憶しています。そういう意味では、散文的な形式の開かれを確保してい
るということにしていただいて、これまたそんなこともあるかなと流して下さ
い。お許しを。
 で、Drマサのコラムが面白いかどうかということは、あるいは「観戦記ネッ
ト」にとって有意義か否かという問題に関しては、あくまで読者に委ねるととも
に、”品川編集長(僕の品川さんの位置づけです)”の方針次第であると責任逃
れをしておくことにします。お許しを。
 前置きというか、言い訳がましいことが長くなってしまった。ずーと言い訳を
書き続けてみようかな。それじゃ、僕の人となりが見えすぎてしまうので、この
辺から、今回のお話に移行します。
 特にテーマはこれだということを宣言はしません。が、書き殴りながら自ずと
見えてくるでしょう。
 さて、プロレスは、イメージ・ビジネスだという人がいますよね。そういう時
のイメージっていうのは何を意味しているんでしょうか。よくあるのが、いわゆ
る”最強”を巡るイメージとか、世代交代や善悪の対立劇などの物語などなど、
細かいことをいえば、一杯出てくるでしょう。あるいは、化け物だ、常人とは違
うとか。例えば、”真夏のG。!両国最終日、勝ち上がり栄冠を手にするのは誰
だ”なんてコピーがあるとすれば、そこに新日最強というイメージが被さってく
るのはいうまでもないでしょう。
 そうすると、プロレスラーが強いとか、あるいはその延長線上に恐いというイ
メージを抱かれなければならないということになるでしょう。昔話で、上田馬之
助(病状は今どうなんでしょう?)が、アイスペールでウイスキーの一気飲みを
して、ケロッとしていることによって、周りをびびらせたなんていう昭和のお話
はそんなイメージを保持する戦略であったということになるでしょうか。このよ
うなイメージ・ビジネスを語る上で有効な戦略は演劇論であるとか、一人のレス
ラーに焦点を合わせた演劇論的人物論ということになるでしょう。
 いわゆる村松の「プロレスの味方」というのは、そのような戦略の傑作であっ
たと思います。そういえば、前田日明が村松の演劇論的プロレス論を否定してい
たのが思い出されれたりしますね。それはさておいて、村松以降、村松の影響で
もって、ファンは独自の「プロレスの”見方”」を表だって語り合う権利を獲得
したという感じであったと評価できるんではないでしょうか。勿論、それは既に
ファンによっても語られていたという側面を見逃してはいけないけれど。藤波・
長州の名勝負数え歌なんていうのは、その試合内容の素晴らしさだけでなく、感
情移入し易い物語性に溢れていたからこそ、会場でもテレビの前でも引きつけら
れたのは今更説明するまでもないでしょう。
 そして、演劇論的な視角というのは物語性だけではなく、役者の妙、つまりプ
ロレスの巧拙にも目を向けさせることになるはずです。例えば、プロレスラーを
役者であるとたとえ、リングという舞台に、制約はあるけれども、自らの脚本を
描き、自ら演出しかつ演じる存在であるとか。その舞台にはもう一方、彼と同様
自らの創造を表現しようとする役者がいて、その共演者との駆け引きと作品=試
合をいかに豊かなものとしつつ、自らの脚本に引き込んでいくかとか。「受けが
うまい」とか「大谷のセルは笑う」なんてファンがいうのは、まさにこのテイス
トにのっているという事でしょう。確か80年頃だったろうか、実際猪木がNH
Kの番組の中でこのようなプロレス論を語ったと記憶しています。とすると、そ
の脚本のテーマがイメージを媒介として具体化しているということになるでしょ
うか。
 と、ここまでいわゆるよくあるプロレス観を語ってきたという感じですが、ま
た重要な欠くべからざる要素であると認めなければならないとも思います。ま
た、このような演劇論的な視角が昨今の総合系にも適応可能だとも考えられると
思います。しかしながら、イメージというのはこのような物語性において具体化
できるものなのでしょうか。僕の疑問はここにあるんですよね。どうもイメージ
といわれるコミュニケーションの媒体が、物語性に一方的にからめ取られている
のではないだろうかと感じるんだけれど。確かにイメージによって、なにがしか
の物語を共有することができるし、それは観客やファンにとって大きな悦びを構
築するということがあると大いに思います。それはプロレスというイメージ・ビ
ジネスを支えているものともいえるでしょう。だからこそ、プロレスラーが自ら
のイメージをどうするのか悪戦苦闘もするだろうし、そこにファンの批評が介在
しもする訳でしょう。それはアングルの出来不出来を批評するファンの実践と絡
んでくるところかもしれません。
 しかし、イメージという存在は物語性を越えているのではないでしょうか。逆
説的に、プロレスをある種の大河ドラマであるとか、アングルのちりばめられた
演劇としてのみ捉える視角が全面に出すぎてしまえば、その視角において見逃し
てしまうなにがしかが忘却されてしまうことになるんじゃないかなという危惧が
生み出されるような気がします。
 そこで少しばかり、イメージについて考えて見るという迂回路をたどってみよ
うかなと思います。プロレスをイメージ・ビジネスであると認知した上で、では
そのイメージにおけるコミュニケーションとは何であるのかということを考えよ
うということです。例えば、リチャードソンは『心象』という本の中で、イメー
ジとは、準感覚的あるいは準知覚的経験であり、それに対応した具体的な刺激条
件が存在しないのに、存在しているかのように経験をもたらすものであるとして
います。よって、イメージの世界とは対象を思い浮かべて得られた像なわけで
す。このような文脈からすれば、イメージとは具体的な対象であるというより
も、”虚”としてある不可思議なリアリティということになるのではないでしょ
うか。つまり、知覚にとってのみ存在し、現実的な脈絡を欠いているものがイメ
ージというものでしょうか。
 とすれば、プロレスというイメージ・コミュニケーションは、レスラー同士が
相互に対戦相手がいかなる知覚をして、格闘としての身体所作に向かうのかを”
虚”として経験し、ある種の賭を持って、対戦相手の身体所作に対応しかつ乗り
越えるということなる経験を生成することになると理解してみると面白いのでは
ないでしょうか。その乗り越えの経験をまた観客は共有するとして。
 このように考えてみてみると、物語性に依拠するプロレス論はこの”虚”を媒
介としたイメージ・コミュニケーションに触れてはいるけれども、よりこの視角
を強調するならば、いわゆる舞踏のメタファーを用いてみるのも面白いのではな
いかともくろむことが出来そうです。
 ちょっと硬い言い方になったかもしれないけれど、いわゆる「プロレスがうま
い」とか、一昔前によくいわれたプロレスをフリージャズに例えて「スイングし
ている」なんて表現を思い出していただければ、わかりやすいのではないでしょ
うか。でも、このような表現も一長一短を持っているでしょう。あくまで対戦相
手というコミュニケーションの志向を乗り越えようという身体所作が、闘いを表
現しうるとすれば、単に「プロレスがうまい」とか「スイングしている」なんて
いうのは、闘いの頽落形式、馴れ合いになってしまいかねないからです。そうい
った意味で、このような闘いを”虚”というメディアにするコミュニケーション
は奇跡的な達成のような気もします。
 舞踏のメタファーから理論的にプロレスを考察するということに関しては、今
後の課題ということにしていただいて、勇気を持って触れてみようかなとも思い
ます。
 うまくは表現できないけれども、理想とするプロレスが現前に現れるとしたら
どのようなものと考えればいいだろうか。例えば抱けれども、きっと動物のコミ
ュニケーションに似ているのではないかなと考えてみましょう。決して致命傷を
与えることはないということからすれば、他者の尊厳を守っています。しかしそ
れでいて、熱中のさなか、相手を乗り越えようとさえします。ただレスリングを
行い、自らの内にある力を感じ、相手の力を感じる。つまりは力比べの快楽のみ
があるような気がします。相手の力を感じることに快楽があるとすれば、相手の
力を引き出す欲望が立ち上がるのも必然となるでしょう。人間であるならば、力
を感じること、その乗り越えのあり方は様々な形式を生み出すことによって豊か
な表現を生み出すでしょうか。
 時に舞踏には目的も終局もないといわれることがあるらしいのですが、ある目
的地点に向かう物語性の構造もなければ、意味の展開によってある終局というも
のがないわけです。あくまで理念的なものかもしれませんが。この終わりなきも
のに、どうしても人間は物語によって、過剰な意味を与え、句読点を与えたがる
らしい。しかし、ただレスリングをするということのみが存在するとしたら、ひ
ょっとして舞踏同様、その生の直中、物語性は後退せざるを得ないでしょう。肉
体があり、生がある限りにおいて沈黙はないが、世界と生の一致がただレスリン
グという行為において存在するということになるからです。
 なんか突拍子もない展開になっているけれども、ただ人間の身体に備わるレッ
スルする力を賛美したいと思うのですが。それを見る悦びを含めて。具体的に
は、単にレスラー同士がロックアップしたときに、「力比べしろよ!」というこ
となのかもしれません。ロックアップが馴れ合いのように思えるとき、さめるこ
とがあるものです。まあ、僕の好みに過ぎないかもしれませんけれど。さて、こ
のような力比べというものは、人間身体の生物学的な複雑な構造を基底として複
雑な技術体系を成立させているとかんがえられるでしょう。この技術体系が単な
る競技としてたち現れるならば、それは終局を前提としているということから、
物語性を過剰に差し挟んでくることになる。勿論、現実的にはこのような終局の
設定を乗り越えることは困難ではあります。そういった意味では、僕個人の夢想
に過ぎないかもしれませんが。
 生の豊かな表現ならざる表現のあるレスリングを夢想しつつ、観客はレスリン
グの”情緒”を自らの身体において感じとる。物語性はあくまで付加物であり、
現代のメディア社会のシュミラークルである。それはそれでユニークであり、笑
っていられる。あるいはその出来具合を吟味できる。しかしながら、プロレスで
あっても総合格闘技であっても、レッスルする力の顕現が直接的に”情緒”を身
体にもたらし体験させる。故に、アリーナに参加する観客のパワーは、闘う者た
ちにその”情緒”を照らし返す。このようなとき、”虚”を言語化具体化すれ
ば”闘い”というそれでもまた抽象になる様な気がする。というのが、今回の一
応の主張ということになるでしょうか。
 プロレスの語り口をその物語性や意味からのみ語るのではなく、身体というパ
ースペクティブから語るということも”あり”ではないかという問いを作ってみ
たということなんですが。それを演劇論ではなく、ある種のパフォーマンス論と
して考えるという可能性。よくプロレスは芸術であると言うことがいわれるけれ
ど、そうであるなら、なおさら身体というパースペクティブは不可欠ではないで
しょうか。
 ということで、今回はそんな視角からの暴走コラムでしたが、次回からはいつ
もの方法に戻らせていただきます。やっぱり、ちょっと内容が硬かったかもしれ
ないですね。
 
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