第19回 ディアスポラとしての力道山 Part2
■投稿日時:2001年10月11日
■書き手:Drマサ


2 アントニオ猪木の力道山への思い

 先のコラムで取り上げたボールの『プロレス社会学』において、彼が援用する
中核記号とは支配的イデオロギーを意味する。その中核記号には常に差別的な様
相を準備している。アメリカの多様な社会とエスニックマイノリティの問題は必
ずしも前景化してはいないが、中核記号において性差別という問題が見いだされ
ている。プロレスという儀礼において表象される性はステレオタイプ化という神
話作用に与し、両性間に見られる不平等が強調される形式を持って上演されると
いう。このような視角からすれば、プロレスにおいて女性が演じる役割はいわゆ
る「性の商品化」に与するものであり、女性は男性の所有物として位置づけられ
てしまう。ボールはそのような具体的な事例として、80年代のWWFのランデ
ィ・サベージとエリザベスの物語を提示している。エリザベスはサベージという
主人を支え、仕えるための存在として差別的地位を与えられてしまう。この視角
において捨象されてしまうリアリティがあるが、ここではおいておこう。

 さてこのような性差別の中核記号が示す神話作用は、階級やエスニシティの問
題へと接合可能であるという。つまり性差別と人種差別やエスノセントリズムな
どの社会的差別に対応する価値観は、同様プロレスという儀礼において見いだす
ことが出来、「各ステレオタイプの伝統的な関係が示される」という。

 しかしながら、プロレスという儀礼空間はそれを見るファンや視聴者という受
け手に焦点を移動するとき、決して興業を行うアリーナやテレビの前に限定され
るものではない。この儀礼空間は儀礼空間として閉じた構造を持っているのでは
なく、開かれた構造として考えなければならない。当たり前のことであるけれど
も、プロレス雑誌や新聞などの情報がこの儀礼に介入するし、友人同士において
プロレスが話題になるとき、それぞれの意見交換の中で新しい見方が発見される
こともあるだろう。また、プロレスをプロレスとしてみるだけではなく、演劇と
してみるなど、その見方がそれぞれのリアリティ構築の基盤となるため、それぞ
れの社会的経験と結びついた意味を生み出すことによって多様な読解を準備して
もいる。プロレスという儀礼空間に参与することは、ボールが示す中核記号をテ
クストの閉鎖力とするならば、中核記号によって規定し得ない読みを開放力とす
る読解の間の緊張関係とみなすことが出来る。この開放力に照準すれば、プロレ
スは活性化するテクストなのである。しかしながら、ある特定の読解の枠組みを
持ってプロレスというテクストを読解するならば、このテクストがもつ多義性を
一元化してしまうこともあり、その読解の枠組みが権力を持つことさえあるの
だ。

 さて、先のサベージとエリザベスの物語に関しては単に女性差別的な記号とし
て読解することが、性差別の隠蔽を暴露するという見方とするか、あるいは社会
の支配的な構造の枠組みを適応する還元論と見るかは難しい問題ではある。例え
ば、ターザン山本が当時のWWFプロレスという”虚構空間”における二人の結
婚に関して、”理屈抜きに感動し、涙を流してしまった”と述べていることがあ
る。二人が現実生活の中で結婚していたことをわれわれは知ってもいる。このよ
うな現実は相互テクスト性をもたらし、テクストの閉鎖力と開放力の緊張関係を
生み出している。単に性差別として還元しては、見失ってしまうものが余りに多
いのではないだろうか。逆にこれを性差別ではないとすることもまた、性差別の
隠蔽に寄与してしまうというアポリアに陥る。

 ここで、確認しておきたいことは、ある特定のテクストはそのテクスト自体で
存在しているとは考えるわけにいかないということである。あらゆるテクストは
必ず他のテクストとの関係性の中で読解され、既存の知識や経験、それらが生み
出すリアリティを投錨するのである。いわゆるこれが「相互テクスト性の理論」
である。相互テクスト性はどのようなテクストを引用してくるのかを決定し得な
い。テクスト間に決定を保留して存在しているのであり、それによって個々人の
経験のあり方が投影するのである。この理論を援用することによって理解できる
のは、ある方法によってテクストが開かれること、つまり他の意味ではなくある
意味を付与するメカニズムを理解する中での多声性の確保である。あるいは、こ
の多声性によっても確保し得ない”なにがしか”への通路が見いだせるかもしれ
ない。

 当コラムの関心は力道山と在日コリアンの問題である。日本のプロレスがアメ
リカのそれとは社会的状況も異なるのはいうまでもない。さべつ問題にしてもそ
のあり方は異なっている。しかしながら、このような問題の理解を一歩でも進展
させようとする上で、この相互テクスト的な見方の応用は可能である。ファンで
あるなら、力道山についてのなにがしかの知識を持っているし、力道山に関する
テレビ番組、コラムや伝記などなど様々なテクストに触れているだろう。ここで
は、『猪木寛至自伝』にみられる猪木の力道山への”思い”を引用する。平成6
年当時、北朝鮮は核査察に関して国際問題となっていた。それまで、猪木自身は
朝鮮問題に関して余り知識を持っていなかったという。また猪木が力道山に対し
て師匠であるということからくる尊敬の念と、また理不尽な振る舞いによる憎し
みといってもいい思いを抱える複雑な感情を持っていたことを様々なメディアで
述べている。この国際問題は猪木にとって、民族差別の問題を考える契機となり、
それを通して力道山を知る契機となり、この知る行為を通して複雑な感情を融解
して行く経験となったという。勿論、複雑な感情が消滅したとしては言い過ぎで
あろう。それはあくまで北朝鮮問題に関する理解の進展を通して、複雑な感情の
メタレベルに異なる感情を生み出し、相対化することが出来たということだろう。
朝鮮問題への理解の進展が相互テクスト的に作用し、猪木自身を開いたのであろ
う。その結実があの感動的な北朝鮮でのプロレス興業ではなかったのだろうか。

 少々長くなるが、猪木の自伝の力道山に関わる部分を引用しよう。

 ある時期から、私は瞑想をはじめていた。目を閉じて呼吸を整えていくと、空
気が澄んできて、物が鮮明に見えてくる。その状態で力道山に思いをはせている
うちに、力道山の何気ない一言や、忘れていた場面が思い出されてくる。自分の
気持ちが次第に力道山に重なっていくのだ。

 リングを下りれば酒に溺れ、暴力沙汰を繰り返した力道山。力道山は空手チョ
ップを生み出すために、血を流しながらコンクリートに三千回チョップを叩き込
んだという。その心の奥に潜む怒りと哀しみ。そして孤独。スターになるほどに
自分の出自を隠し続 けなければならないことのむなしさ・・・・・。

 前にも書いたが、力道山について私は複雑な思いがあった。心の深いところで
固く凍ったままだったこだわりが、次第に溶けだし、素顔の力道山が見えてきた。

 私は力道山の無念を思った。死んだ夜に私の足元に現れたあの力道山の影が、
私に伝えようとしたこと。それが、やっとわかったような気がした。彼が果たせ
なかった夢を、弟子である自分が果たすことが、恩返しだとも思った。

 力道山の無念とは何か?

 それは望郷の念である。朝鮮人が差別されている日本で、裸一貫でスターにな
ったのだ。どれだけ故郷に錦を飾りたかったか。肉親に晴れ姿を見せたかったか。
本当に自分を評価し、心から出世を喜んでくれる人たちは、故郷にしかいなかっ
たのだから。

 力道山は晩年、こっそり韓国を訪問している。板門店を訪れた力道山は、突然
上半身裸になって、北の祖国に向かって雄叫びを上げたという。彼は何を叫んだ
のか。誰にその叫びを伝えたかったのか。

 あれだけの名声と金を手にした力道山だが、本当に欲しかったものはそれでは
なかったのだ・・・・。

 さて、ここで猪木が「望郷の念」「無念」という言葉で括りだしたものを理解
するために、朴のテクストに戻ることにしよう。それは、猪木の力道山への”思
い”のあり方やその動きが力道山の生き方へと接合される可能性があるともくろ
んだからである。次説では朴によって描かれる在日コリアンとしての力道山のラ
イフヒストリーを要約することにする。

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