第18回 ディアスポラとしての力道山 Part1
■投稿日時:2001年10月4日
■書き手:Drマサ

テクスト:朴一「二つの祖国 力道山の伝説」『<在日>という生き方』1999年、講談社選書メチエ


1 在日コリアンと力道山の問題点

 力道山が戦後日本社会の回復から成長へと転じる時代の英雄であったことを否
定する者はいないだろう。力道山はまさにテレビを象徴とする日本社会の転換期
から、新幹線やオリンピックといった日本社会の成長の間をまさに生き抜き、鬼
籍へと入った。それは回復と成長、そして大衆社会を不可避的に押し進める力学
が持っている可能性と危機を同時に演じることを通して大衆の欲望を顕現させて
きたのである。勿論、戦後の回復と成長の象徴は、その他のジャンル、芸能文
化、政治経済社会においても存在したであろうし、それらのジャンルの象徴的人
物を上げることも可能ではある。しかしながら、この「戦後復興の象徴」という
ある種の神話を強調することによって、彼ら一人一人の特異な人生を一般化する
ことは慎重でありたい。それは端的に「日本的なるもの」を本質主義的に想定
し、人々の多様な人生の差異を無効化してしまうかもしれないからである。

 ましてや力道山が在日朝鮮人であったことは、今ではよく知られたことではあ
る。しかしながら、この「戦後復興の象徴」的時期において、大多数の日本人は
この事実を認識していなかったのである。もし、薄々気づいてはいたとしても、
この事実は不問に付されていただろうし、力道山自身がこの事実を隠す身振りを
備えていたことは事実であろう。過去の資料やのノンフィクションものを参考に
するならば、力道山は朝鮮半島の料理を弟子に内密に運ばせたりするなど、いわ
ゆる”祖国”への思いを抱えていた。後々触れようと思うが、新潟を起点に祖国
の人々とふれあう機会もあり、大いに彼を悦ばせてもいたようである。反面、通
常”祖国”の人間と会うことを避けていたようでもある。また、”純粋”な日本
人がいる場面では、決して”祖国”を話題にしなかったともいわれている。しか
し、リング上で鬼畜米英を空手チョップで血祭りに上げるのは日本人でなければ
ならない。日本にプロレスというジャンルを成功させたプロモーターである力道
山ほど、このようなイデオロギーを自覚したものはいなかったはずである。この
事実としての朝鮮人、虚構としての日本人というパラドクスに身をおかなければ
ならなかった。また国籍制度と国民感情の乖離などなどが、彼にこのパラドクス
からの脱出を拒んでもいただろう。

 それでも尚、この「戦後復興の象徴」における社会状況や思想と生を問題視
し、彼らのあり方を測定することは、とりもなおさず今日を生きる我々のあり方
を問い直すことになるはずである。事実、これら在日朝鮮人問題、同和問題、あ
るいは沖縄問題への関心は決して低くはない。私自身の個人的経験ではあるけれ
ども、現在私自身が大学生のゼミに協力する機会をいくつか持っているが、彼ら
の多くがこれらの問題を研究テーマとして取り上げることを望んでもいる。さ
て、このような観点を力道山という象徴的存在に当てはめるならば、決して力道
山を偶像化してはならない。問題はより重層的かつ構造的なものへと広がりを持
ちながらも、力道山の生活史における局所的な場面にも配慮を施し、その行為や
思想を記述していかなければならない。

 今回のコラムのテーマは、よって力道山という「戦後復興の象徴」を考察する
ことによって、日本社会の矛盾する構造の一局面を明らかにしながらも、翻っ
て、力道山という生き方を一つの思想として捉え直すような試みを企画するもの
である。
勿論、それは体系的な考察にはおよばないかもしれないが、その一断面
を提示できれば、とりあえずの成功とさせていただきたい。

 このような企図のためのテクストとして朴一による『<在日>という生き方』
第4章「二つの祖国 力道山の伝説」を取り上げ、このテクストの思考を引き継
ぎ、その延長線上の議論を試みようと思う。朴のテクストは、アメリカの多文化
社会に触れ、その多文化教育において黒人、ヒスパニック、アジア系移民、ネイ
ティブ・アメリカンなどのマイノリティに平等な教育機会を提供し、それぞれの
民族性や民族文化を尊重しているとして、これらの状況を肯定的に捉えている。
それぞれのエスニック・グループはカリキュラムの構成の中で、母国語の授業が
なされたり、歴史教育ではマイノリティの活躍がアメリカ社会の繁栄に寄与した
側面が強調されることがあるという。このようなマイノリティへの”配慮”と
は、事実マイノリティに対する差別的な状況を有するが故に施される施策ではあ
る。

 このような施策への評価は難しい問題をはらんではいる。端的に述べてしまえ
ば、それは端的な差別の現状維持機能になったり、白人中産階級に深く根付く差
別心を隠蔽する機能を有することもあるからである。昨今のプロレスにおいても
このような状況は指摘できる。WCWでブッカーTが黒人世界チャンピオンにな
ったとき、主張されたのは当時のWCW王国が白人中心社会であるという非難を
浴びていたことに対するカウンターであった。つまり、世界チャンピオンが黒人
であるということによって、差別的な会社ではないと世間にアピールしたのであ
る。WCWの黒人世界チャンピオン誕生は、このような社会的圧力に単に与した
ものか、単なるある種の逃げ口上として整合性を事後的に作り出したものかもし
れないし、両者の要素が組み合わさったものであるかもしれない。おそらく、朴
であるならば、このような施策がアメリカの多様な文化を息づかせ、結果的にア
メリカの豊かさへと繋がる「アメリカ流の考え方」として肯定的に評価される。
つまり、マイノリティの社会的配置を制度上確保することによって、差別的な状
況を”制度の上で”改良する有効な方法として評価しようというものである。

 一方、日本の状況はまた異なっている。在日コリアンに限定すれば、96年当
時で65万7000名いる。しかしながら、外貌からして外国人としての区別は
付かないし、大多数日本生まれで、日本語に堪能、文化的にもかなりの共有がな
されている。またアメリカ社会であるならば、マイノリティが低所得者層を形成
するが、日本において在日コリアンもまた総中流に位置づけられる。しかしなが
ら、所得というレベルにおいて経済的格差がないことが差別構造の不在を意味し
ない。アメリカ社会においては所得と社会の経済上の数字において測定しうる階
級構造が一致するだけではなく、職種においても一致する。しかし日本において
は、所得と社会の経済上の数字において測定しうる階級構造は一致するが、職種
が一致しないという複雑な構造を持っている。いわゆる有名企業へ就職できない
という差別である。所得という数字がこの差別構造を隠蔽し、ある種の金銭崇拝
を持つものにとっては差別ではないという意識へと繋がるのである。経済構造と
社会構造の入り組んだ関係を注視しなければ、このような差別構造自体が看過さ
れてしまうことさえありうるし、その認識に誤解を知らず知らず介入させてしま
うのである。

 芸能・スポーツにおいて在日コリアンが活躍しているのは、徐々に知られてい
るといえるかもしれない。我がプロレス界においても、力道山、長州力、前田日
明などプロレス界を牽引してきた者たちがいる。前田の自伝『無冠 前田日明』
や辻義就の長州力の半生を描く『反骨イズム』などによって、プロレスファンに
も在日コリアンを見える存在にまで高めてきている。しかし、それでも尚不透明
であるといわざるを得ないし、何か喉に引っかかったものがある。

 朴の企図は、このような不透明さを在日コリアンの「生き方」という視点から
解読しようというものである。よって、朴による力道山の生活史の記述を読解す
ることによって、プロレスに触れたプロレスファンがプロレスという社会的構築
物を理解する少しばかり異なった視角へと繋がるのではないだろうか。

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