第16回 儀礼ドラマとしてのプロレス Part6
■投稿日時:2001年9月20日
■書き手:Drマサ


6 ”言葉のプロレス”への変容

 前節で述べたように、プロレスの演劇化がテレビという新しい大衆メディアの
力学に伴って進行する。この時、プロレスを構成する主要なコミュニケーション
形式に新しい要素が重要な位置を占めるようになる。プロレスがレスラー同士の
肉体における相互的コミュニケーションであることはいうまでもない。スポーツ
一般にいえることであるが、ノン・バーバル=非言語形式のコミュニケーション
であるからこそ、文化を越えたポピュラリティを獲得しうる。しかしながら、テ
レビはノン・バーバル・コミュニケーションであることに”言葉のプロレス”を
導入する。まずそのひとつが、「テレビ観戦者に解説を施す司会者やアナウンサ
ー」の登場である。あの古舘一郎を想起するまでもなく、プロレス中継にとって
アナウンサーはテレビ視聴に大きく貢献し、プロレスの魅力を拡大再生産しつ
つ、自らの言葉の力でもってそのアナウンス能力を独自の”文化”として評価さ
れるほどであった。

 退屈な試合だってアナウンサーのジョークでいくらでも盛り上がる。フォール
がうまく かからなくてもシラケ出したら、詩を朗読する。骨が砕ける音は、紙
をクシャクシャ丸 めて出せばいい。(P78)

 試合展開がつまらなくなったり、あるいは試合を煽るために、試合に絡まる
様々な話題を提供をする。例えば日本的な表れとしては、興業開催地の戦国武将
の話題を絡めるなどはよくあることである。これによって、プロレスのドラマト
ゥルギーを開いた物語とし、視聴者やファンの関与を高めることが出来るように
なる。この力学が高じると、プロレスそれ自体について語っているのか、プロレ
スに関連することがらを語っているのかという境界が不明確にさえなる。

 さらにこの境界の不明確さという問題は、テレビメディアに限定することな
く、プロレスに関連するメディアを中心とした多様なメディア状況に置いて考察
を拡大することができる。受け手=視聴者やファンを起点とするなら、この境界
の不明確さはそれぞれのプロレスの試合という個別的構造ではなく、プロレスに
限定し得ない領域に拡散され、受け手=視聴者のある一定の受容関係において想
定されるプロレスの豊穣さを記述するモデルへと導かれるだろう。例えばウンベ
ルト・エーコの「開かれた作品」、バルトの「テクスト」概念を想起すればよ
い。アナウンサーの登場は、このプロレスの「開かれ」方を一段高いものにした
と考えられる。よって、プロレスの物語性やプロレス観を構築する思想やイデオ
ロギーは、バーバル・コミュニケーション=”言葉のプロレス”を組み込むこと
によって意味論的な豊穣さを獲得していく。

 通常、アナウンサーの情報や新聞雑誌などの情報は、その伝達条件において
は、意味内容の明瞭性や一義的解釈を共有するよう求められている。特にプロレ
ス興業の主体は、現在の新日本プロレスを例として上げるまでもなく、情報操作
をした上で大衆にプロレスを伝達しようとする。しかしながら、先に見てきたよ
うにプロレスの歴史的展開を概観する中で発見してきたプロレスの構造は、便宜
的ではあるけれども、競技・パフォーマンス・演劇という三層構想において見い
だされていた。とすれば、この三層構造に物語性を照準すると、どの層に照準す
るのか、あるいはどの層を忘却するのかによって、情報の可能な意味内容の縮減
のあり方が異なってくる。またこの三層構造が便宜的であるように、より多層化
したものとして発見し得るだろうし、あるいは現在このジャンルの構造の変容が
なされているかもしれない。

 勿論プロレスというジャンルにはある程度の一定化したジャンル理解の慣習と
いえるものがあるけれども、プロレスという一つの”芸術”形式では、それら共
有される身体言語の慣習や、伝統的に受容されている物語性が採用されるとして
も、所与の形式を組織化する新しさを基盤として新しいプロレススタイルや価値
観を築いていくのであり、この新しさが受け手であるファンにとって情報の増大
を構成する原理となるのである。実際、既存のプロレスを否定した新しいプロレ
スが生み出されてきたことは周知の事実である。つまり受容されているプロレス
の慣習、あるいはそのイデオロギーや思想についての標準化された慣習を破壊
し、思いも掛けないプロレス・スタイルを実践し、そのイメージの流布において
も慣習的なものから逃れ、プロレスファンを含む大衆一般に新しい情報、解釈の
可能性や含蓄を提供することになる。それはジャンル全体から見れば、一義的メ
ッセージの伝達としての意味内容に対局として位置づけることが出来、多声的な
コミュニケーションを喚起する。アナウンサーによるバーバル・コミュニケーシ
ョンの付加価値は、このような文脈から捉えることが出来る。

 そして、このバーバル・コミュニケーション=”言葉のプロレス”においてよ
り重要な位置にあるのが、試合前後のインタビューであることは言うまでもな
い。儀礼においては、相互行為が起こる場としての舞台が必要になる。通常日常
生活においてこの舞台は、家庭や職場などの社会的空間になる。プロレスにおい
ては、プロレスの興業空間であり、テレビ視聴におけるメディア空間である。タ
ーナーはこのような儀礼空間を「アリーナ」と名付けている。「アリーナ」と
は、「パラダイムが形を変え、隠喩や象徴となる具体的なセッティング」であ
り、このような文脈からすれば、プロレスは「パラダイムを担い、社会的影響力
のある者が腕力を競いながら社会ドラマに努める」空間である。プロレスではこ
の「アリーナ」の中心となるのがリングであるが、リングに留まるものでもな
い。それは場外乱闘を例にするまでもなくリング外に広げられる。また、様々な
メディアにおいても拡散している。それらは「腕力を競う」という手段に支えら
れているが、その「儀礼を競う」目的を表現する「アリーナ」としてインタビュ
ーは重要な位置をしめる。この目的が先の物語やドラマトゥルギーに結びつけら
れる。インタビューによってその試合で勝利する動機が提示され、レスラーのス
テレオタイプ像が提示され、ファンがこの物語性を共有することによって、試合
でのイデオロギー的次元におけるカタルシスが終局として準備される。また、こ
のインタビューによる物語性の共有化作用が伝統的な一幕劇を基調とするプロレ
スから、いわゆる”大河ドラマ”といわれる「続きもの」としてのプロレスへの
変容へと進展する。

 プロレスが「続き物」の儀礼として確立することによって、ファンは従来の一
幕劇にはない持続的な参加を可能にする。それは参加型イベントとしてのプロレ
スにおいては、余り見ることの出来ない要素である。この儀礼の性格の変容によ
って、ひとつには長期にわたる試合の動機が構築され、レスラーのキャラクター
がファンに共有され、対立構図が明確になる。ふたつ目には、ひとつ目の要因に
よってファンの長期の参与を確実にすることになる。つまり、単にプロレスとい
う身体表現が好きだということに留まらず、その物語性やレスラーのキャラクタ
ーに”はまった”ファン層を獲得することが可能になる。これは筋書きの内容を
高度化し、その動機の複雑化をもたらし、ファンのより深い関与を引き出すこと
にもなる。

 ボールはこの続きもの儀礼の具体的な事例として、1988年頃のWWFのラ
ンディ・サベージとエリザベス、そしてハルク・ホーガンの物語を提示し、「こ
の形式は、プロレスという儀礼ドラマ自体にメロドラマ的な性質を加えます。連
続メロドラマは、扇情的、ロマンチック、大げさなアクション、過剰な感情表
現、そしてハッピー・エンドが特徴」(P182〜183)と分析している。こ
の物語におけるドラマトゥルギーの力学を明確にする装置として、インタビュー
が重要視され、プロレスを構成する不可欠な要素として前景化しているという点
が重要である。日本においてはこのインタビューは専門誌を中心として提示され
ているといえるだろう。この装置をアングルと定義しても、それほど間違いはな
いであろう。この新しい「続きもの」、あるいはアングルという力学の導入は、
バーバル・コミュニケーションにおいて意味の一義性を目指すものでありなが
ら、常に潜在的な多声性を準備してもいるのである。アナウンサーとインタビュ
ーという”言葉のプロレス”は、プロレスに新しい力学を付与したのである。

 さて、これまで、プロレスの儀礼形式の歴史的展開を考察してきた。また、こ
れらの枠組みにおいてはこぼれ落ちてしまい、理解し得ないプロレス現象がある
ことも忘れてはならない。これらの見解は、決して社会学などの学問的営為によ
ってのみ理解されるというものではなく、ファンであるならある程度の一般論と
して共有されてもいる。しかしながら、このようにその歴史的展開をボールの
{参加型・イベント型・メディア構成型}枠組みから整理することによって明確
な理解が可能にもなる。これまでの議論は、このボールからアイデアを借りて、
ボールからは横道に入りつつ、{競技・パフォーマンス・演劇・言葉と続きも
の}枠組みとして整理することによって見いだされた議論であった。

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