第17回 儀礼ドラマとしてのプロレス Part7
■投稿日時:2001年9月27日
■書き手:Drマサ


7 プロレス儀礼の官僚制

 今回のボール・テクストを取り上げたコラムの議論の中心は、プロレスという
近代儀礼における象徴の伝達過程に照準する予定であった。しかしながら、これ
までの議論の中心はプロレスという儀礼の形式に流れてきてしまった。今回は、
象徴の伝達過程に照準を絞って、議論を展開することにしよう。

 ボールからすれば、プロレスは近代儀礼の典型である。よって、経済的かつ政
治的に上位に位置する社会のエリート階層における文化的産物として儀礼は位置
づけられる。それを享受する大衆は、よってその支配下にあるということにな
る。エリート階層によって操作的に生産される商品は、彼らに巨大な経済的利益
をもたらす。その時、商品はある一定の価値や規範を伝達する。これら価値や規
範とは先に挙げた中核記号である性差別・資本主義・官僚制度・時間の商品化で
ある。

 ここでは官僚制度を中心に議論していこう。例えば、中核記号として機能する
官僚制度とは、官僚制度がいかに社会にとって有効な制度であるかという価値規
範を伝達することである。社会学的な古典的理解からすれば、社会成員の増大や
組織規模の拡大や複雑化は、必然的に指導者を出現させる。これまでの文脈から
すれば、この指導者がエリート層である。成員と指導者の分離は、社会や組織の
現実的な運営からすれば、指導者が意志決定の権力を集中化させることによっ
て、「少数者の意志への多数者の服従は民主主義の最高の徳」とする論理を必然
化する。この民主主義の名の下に民主主義の原理が否定され、心理的に正当化さ
れているということによって、官僚制度は中核記号として存在する。いわゆる、
官僚制の正当化というイデオロギー作用のもとに社会が存在するということであ
る。プロレスにおいては、プロモーターやテレビ制作者などの経済的エリート層
が意志決定の主体になる。勿論、このような見解が支配と指導の混同があると批
判することもできるが、それはとりあえずおいておこう。このような価値規範が
様々な象徴とステレオタイプによって媒介され、人々に伝達され共有される。プ
ロレスラーのステレオタイプ像において、白人が優位な地位を示すのは疑いのな
いところである。白人がプロレスラーの階級構造において上位に示されるなら
ば、それは翻って社会の階級構造とパラレルな表象となっている。白人ヒーロー
が他人種ヒーローやエスニック・ヒーローより格上であることは共有の認識とい
えるだろう。

 最高の名声を誇る白人ヒーローは、必ずといってよいほど、伝統的で保守的な
価値観を 讃えます。天賦の(神に与えられた)才能に加えて、道徳を第一に、
勤勉を重ねて、現在このような地位にあるわけです。(P161)

 このような人格を備えた白人が上位の格を保持する。80年代全盛期のハルク・
ホーガンのインタビューでのメッセージが、この引用と全く同一の内容であった
ことを想起して貰いたい。これは経済的なエリート層の人格と一致する構造とな
ることによって、官僚制度の有効性へと接合される論理を準備することになる。
そう、成功する者の人格は伝統的で保守的な価値観を保有しているとされるので
ある。このようなメッセージ性を身につけた者こそが社会的成功者であるという
社会心理の表れなのであり、プロレスもその構造において、これら価値規範に従
属しているのである。

 これらの価値規範がメッセージとして、プロレスラーの身体表象=ステレオタ
イプ像を媒介して伝達される。しかしながら、プロレスを厳密に分析するには単
純化されすぎていることはいうまでもない。実際、このようなステレオタイプ像
は常に新しいイメージを身にまとい変容するものでもある。それでも尚、最も一
般的なステレオタイプ像の核心は時間を超越して存続しているといえる。これら
ステレオタイプ像を起点として、複雑多様なプロレス現象の分析の足がかりとす
ることもまた可能であろう。これは、プロレスを「混沌たる状態の中で、調和と
不調和が繰り返される仮定の集合体」としての豊かなドラマトゥルギーとして提
示することへと繋がる。

 さてこのような視角から帰結される論理は、近代儀礼であるプロレスは消費者
である視聴者やファンを疎外し、制作者の利益を保証する社会支配の手段という
ことになる。つまり、プロレスは社会支配の手段である。未開社会においては、
社会統合という側面から儀礼は位置づけられる。近代社会において文化の多様化
が進展し、社会の統合力は拡散する。このような事態は、社会統合の欠落という
危機において日常生活を不安定なものとするために、秩序維持のために新しい儀
礼形式が生み出される。それが、これまで述べてきた近代儀礼である。そこで、
近代儀礼は大衆の価値規範の共有を起源として発生し、「人生の神聖さ、友情、
信頼、逆境への心構えなどを表現」するが、この儀礼の原型を経済的エリート層
は文化的生産物として生産するようになる。よって大衆によって生み出されたも
のが、エリート層の文化生産によって変容される。商品や興業などの娯楽は、儀
礼の意味を伝達することになる。これらの意味は、あるバイアスを架けられるこ
とになる。例えば、黒人や女性を表象するとき、それらが否定的な価値を付与さ
れるというように。「実際、ステレオタイプ化された集団や価値観に属する人々
は、かくして弾圧、抑圧されるのです」として、大衆やファン、消費者は受動的
な盲目的存在として評価されてしまう。

 しかしながら、我々はボールの見解から離れれば、異なる視角を見いだすこと
も可能である。我々は既にプロレスとサーカスの関連を見てきた。そこでサーカ
スを儀礼という概念から切り取る試みを参照してみよう。ポール・ブーイサック
は、サーカスの記号論を展開する中で、サーカスの儀礼性に関連してレヴィ=ス
トロースのターナー批判を要約し、儀礼における多様性と個別性を重視する必要
があるとしている。儀礼研究者が、儀礼において表象される価値規範に人々が巻
き込まれる点を重視することに客観的妥当性があるとしながらも、その理論化に
よって包摂不可能な現象を軽視しているという。

 神話は物語の一貫性を備えたディスクール的「テクスト」として表現されるだ
けではなく、儀礼の一部を構成している断片、ノート、スケッチ、の形でも表現
されている。ここから最初の混乱が引き起こされるので、まず直接的な意味作用
をする神話と潜在的な意味作用を持つ神話の双方を合わせて神話と考え、これを
儀礼から注意深く区別する必要がある。(ブーイサック『サーカスアクロバット
と動物芸の記号論』)

「直接的な意味作用をする神話」とは、ボールの議論においては中核記号である。
また、バルトの『神話作用』においてはプチブル・イデオロギーであり、社会の
支配的な価値規範のことである。「潜在的な意味作用を持つ神話」とは、支配的
価値規範に包摂できない多元的現実の切片である。この視角を援用するならば、
ターナーの儀礼概念が前者に傾向しすぎるということから、この儀礼の相反する
に側面を区別した上で、儀礼の理論化をすべきだということになるだろう。

 また「儀礼にみられるオブジェの操作や身振りは、コンテクストをなす文化に
おける同じオブジェや身振りの慣習的用法からはみだしている」(ブーイサック、
P165)という指摘は、バルトのいう誇張の身振り、シニフィアンの振る舞いの異
なりである(当コラム第2回および第3回参照)。儀礼は支配的文化によって規
定しえない特異性に価値を与える、パラドキシカルな世界を生成させる。

 この特異性に焦点を当て概念化したのが、カーニバルである。ここで、付言し
ておきたいのは、儀礼概念とカーニバル概念は主に祝祭空間を切り取る概念であ
るために、それぞれの強調点に差異があるが、共通する部分も多い。これまでの
論旨からすると、プロレスに儀礼概念を適応した分析をする場合、論理演繹的に
社会反映論的視座の中に留まる傾向が強くなる。プロレスは、支配的価値規範を
維持強化する表象=再現=上演であると。しかしながら、「潜在的な意味作用を
持つ神話」という視角を持ち込むならば、支配的手段であるという論理から離脱
する差異をより明確にするべきである。

 実際、ボールのプロレス論においても、「潜在的な意味作用を持つ神話」とい
う視角から帰結される論理が紛れ込んでもいる。近代儀礼の商品化がすなわち疎
外であるというのは、プロレスの社会的位置を巡って見いだされる構造ではある
が、試合の中でのドラマトゥルギーは、例えば官僚的なルールの侵犯や家父長制
的な女性の役割からの逸脱などが見いだされる。つまり、プロレスが中核記号の
忠実な模倣ではないことが示され、ファンはそれを望みもする。ボールはこのよ
うな現象を演劇上の官僚制度からの逸脱として、実際の官僚制度と区別する。し
かしながら、現在の日本のプロレスを例に出すなら、この「演劇」と「実際」と
いう区別自体が揺れ動くものといえないだろうか。だからこそ、プロレスラーが
サラリーマン的な生き方をしているとみると、ファンはそれを非難し、現行のプ
ロレスのあり方の乗り越えを夢見るのではないだろうか。そして、その乗り越え
をかいま見せてくれるプロレスラーやその運動体を指示してきたのではないだろ
うか。

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