第15回 儀礼ドラマとしてのプロレス Part5
■投稿日時:2001年9月13日
■書き手:Drマサ


5 パフォーマンスが自律するプロレス

 プロレスが競技的性格を後退させ、パフォーマンス的性格を前景化させる頃、
つまり1915年から20年頃の間にその人気は一時的に降下した。その理由の
ひとつにスパースター”フランク・ゴッチ”の引退があったこと。ふたつ目には
まさにプロレスの変容に関して、新聞紙上において批判がなされ、スポーツとし
ての正統性が疑問視されることによる。しかしながら、当時のプロレスは競技的
性格を復活させるのではなく、そのパフォーマンス性を発展させることにより、
ファンの獲得を目指すのである。つまり正統的なスポーツジャーナリズムの正統
的なオピニオンに与するのではなく、興行主は大衆が欲する刺激的なアクション
とドラマトゥルギーを提供するという方針を執っていくのである。このような方
針が、プロのレベルにおける純粋な競技性を後退させたのであった。

 ルー・テーズ英文自伝によれば、テーズがプロとしてプロレスの世界に入った
1930年代には、既に希少な存在となっていたが、純粋な競技としてのプロレ
スはいまだ見られたという。しかもその時代の競技的なプロレスが行われる状況
は特異なもので、組織としてはビジネス上のライバル組織の問題解決のため、ま
たプロレスラー個人としては女性や金銭に関わるトラブルがリング上に持ち込ま
れることが原因であることがしばしばであったという。

 また、”シュートshoots ”あるいは”競技contests”として呼ばれる競技を
第一義としたプロレスの現象が後退していくのは、様々な見解があるけれども、
1800年代も遅くになってからと考えられる。いわゆる資本主義経済の発展
と、それと平行して近代プロレスが成立したのであるが、まさに近代プロレスの
成立期とは、同時にレスリングの端境期としてそのスタイルの変容を推進させて
きたのであり、そのアイディアの貯蔵庫として近代プロレス成立以前の巡業団や
カーニバルと呼ばれる興業集団がその役目を果たしたのである。また、誤解して
はならないのは近代スポーツにおけるプロ化の成立において、八百長行為が問題
視されていたのはプロレスに限ったことではない。ボクシングも同様であり、賭
事の対象となるスポーツには常にこの問題が付随していたのである。ただボクシ
ングはその後の展開のにおいて、プロレベルにおいても基本的には競技化の方向
に進む。

 しかしながらテーズが強調するのは、1930年代のプロレス界の秩序を形成
する力学があくまで競技としてのプロレスリングの能力であって、”受け身
bump ・見せ場 high spot ・ポテト potato” などのパフォーマンス能力ではな
いという点である。それはインサイダーであるプロレスラーや興業関係者はもち
ろんのこと、一般ファン層においても共有されるプロレス観でもあった。当時既
に”スマート smart ファン”という、これらプロレスの隠語を駆使するファン
層が存在したが、彼らがこのような隠語を駆使する理由は、なんといってもプロ
レスという専門集団にコッミットしているという強い感情を抱かせたからに他な
らないだろう。彼らのような存在は、現在シュート活字というプロレス文化の一
領域を構成するファン層であるスマート層との連続性を見ることができるかもし
れない。

 さて、当時のプロレス観に戻れば、競技としてのレスリング能力が最も重視さ
れる。その視角からすれば、現在のプロレスにおいて、キャラクターやギミック
によりそのポピュラリティ獲得がなされ、競技ではなくパフォーマンス能力が重
要視されるプロレスとは、ジャンルとして異なっているという意見を生み出して
もおかしくない。実際テーズはそのような指摘をしている。なぜなら、現在のプ
ロレスにおいて競技者としての技能が問われることは少ないし、いわゆるプロレ
スと格闘技を別物とする意見はその端的な例証である。それはインサイダーであ
ってもファンであっても「プロレスはプロレス」という表現においてみられるの
ではないだろうか。

 勿論「プロレスはプロレス」とは、プロレスのパフォーマンス部分の力学が競
技の力学から差別化されることによって、独自の力学を構築し、その延長線上に
独自の美学を生み出したという意見を生み出すことにもなる。これらの視角から
すれば、ジャイアント馬場の「プロレスの基本は受け身」とは古典的なプロレス
観ではなく、パフォーマンス部分の力学が自律していくプロレス観に支えられて
いるものであるといえる。しかしながらそれでも尚、競技としてのプロレスが幽
霊のように回帰し、現在のプロレスを脅かすともいえるかもしれない。故に、新
日本プロレスのストロング・スタイル思想が脅かされるのであろう。ストロン
グ・スタイルが単なるアングルなのか、真に思想的な表現なのかを証明するほど
の実証的証拠を見いだすことは困難であるが、いわゆる”プロ格”という動向を
このような視角から位置づけることも可能であろう。プロレスがレスリングを大
衆の志向において提供するということをその核心とするなら、単なる競技として
のプロレスが成立しても構わないし、演劇として成立しても構わないだろう。つ
まり堺屋太一指摘するところの、観客主導の消費者主権こそがプロレス興業の秩
序であるとするならば。勿論、ここには現象としてのプロレスと思想としてのプ
ロレスとの隔たりが厳然と存在し、この隔たりがあるからこそ多様なプロレス観
を生み出すことにもなる。

 ボールの議論に戻ろう。さて、プロレスにパフォーマンス部分を発達させる大
きな力学が、レスリングの職業化にあった。そしてそのパフォーマンス部分をよ
り自律させていく力学として機能したのが、テレビというメディアの登場と普及
であると指摘される。ここにメディア構成型イベントとしてのプロレスが成立す
る。まさに見るスポーツへの変容が、テレビ以前の社会では考えられない数のフ
ァンへの提供を準備するのである。つまり、観衆を基本的要件とする儀礼がメデ
ィア空間において成立する。

 1940年代の終わり頃からテレビはアメリカ社会に普及する。パフォーマン
ス部分を発達させたプロレスのアクション性を伝達するメディアとしては、ラジ
オは不十分なものであった。また新聞は当時プロレスをスポーツとして報道する
ことはなく、ビッグイベントの興業がある時などに、興業規模の大きさ、プロレ
スラーの収入の大きさなどを驚きを持って報道したり、正当なスポーツ記者から
はこき下ろしされるのがいいところであった。つまり、正当なジャーナリズムは
その興業規模の大きさやプロスポーツとしての成功にも関わらず、プロレスをそ
の暴力性や八百長視することから否定的対象として批判し続けるのであった。し
かしながら、テレビはこのファンを既に獲得していながらも、第二次世界大戦の
影響から沈滞気味であったプロレスにとって、視覚的効果をそのまま伝達するこ
とからそのファン層を拡大するのに役立ったのである。それはより大衆の志向を
彼らの娯楽空間を満たすものとする力学をもってして、プロレスをショーアップ
する。

 ちなみに日本でテレビ購入の最大の要因がプロレスであったという指摘がなさ
れるのと同様、アメリカにおいてもテレビの普及にプロレスが果たした役割は大
きい。両国において、テレビ普及の速度が速まった要因としてプロレスを上げる
の妥当なところだろう。実際にプロレスラー・ゴージャス・ジョージが、電器店
の店頭に立ってテレビ販売に協力したり、プロレスとテレビは当初共存共栄とい
える相性であった。

 1947年のテレビの出現で、少なく見積もってファンは1000倍に増えた
だろう。 同時に長いブロンド・ヘアーにインディアンの髪飾り、それから毛皮
のマントといった、風刺漫画のように突飛なレスラーのイメージができあがった。
ショーの魅力と暴力 の併存が人々を魅了。テキサス州ウィチタフォールズのア
リーナですら、まるでニュー ヨークであるかのように観客で超満員になった。(P76)

 このようにプロレスラーのキャラクターが明確となり、いわゆるギミックが花
盛りとなっていく。テレビ以前のプロレスにおいても、アメリカ社会の特性から
エスニックなキャラクターが存在しなかったわけではないが、ここまで敢えて意
識的にかつ操作的にキャラクターをファンに提供することが重視されることはな
かった。それまでのキャラクターは、あくまで社会的に構成された”自然”の振
る舞いにおいて共有されるものであった。この延長線上に様々なステレオタイプ
像がリングを飾った。それらステレオタイプはウィリアム・マーチンの分類に従
って列挙されている。ナチス・ジャップ・ロシア人などの危険外人、気取りやと
インテリ(ドクター、プロフェッサー)、ろくでなし(キラー、マッドなど)、
覆面の悪役、ヒーロー、黒人とヒスパニック系、アメリカン・インディアン、そ
の他のステレオタイプ(ネイチャーボーイなど)。勿論、これらのステレオタイ
プはそれぞれの社会的状況というコンテクストによって、様々な変装を引き起こ
すだろう。

 これまでの議論においてプロレスが競技性から離脱し、そのパフォーマンス性
を自律化してきた歴史的展開を見いだしてきたのだが、これらギミック、ステレ
オタイプの拡充はそれらの枠組みを越えている。「テレビは、プロレスとはかく
あるべしという規範を変えました。そこでは、役者はカメラに顔を向けなければ
ならず、何を放送するかを決定するのはディレクターです」(P77)という主
張は、プロレスの演劇化とでもいえる新たな力学の発見として見いだすことがで
きるかもしれない。ドラマチックでエキサイティングなメディア構成型イベント
の時代へと突入したのであり、それは現在へとつながっているのはいうまでもな
い。

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