第14回 儀礼ドラマとしてのプロレス Part4
■投稿日時:2001年9月6日
■書き手:Drマサ


4 観客型イベントとしてのプロレス

 先に挙げた都会型のレスリングと地方巡業団によるレスリングは、全く別次元
の出来事ではないだろう。レスリングという競技スポーツおいて通底していたの
はいうまでもない。両者を単純化して二分化することは難しいと思われるが、両
者の関係は今後の課題としたい。

 しかしながら、当時のアメリカで、最も盛んなスポーツであったレスリングを
幼少の頃から行い、特に労働者階級あるいは極貧層の子弟がそれを職業とする機
会が訪れたとしたら、巡業団のレスリングに参入するのは至極当然のことであ
り、バクチ興業に腕自慢の者たちが参入するのも必然である。その延長線上にお
いて、最も重要なのはレスリングを職業とすることが可能であるということであ
る。実際サーカスに組み込まれていたプロレスは、産業化の波に乗って、プロレ
ス独自のサーキットへと変貌し、カーニーや地方巡業団はプロモーターと呼ばれ
る存在へと変貌し、プロレス興業のあり方自体が近代化していくのである。それ
は都会型のレスリングと接合されたものと見ることができ、観客型イベントへの
変化への要件であった。まさに”フランク・ゴッチ対ジョージ・ハッケンシュミ
ット”は、観客型イベントとしての当初の頂点であった。つまり、近代的なプロ
スポーツ成立の混迷状態が、都会型のレスリングとこの地方巡業団によるレスリ
ングという二つの形態において観察可能なのではなかろうか。

 このようにレスリングを観衆の娯楽として提示すること、レスラーと観客の境
界が明確となることが観客型イベントの成立となった。そして、近代スポーツ成
立の要件である明文化されたルールによるスポーツの運営という側面とは別次元
で、ここにレスリングの近代化の一面を観察することができる。つまりレスリン
グの専門化(プロフェッショナル化)である。この時、観衆の中心はレスラーの
知人友人ではなく匿名的な一般大衆へと開かれ、カーニバルレスラーを媒介とし
た素人の腕試しという側面、あるいはその地域におけるレスリングの名手・腕自
慢の賞金稼ぎとしてのバクチ興業が、プロレスを構成する要素から後退すること
になる。そして、観衆の趣向を最も重視することから、プロレスの演劇的性質に
大きな影響がもたらされ、プロのエンターテイナー、パフォーマーとしての職業
として発展する。

 伝統的な儀礼が人間の自然な発想から生じたものであることと区別して、この
時、儀礼が人為性を中核とする近代的特質を表すとされる。ターナーはこの人為
性を中核とする近代儀礼を「リミノイド(疑似境界状態)」とカテゴライズして
いる。近代の娯楽レジャー活動は、資本主義的な欲求の体系から営利目的や商品
化にその起源を発するという意味で、その人為性が強調されるということにな
る。その人為性は既に無意識化されているということになるが、儀礼の伝統的な
形態がその”自然性”に根ざすことが主張されるとき、その差異が強調される。
よって、レスリングの近代化とプロフェッショナル化とは、スポーツとしてのレ
スリングとは異なる人為的パフォーマンスを許容することから「リミノイド」儀
礼であると位置づけられる。

 他のスポーツにおいても、プロ化がなされたのはいうまでもない。そこには程
度の差こそあれ、観衆の趣向に合致するようなスペクタクル化にともなったルー
ルの変更などもあった。しかしながら、それは競技スポーツという枠組みを逸脱
するような作為性はなかった。プロレスにおいて、その作為性が顕著となる理由
として挙げられるのが、レスリングの競技化の徹底の果て、優秀なレスラー同士
の試合が”膠着地獄”と化することによる退屈さが挙げられるのがひとつの理由
であろう。

 大衆向けのショーとして、レスリングの最大の欠点は、その退屈さにある。レ
スラーは、必死の形相で延々と寝ころんだまま、まるで湿地に生える樹木の様な
格好で互いの身体を絡ませあう。余りに複雑に絡んでいるため、入れ墨のような
決定的な印でもない限り、どの腕が誰のもので、螺旋状に締め付けられた肱が誰
のものなのか、それすら見当もつかない。時には彼らは、ほとんど惰性でそうし
ているため、二時間でも二日間で も続けかねない。レスラーの忍耐力、粘り強
さは、確かに称賛に値する。しかし、これでは遠くから見守るしかない観衆の熱
を上げるには至らない。(P60)

 現代のメディアの発達に伴い、一般大衆が格闘技の技術の知識を獲得したり、
実際格闘技を行いその知識を獲得しているとしても、マーク・ケアーのプライド
での闘い方にブーイングをあげる観客と、”フランク・ゴッチ対ジョージ・ハッ
ケンシュミット”の試合結果に不満を募らせ、詐欺行為だと非難した観客の心性
にそれほどの違いがあるわけではない。勝負論と興業論(観客論)という二元論
によって語るプロレス格闘技論がよく見られるが、それは近代プロレス成立当初
からの難題として見いだしうる範型であろう。つまり歴史は繰り返すのである。
1900年前後においては、勝負論を後退させる形式が選択されていったのであ
る。しかもその時代はレスリングが娯楽として盛んだった時代でもあり、レスリ
ング知識を持っている者は多いのである。格闘技の知識の有無とスペクタクルと
しての悦びは必ずしも一致するわけではなく、距離感が大きいとしかいいようが
ない。ましてや一般大衆においては、その知識の有無が重要な要素であると”教
育”することには更なる距離感があるだろう。

 また、スペクタルに欠ける地味な攻防のレスリングの真剣勝負の結果として、
レスラーの怪我が挙げられる。現代の医療であるならば、怪我の回復を期待でき
るとしても、1900年前後の医療技術ではレスラーの人生を棒に振らせてしま
うことがある。怪我が致命的ではないとしても、レスリングのムーブができなけ
れば、”賃金”は入らず、職業として維持することが困難になる。結果、この致
命的な怪我を回避することさえ可能とすることが、職業としてプロレスの成立へ
と導いたのである。

 そして「保証付きの娯楽」として、プロレスは観衆の獲得のために変容=再転
調した。つまりアクション性に富む観客型イベントとなった。

 レスラーと退屈した観衆が織りなす緩慢な相互行為から、レスラーは、試合中
にアクションを頻発するようになりました。レスラーが真剣に勝負しているうち
に、観衆はどちらか一方の好きなレスラーを選び、最終的には、そのレスラーが
勝つというのが、お決まりのパターンとなりました。(P61)

 この観客型イベントおいて、プロレスは競技レスリングの技術を基礎とする転
調を行っていく。例えば、エド・ストラングラー・ルイスのヘッド・ロックがそ
のひとつである。従来の競技レスリングにヘッド・ロックという締め技が技術と
してなかったというわけではないが、ルー・テーズによれば、ヘッド・ロックは
チョーク、あるいはスリーパー・ホールドを改良し、客受けする技にしたもので
あるという。純粋なコンテストにおいて、特にスタンド状態でヘッド・ロックを
かけるとしたら、それは自らを危険な状態へと晒すことになる。しかしながら、
ヘッド・ロックをかけることによって、技を掛けている者は必死になって力をい
れていることを観客に誇示することができるし、角度によっては、掛けられてい
る者の苦悶の表情を演出さえできるのである。このようにより観客を高揚させ、
より危険な技であると印象づけることが可能になる”パフォーマンス・ホールド
performance holds ”が発明されていくのである。

 あるいは、”受け身 bump ”という視角に訴える身体の落下技術、”見せ場
high spot ”という競技レスリングでは困難なエキサイティングな試合展開の一
場面が発明される。また”ポテト potato ”という実際に打撃を加えるという動
きも作られらたが、この”ポテト potato ”の技術の歴史的発展が、力道山の空
手チョップ、天竜源一郎の驚愕の水平チョップ、あるいはラリアートという必殺
技などを生み出したとすれば、競技レスリングに付加されたある種のパフォーマ
ンスを加味した技術の”芸術性”への昇華が、我々を魅了する一部であることに
依存はないであろう。

 また、いわゆる競技レスリングに見られる一般的なムーブであっても、それが
アリーナ後方の座席の観客にまで理解されるように微妙な誇張がなされ、そのよ
うな動きにあわせたリアクションをパフォーマンスすることがプロの技術として
定着していくのである。このようなレスリングの変容におけるいわゆるパフォー
マンス部分が、観客を前提とする格闘芸術としての基礎として機能するようにも
なるのである。だからこそ、「相手の技を受ける」ことがプロレスの基礎である
という”思想”が生み出されもするのである。

 ご意見・御感想等ある方は、下記ボタンで送信していただくか、掲示板にお書き頂ければ幸いです。





本稿の著作権はすべてKANSENKI.NET及び「書き手」に帰属します。

戻る
TOPへ