第11回 儀礼ドラマとしてのプロレス Part1
■投稿日時:2001年8月16日
■書き手:Drマサ

テクスト:マイケル・R・ボール『プロレス社会学 アメリカの大衆文化と儀礼ドラマ』
1993年、同文舘

1 AVとプロレス

 赤川学は、ひとびとの欲望と文化コードの関係を性の領域で社会史的に考察し
ている。ピンク映画からAVへと性メディアの技術的変遷とその男性消費者の性
的パフォーマンスのあり方や性をめぐる言説の変遷との関係を論じる中で、AV
のリアリティ、つまり映像内の性行為が’本番’なのか’疑似’なのかという関
心がAVファンの関心の中で重要な地位を示していると報告している。また制作
者側もそれをつねに意識させてきたという。あたかもプロレス・格闘技におけ
る”真剣勝負アングル”や”ヤオガチ”論争を想起させる。

 バクシー山下監督作品を事例とし、20代前半の二人のAVファンのインタビ
ューから、男性消費者はリアリティを追求しはするが、それがあまりに現実のリ
アリティそのものに接近しすぎる場合、その現実性ゆえに楽しめないという。赤
川はこのような文脈の中でプロレスに関して「このようなAVのリアリティの変
容は、プロレスが「リアリティ」追求に走ったあげくの末路ときわめて類似す
る」と指摘している。つまり、80年代社会現象とまで言われたUWFという新
しいプロレスの動向を発端とした「格闘技としてのリアリティ」追求が、結果プ
ロレスファンがプロレスに抱いていた共同幻想の強度を弱体化させ、従来の「演
出されたリアリティ」としてのプロレスの魅力を再確認することになったとい
う。

 赤川によれば、UWFとはプロレスが八百長視される大きな要因である場外乱
闘や反則を廃止し、相手の技を受けずスポーツライクな格闘技を志向した団体で
あったが、その後分裂して行き、パンクラスという団体ではその究極の形態を実
現したと指摘されるという。「格闘技としてのリアリティ」を純粋に追求すれ
ば、試合は客受けする華々しい攻防を欠き、盛り上がりのないものとなる傾向が
ある。また、93年アメリカで開催されたアルティメット大会では、「何でもあ
り=バーリ・トゥード」ルールというルールによる制約が極端に少ない噛みつ
き、目潰し意外なんでもありという試合が行われ、選手同士の団子状態、顔面殴
打という試合経過が「格闘技のリアリティ」追求の結果であることをファンに提
示するという結果になった。また同時にこのアルティメット大会を発端とした、
総合格闘技の台頭はプロレスラー最強論を揺るがすものとなった。

 日活ロマンポルノとAV、プロレスとバーリ・トゥードのリアリティの質を対
比させ、プロレスファンが共有する期待は「『真剣勝負』に準じて、退屈な試合
をし、つまらない勝ち方をするのとは別物」という側面を持ち、「つまりファン
の期待に応じてリアリティを追求した結果、それがあまりに行きすぎると、かえ
ってファンの側はかつての「演出されたリアリティ」への郷愁を呼び起こし、そ
の魅力を再認識するのである」という。赤川がインタビューしたT君は、日活ロ
マンポルノが好きな理由として、そのストーリー性や想像力を上げている。ここ
で赤川がいうプロレスファンが、日活ロマンポルノを好きであると主張する心理
とオーバーラップさせているのはいうまでもない。ちなみにプロレスラー高野拳
磁は、プロレスを日活ロマンポルノがもつリアリティに類似していると指摘して
いるという。

 そして、赤川はAVの虚構性とその視聴者が生きる現実世界の関係を問題視
し、AV視聴者が「虚構」と「現実」の境界線を守りつつ、そのうえでその虚構
性を利用し、自己の性的志向のあり方の認知をしているという。そして我々プロ
レスファンも同様、プロレスの「虚構」と「現実」の境界線上においてプロレス
を見、そして解釈する悦びをもっていることはいうまでもない。かつそこにプロ
レスファンのアイデンティティが一様ではないにしても、また普遍的ではないに
してもかいま見れるのではないだろうか。    

 赤川が指摘するのは、ジャンル固有の虚構性と現実性の狭間において表出され
るリアリティの問題である。つまり「リアルであるとはいかなることか」という
哲学的あるいは社会学的思索へと連続していく。プロレスや格闘技において、こ
のようなリアリティ追求=シュート志向=競争主義は社会的リアリティに合致す
る傾向がある。つまり支配的イデオロギーに合致するものといえるかもしれな
い。しかしその極限を我々は拒否するのである。さて我々はここでプロレスのリ
アリティの問題を角度を変えてみていこう。つまり日活ロマンポルノを好むT君
によって指摘されるストーリー性や想像力に関してである。

 我々はこの視角に接近するために儀礼という概念を介して議論をしていこう。
つまりプロレスというカーニバルにおける儀礼の側面である。儀礼は人々の価値
観や規範を再現することによって、シニフィエを維持し、あるいは強化してい
る。つまりこのシニフィエが、ストーリー性や想像力に対応する。バルトのプロ
レスにおいては、ルールと正義の弁証法によって提示されるプチブル・イデオロ
ギーが再現されていた(当コラム第2回参照)

 バルトの「レッスルする世界」は偽装された演劇空間という一種虚構世界によ
る「ルールと正義の弁証法」の呈示であった。日本のプロレスを考察する上で、
現実世界におけるプロレスシステムあるいはスタイルの変動によって呈示される
という差異が存在している。この’差異’は日本のプロレス文化を分析する上
で、重要な視角を与えてくれるが、ここでは両者の相同性、つまり儀礼によって
呈示される価値規範、つまりシニフィエに焦点を当てよう。赤川が事例としたU
WFであるならば、社会に認知される格闘技としてのプロレスの構築が「夢の実
現」という”青春物語”ストーリーとして見いだされていたという側面を見いだ
しうるなど、いくつかのストーリーを抽出可能である。

 前田日明を中心とした若者たちの自我確立の物語であり、現代社会において理
想を抱く者たちの社会的あり方を反映する「夢」イデオロギーとでもいうべきも
のを見いだすことが可能である。極論すれば、UWF”青春物語”におけるシニ
フィエとは「夢」イデオロギーとでもいえばいいであろうか。それはUWF内部
における人間関係、その外部にある”現実”によって構成される常識との葛藤に
よって構築される。そしてファンはこの「夢」に深く関与するからこそ、チケッ
トを買い、時には”密航”をしたのである。”密航”はこの時、儀礼行為とみな
すことができる。

 さて、この儀礼という概念を駆使してプロレスを分析した知見がある。マイケ
ル・R・ボールは支配階級の利益にかなった価値の伝達による大衆支配という儀
礼の一側面を強調し、アメリカにおけるプロレスの社会学的考察を行っている。
ボールの分析は、儀礼の持つ新しい価値の創造の契機、あるいは既存の価値体系
の破壊、修正という視点を無視しているわけではないが、大衆支配の原理として
儀礼を強調する傾向が強い。彼にとってプロレスは、大きな資本力を持ったプロ
モーターやスポンサーによって支配され、エリート層に大きな経済的利益を与え
る文化的生産物である。大衆は特定の社会的価値観を受容する無力な受動的存在
として規定される’伝統的’な大衆社会論の系譜に位置づけ可能な議論を展開し
ている。

*参考:赤川学「AVの社会史」、上野千鶴子編『現代の世相……・色と欲』1996、小学館

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