第12回 儀礼ドラマとしてのプロレス Part2
■投稿日時:2001年8月23日
■書き手:Drマサ


2 ボール=プロレス社会学の理論的視角

 ボールは、ゴフマンとターナーの儀礼理論を組み合わせたディーガンの儀礼に
おける中核記号から、プロレスによって提示される価値規範を明らかにする。デ
ィーガンはゴフマンのドラマトゥルギー的メタファーと、ターナーの日常におけ
る「反日常的」な現代における儀礼理論を組み合わせ、儀礼による支配層として
の匿名的なエリートによる管理、抑圧的支配が現代の高度資本主義社会における
顕著な特徴であると述べている。被支配層は、支配層が与する価値規範を追随す
ることによって社会的な評価を勝ち得るため、この価値規範は維持され、強化さ
れるという。この時、価値規範を構成するコードとして中核記号とは、「官僚主
義」「時間の商品化」「女性差別」「資本主義制度」が上げられる。このような
コードの成立から、それまでの儀礼概念と峻別するため「近代儀礼」と概念化す
る。中核記号が形成するコードにしたがって、我々は日常生活において自己呈示
するが、結果的に抑制と弾圧を受ける。

 プロレスは、儀礼の原型から変容するうち、次第に最大利潤を目的とし、保守
的な官僚 主義エリートの持つ主な価値観をこっそりと観衆に押しつけるリミノ
イド儀礼に変容。 労働者階級は、社会ドラマの中でヒーローと悪役を同時に演
じ、矛盾と「抑圧」を創造 します。伝統的な労働者階級の価値観は一応保たれ
ますが、階級や性別の「弾圧」に基 づくエリート階層の解釈を経て、大衆へア
ピールされます。(P202)

特にプロレスは儀礼による象徴の商品化の宝庫であるがゆえに、社会学にとって
重要なフィールドになりうるし、多種多様な象徴はプロレスの豊穣さとなってい
るという。しかしながら、社会は支配的なエリート層と被支配的な労働者階級と
いう二元論の中、プロレスという儀礼ドラマはその象徴、例えばステレオタイプ
的なレスラー像、メッセージ、キャラクターグッズなどの商品によって、そのメ
ッセージの伝達過程に揺れがあるとしても、エリート層が自己の社会的地位を安
定化させる役割を果たしていると指摘される。たとえば、「「ハルク・ホーガ
ン」アイスには、儀礼から得た意味が象徴的に商品化され、ファンはそれを金で
買う」(P205)というパフォーマンスとは、現代儀礼の下部構造として資本
主義があることを思えば、至極当然のことではあるが、まさにハルク・ホーガン
によって提示されるステレオ・タイプ的象徴を肯定的メッセージとして、そのイ
デオロギー性を隠蔽しつつ伝達されるのである。このメッセージの伝達において
より重要なのは、情報不足であったり、黒人といった社会の中核に位置しない者
たちを象徴するとき、そのステレオタイプが「横柄、馬鹿、不器用、軽薄、背
徳」という否定的イメージを構造化することになり、その差別を維持する機能を
果たしてしまうことにあるという。あるいはそれは「女性差別」においても同様
である。
 さて、この四つの中核記号とはプロレスにおけるシニフィエおよび価値規範を
構成している。バルトの『神話作用』の論旨からすれば、この中核記号における
コードは現代の神話を構成するイデオローギーであり、自然を装う嫌悪すべき対
象であった。しかし、このシニフィエはシニフィアンが誇張の振る舞いをするこ
とによって、’素’のままとは言えないと、以前指摘したとおりである(当コラ
ム第2回参照)。儀礼は、既成の価値規範の現状維持に貢献するだけではない。
ターナーも指摘しているのだが、それを批判したり、相対化する契機にもなりう
るのである。メタ・コミュニケーションの機能が立ち上がってもいるのである。
このことは、カーニバル理論によってより明確になる(当コラム第3回参照)。

 現代のプロレスが、この「近代儀礼」の典型であると主張するのは簡単であ
る。しかしながら、ここで付言しておきたいのは、儀礼概念を援用し、社会構造
を把握しようとする試みがイデオロギーの検証となるのは至極当然のことであ
る。ここで少々議論を迂回させることになるけれども、儀礼という概念によって
提示される社会学的視角を概観しておこう。この作業を通じて、後の批判の土台
としたい。先んじて、その批判的立場を挙げておけば、オーディエンスであるプ
ロレスファンの多様性であり、プロレスというテクストはいかにカオスに遇する
のかという問題、あるいはこれからのベル儀礼のロマン主義的系譜に関してであ
る。
 デュルケムにおける儀礼概念は、彼の集合表象というカギ概念と深く結びつい
ている。儀礼とは「人が聖物に対してどのように振るまうべきかを規定した行為
の基準」であると定義している。ここで「行為の基準」というものが、価値観や
規範であり、「中核記号」に対応するであろう。デュルケムの儀礼概念は、また
彼の聖俗二元図式における「聖なるもの」の二側面「尊厳の聖なるもの」と「違
反の聖なるもの」に向けられることによって、宗教的側面に焦点が当てられる。
我々プロレスファンが、プロレスを聖なる空間と称するとき、このようなプロレ
スという儀礼の非日常性を賞賛しているといえるだろう。
 ところが、儀礼という概念は日常生活に適応されることになる。ターナーはフ
ァン・ヘネップの通過儀礼概念を取り入れ、期限や境界を社会に顕示するするこ
とによって、新しい自己がその儀礼を通過することによって生成するとする。儀
礼における特徴は、日常における規範や価値観という制約が「反社会構造性」に
よって一時的に喪失することにあるが、儀礼終了後、規範や価値観は成員の「共
感」の高まりによって維持される。ターナーによれば、儀礼の最中は参加者の社
会的地位が未定であることによって、混乱状況が演出されるという。この状態を
「境界状況」という。さらにこの儀礼概念を近代社会に適応し、レジャー活動が
儀礼的地位にあると主張する。レジャー活動の直中にいる時、人々は社会構造に
おける従属的地位から一時的に棚上げされ、あるいは家庭や労働のどちらでもな
い状況におかれ、緩やかな「反社会構造性」を獲得する。この状態を「リミノイ
ド(疑似境界状態)」と呼び、社会構造の現状維持的機能を果たすという。特
に、儀礼性が日常生活において拡張する大きな要因として、テレビを中心とした
メディアの力学を考察しなければならないだろう。プロレスとテレビ(近代的な
レジャー活動の一種)の”共犯関係”は、この近代儀礼という問題からも重要な
視角である。
 ターナーが我々の日常的活動における儀礼的側面を明るみに出す以上に、より
ミクロな日常的次元の儀礼的側面に注目したのはゴフマンである。デュルケムは
儀礼の場面において、宗教的側面を強調して相互行為者の行為を決定づける価値
規範の表象を「聖物」と呼ぶ。ゴフマンは日常生活における行為主体と対面的状
況にある行為主体との社会関係に焦点を合わせ、「聖物」とは儀礼の相互行為者
によって状況づけられる社会的産物であると指摘する。つまり日常的な「表敬」
あるいは「適切な挙錯」というミクロな権力関係に、社会構造の現状維持的機能
を見る。その反面、ゴフマンは日常の’些細’なコミュニケーション場面に儀礼
構造が介入し、秩序維持の機能を果たしていることを主張しながらも、人間が多
重の現実を同時に生きることができる存在であるとして、現実の多元性をも主張
している。つまり劇中劇のように、現実が多層的に織り込まれており、ある層に
おける現実の秩序は、他の層から見た場合、不整合を起こしていることもある。
儀礼の場面においては、単純に価値規範が再現され現状維持に貢献しているとい
うのではなく、世界の多元的現実が顔を出すのである(当コラム第5回参照)。
このように、儀礼概念には二つのベクトルを持つ系譜があるといえる。儀礼の構
造主義的アプローチが社会における価値規範の維持を強調するのとは対称的に、
カイヨア、オットー、バタイユによる儀礼(特に祭り)におけるカオス性を強調
するロマン主義的な系譜も平行して存在する。
 さて、このような儀礼のロマン主義的視角によって、ボールのプロレス論を批
判することになるが、次回からはボールの議論を順次追いつつ、要約し補足して
いこうと思う。次回はボールによって展開されるプロレスの歴史についてであ
る。

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