第10回 プロレスこそが”闘い”となれる可能性をもつ―闘いにおける超越と内在 Part4
■投稿日時:2001年8月9日
■書き手:Drマサ


4 ほんとうの本物の闘いを目指して

 プロレスという行為は、その暗黙の了解という仕掛けによって、プロレス空間
を収縮させ更新させるものといいうる。そのため、何が暗黙の了解であるのかを
確かめ続けつつ、その境界線を引き直すために境界線の向こう側を想定しつつ、
向こう側へと魅了され続けなければならない。

 勿論、その向こう側が単なる競技や喧嘩ではないことはいうまでもない。何が
暗黙の了解なのかを確認すること、あるいは乗り越えようとすることにおいて「
闘いとは何か」「プロレスとは何か」という問いが進入している。昨今のプロレ
スの批判において「闘いがない」とは、この問いが忍び込まず、蓋然性として成
立している暗黙の了解を、プロレスの真のルールであるとして誤認する事への違
和感の表明である。


 例えば、90年代、三沢・川田・小橋を中心に行われた全日本プロレスの一連
の三冠戦は、いわゆるジャイアント馬場いうところの伝統的なプロレスを基本と
して、その過剰な受け身によって、いわゆるそれまでのプロレス像を更新してい
った。この更新は既存の暗黙の了解を揺るがし、乗り越えるものとして感受され
たといえるから評価が高いのである。

 「どこまでやるのか」という思いは観衆だけではなく、闘っているプロレスラ
ー同士にもあったといわれている。この「どこまでやるのか」というところで、
「闘い」が忍び込んでいるといえる。ところが、この「どこまでやるのか」が繰
り返されることによって、非常に高度なプロレスが完成するや否や、暗黙の了解
があたかも事前に成立しているかのようになる。そのため「闘い」を見いだしに
くくなるということがあるだろう。


 昨今、イチローや新庄らのメジャーリーグ・ベースボールでの活躍によって、
野球における「暗黙のルール」がひとつの話題としてメディアをにぎわせていた
のは記憶に新しいところだろう。

 5月24日の対マーリンズ戦、メッツ新庄は8点をリードした終盤の8回の打
席、カウント0―3からの投球に対してフルスイングをした。チームが5点以上
勝っている場合に、対戦相手の投手の0―3からの投球はスイングしてはならな
いというのが、メジャーの掟であるという。そのため、新庄は翌日5月25日、
ビーンボールを食らうことになる。

 またイチローが大量リードにも関わらず、盗塁を成功させ非難を浴びたことも
あった。これらの行為は、”死者にむち打つアンフェアな行為”としてメジャー
の「暗黙のルール」に背いているわけだ。日本の野球でも、ヤクルトの藤井投手
が日本野球にある「暗黙のルール」を破ったとして、痛烈なヤジによってマウン
ド上でメロメロになった場面が思い出される。

 このような「暗黙のルール」に関わって、日米の規範や文化的差異が問題視さ
れるのはもっともな議論であり、「暗黙のルール」のあり方を社会を映す鏡とし
て見いだすのも同様である。特にメジャーリーグでは、「暗黙のルール」をプレ
ー上に限定するだけではなく、人種差別問題などの社会的問題の考慮にまで及び
、野球機構のあり方にまで影響を及ぼしてもいる。

 つまりメジャーリーグもまた、至極当然のことだが、米における社会的関係の影
響下にあるという端的な帰結へと導かれる。また、米における公平という規範の
あり方が浮き彫りになり、日本における公平概念との差異を明確にすることもで
きるだろう。


 しかしながら、これまで議論してきたプロレスにおける暗黙の了解は、これら
「暗黙のルール」とはその存在の有り様が全く異なっていると強調することがで
きる。

 先に指摘したとおり、暗黙の了解は言語化不可能なものであり、コミュニ
ケーションの遂行終了時点において、事後的に確認されるものである。あるい
は、事前に知り得ないという性格をもっている。メジャーリーグの事例では、
「チームが5点以上勝っている・・・」と命題とすることができるのであるか
ら、まさに端的な言語化可能な有り様として「暗黙のルール」は存在するし、そ
れは一般に事前に共有されている価値規範である。

 つまり、プロレスと野球は、あるいはいわゆるスポーツはその存在様態が明ら
かに異なっているといえる。先に述べた「蓋然性として成立している暗黙の了解
」とは、このような文脈からすれば、暗黙の了解ではなく「暗黙のルール」のこ
ととなる。また暗黙の了解が”実体化”することによって、「暗黙のルール」と
化し、イデオロギーとしての振る舞いへと変容するところに、我々が生きる現実
世界がイデオロギーなどの特定の意味作用に与することからいかに逃れ難いのか
の証左を伺い知ることができる。


 前回のコラムでは、近代スポーツにおける明文化されたルールへの”信仰”か
ら帰結される表面的な身体性において、プロレスもスポーツも同様近代スポーツ
として位置づけられるという側面を見てきた。それは”自然性”の隠蔽である近
代スポーツのルールの矛盾が、身体の”自然性”において外傷として回帰する構
造としては同一であるという主張であった。

 しかしながら、いまその視角を明文化し得ない”ルールならざるルール”であ
るところの暗黙の了解に設定すると、プロレスとスポーツの差異をこそ強調せざ
るを得ない。つまりプロレスは近代スポーツという形式を取りつつも、その内部
にその形式を乗り越える”ルールならざるルール”を抱えることによってスポー
ツを”越え”ていると。


 とすれば、暗黙の了解をその本質とするプロレスとは、いわゆる一般的なルー
ルという統一理念=中心をもたない不確定的な世界である。

 竹本健治はその著作『ウロボロスの偽書』(1991)の中で、自ら著する作
品の性格に言及しつつ、明確な分節なき世界、現実と虚構の境界線の消失を「プ
ロレスにおける不確定性原理」と表現する。

 昨今のポストモダン的文学においては、近代主義的な首尾一貫した物語性や作
者の特権性が無効化する地点へと向かい、フィクションを説明するメタフィクシ
ョンの登場や、世界の再現を目指す文学が再現不可能であることを発見するとい
う自己言及的な性格が見いだされる。

 つまり自らの不確定性を引き受ける形で、自ら文学というジャンルに対して存
在論的問いを行う。このプロレスとメタフィクションのいかに似ていることか。
暗黙の了解という仕掛けによって、世界の形の決定と非決定の間で揺らめくプロ
レス空間。「どこまでやっていいのか」という善悪の此岸と彼岸の区別し得ない
場所で、現実的な力と技のコミュニケーションを掛け金とすることによって世界
の存立構造へと向かう。それは破壊となるのか、創造となるのか事前には知り得
ない。


 さて入不二は、このプロレスの”ドーナツの穴”論が、単にプロレスにのみ適
応可能なものではないと主張する。つまり「プロレスモデルの<生>について語
りたいという欲望がある」(P156)
という。プロレスが人生と対比させら
れ、論じられるのはありきたりのことでもある。しかしながら、そこには他のス
ポーツの語られ方との差異もある。それにしても「闘い」とは何なのであろう
か。人間にとっての「闘い」とは。

 仮に、私が喧嘩をして、相手をKOしたとしたら、そこに人間としての「闘い
」はあるのだろうか。もう「闘い」を行えない状態は、闘いを拒否するものでは
ないのか・・・・

 入不二は、プロレスモデルの<生>について、次のようにまとめていると思わ
れる。


 つまり、私は、リアリズムにも負けず、超越主義にも負けず、観念主義にも相
対主義の 力にも負けず、すなわち、<ここ>を平板な分かり切った場所とみな
すこともなく、<ここ>とは別の遠くの場所を夢想することもなく、また<こ
こ>を多くの<あそこ>の 中のひとつに過ぎないものと見切ることもなく、ま
さに<ここ>においてこそ「虚の神」を信仰しつつ生きているのである。
(P162)



 初めから望ましいスタイルや、価値規範があると考えてしまっては、そこから
派生する思想は硬直化し、党派を作り、その保守に血眼になるだろう。またその
ような事態とは、それを含む事態を紛糾させることにもなる。プロレスにおいて
は、この紛糾事態がプロレス史の変動の力にもなっている。

 しかし、その紛糾を乗り越えるためにはプロレスへの問いが必須なのである。
確かにこれは困難である。が、我々ファンはかつてこのような困難の乗り越えに
「虚の神」であるプロレスの神様の顕現を見たのではなかったであろうか。だか
らこそ、今でもプロレスをみているのではないだろうか。ところで、意識的であ
れ無意識的であれ、今プロレスラーは「プロレスとは何か」と自ら問いかけてい
るのだろうか。

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