第6回 スティグマとしてのプロレスとルールの”秘密”
■投稿日時:2001年5月28日
■書き手:Drマサ

テクスト:柏原全孝「プロレスはなぜスポーツではないのか プロレスから見たスポーツ のルール」『スポーツ社会学研究』第4巻、1996年、スポーツ社会学会

1 プロレスの古典的な場面

 1999年1月4日、東京ドームにおいて行われたいまや”伝説”とまで称さ
れる「小川直也vs橋本真也」の一戦の展開は、いわゆる”ガチンコ”あるいは”
シュート”といわれている。その試合展開は、前半戦がキックボクシングさなが
らの打撃戦、中盤戦がロープ際での膠着状態とタイガー服部レフリーのダウン、
そして一方的な小川の勝利、番外戦としての新日本プロレスとUFO軍入り乱れ
ての大乱闘という4つのスポットで構成されていたと解釈できるだろう。ここで
「小川直也vs橋本真也」の一戦を物語の構造分析として、この各スポットをシー
クエンス、あるいはそれぞれを”起承転結”の一機能とみなして分析しようとい
うわけではない。いわゆる物語が、プロップが民話の構造を分析することによっ
て見いだしたように、異常事態からもとの日常的な平安を回復することによって
結末を迎えるのに比較して、あれから2年以上の月日が流れる中、新日本プロレ
スの現状が必ずしも平安を回復したようには思えないのは皮肉でもある。それは
プロレスが単なる物語=虚構ではなく、現実とクロスしているからという解釈を
許容させるテクストとして我々の前に立ち上がるだろう。又、小川直也の出世物
語として解釈すれば、異なる論理を生み出すだろう。

 しかしながら、本稿で着目すべきはそのような物語性ではない。プロレスに
は”おきまり”ともいわれる古典的な場面が多々ある。それは、時に興奮を呼ぶ
こともあり、また揶揄されることもある。揶揄されるときはまさに「プロレス=
八百長」論の典型的素材として槍玉に挙げられることもある。

 さて、ここで着目するのはタイガー服部レフリーのダウンに関してである。つ
まり、レフリーが気を失いレフェリングが不可能な状態にあるという古典的場面
に関してである。先に挙げた一戦では、その試合の評価が真剣度が高いとされた
ことによって、このレフリーのダウンシーンが「プロレス=八百長」論の典型的
素材として、あるいは観衆の期待を損ねるものとして見られることは少なかった
ようである。また、それはその後の展開が、シビアなものとして映ったからだろ
う。

 だからといって、この場面が仕組まれたものとして、いわゆるアングルである
とか、はたまたハイスポットであったかどうかという検証をしようということで
もない。いわゆる”マニア”的にタイガー服部レフリーが”バンプ”したとし
て、その前後の試合展開や佐山の場外での動き、テレビカメラの位置や実況を過
剰に読解することや、かつ業界力学をそのコンテクストとして横断することによ
って、そのプロデュースを批評する実践に本稿では焦点を当てるものではない。

 プロレスにおいて、レフリーが競技スポーツとは異なる役割を果たしていると
いう指摘はよくなされることである。試合の演出者として、あるいは出演者とし
てさえも称される。おそらく、あらゆるスポーツのレフリーが演出者としての役
割を少なからず負っている。しかしながら歴史的観点からすると、プロレスにお
いてはその事情は多少異なっている。ひとつには19世紀中頃からプロレスが資
本主義の成長とともに、その興業形態をサーカス的な地方巡業団に求めたこと
と、いわゆる”決闘”ともいえるブラッディ・スポーツとの接合があったこと。
現代の我々からすれば、資本主義的な欲望が娯楽と決闘の融合から職業=プロを
存立させ、そのような欲望を興業形態に集結する様相を見いだすことが出来る。
レフリーはルールの厳正な執行と興業主とオーディエンスの意向を交錯させる身
体として要請される。それはボクシングも同様であったろう。

 ふたつ目には、1914年のフランク・ゴッチの引退後、プロレス低迷時代と
なり、その打開策としてプロレスのスペクタクル性の加速化がなされたこと。特
にその中心となったのがミッドウエスト地区であり、ゴールドダスト・トリオと
いわれたトーツ・モント、エド・ストラングラー・ルイス、ビリー・サンドウに
よって様々な改革がなされたことが挙げられよう。特にトーツ・モントは生まれ
ながらの ”con artist ”と呼ばれるほど、プロレスの競技性を大きく離脱させ
るアイデアを産出し、レフリーがより具体的な試合展開において、”出演者”と
して振る舞うことを仕組んだ。具体的な一例を挙げておこう。一方のレスラーが
レフリーの注意を引きつけている隙をねらい、もう一方のレスラーがレフリーの
背後で攻撃をする。レフリーが振り向いたときには、攻撃はなされない。よって
反則と判定が下されることはない。この場面は今日のタッグマッチにおいてもよ
く見られるが、トーツ・モントの発明である(Lou Thesz,1998)。

 さて本稿では、プロレスの質的な変化を社会史的に描こうというものではな
く、このレフリーというルールの執行者の不在、あるいはその視線の不在から見
たプロレスという「スポーツとも演劇ともつかない」と評価されるジャンルに関
する分析を取り上げる。それが柏原によるテクスト「プロレスはなぜスポーツで
はないのか プロレスから見たスポーツのルール」である。それはプロレスと近
代スポーツの比較分析をルールという問題系から切り取る試みであり、柏原はこ
の試みを「プロレスを外的に、すなわちスポーツの側から位置づける論理」の検
討と要約している。

2 忘却されるルールの外傷

 では、近代スポーツとは何であるのか。前近代において、現在我々がスポーツ
とする考えが存在していたわけではない。両者には連続性とある種の断絶が存在
する。では前近代から近代への移行を、足早にではあるが、英国の事情を中心と
して見ておこう。例えば、ボクシングが競技スポーツとして成立したのは19世
紀後半においてである。競技スポーツとして確立する以前のボクシングは、いわ
ゆる”私闘”であり殴り合いの喧嘩であり、争われるのは”名誉”においてであ
った。そしてこの私闘の現場には常に多くのオーディエンスがあり、この私闘を
楽しんでいたのである。闘う者同士は「暗黙のルール」を共有し、オーディエン
スは勝手に賭事をして楽しんでいたのである。つまり私闘が民衆娯楽としての地
位を確立していたのである。また「暗黙のルール」は名誉を媒介とすることか
ら、パンチを避けることは「男らしさ」を損なうとされてさえいたのである。

 18世紀にはいると、この民衆の世界へ貴族やジェントリという上位階級が介
在することによって、興業化が進展することになる。いわゆるプライズ・ファイ
トといわれる。様々な変化を指摘できるが、ルールという点に関しては、慣習に
よっていた試合の取り決めが明文化されたルールによる実行へと移行した。この
時点で明文化されたルールが採用されたのは、賭事の公正を図るためにあったと
いえる。その後、このプライズ・ファイトは
(1)試合の残忍性
(2)八百長の横行
(3)群衆の暴徒化
によって、いわゆるピューリタン的道徳を根底とした批判にさらされる。その後、
19世紀の半ばになるとピューリタン的道徳との融合がなされ、流血のない”ス
パーリング”が発明される。有名ボクサーは自らを師範=教育者として自己防衛
の技術と知識を伝える。このような実践が近代的な身体訓練法や”健康”という
概念へと導かれ、アマチュアリズムの精神を用意したのである。勿論この精神が
ナショナリズムと接合されるのはいうまでもない。

 アマチュアリズムの精神とは、リベラル・アートという考えに基ずく。つまり
身体的訓練において、それ自体が人間の利益として充足していることがリベラル
なのであり、それに付随する金銭的利益が目的化したときにはリベラルとはいえ
ないという考えに結実していく。アマチュアリズムへの信仰とは、ルールの根底
を支える精神が名誉であったことからの離脱を読みとることが出来るだろう。そ
こでは純粋にボクシングの技術を競う「競技」が生まれ、自己防衛や健康の延長
上に位置づけられるものとなったのである。このようなアマチュアリズムがルー
ルをどのように限界づけていくかは明らかだろう。そしてこのルールがプロ興業
にも適応されていく。また適応しなければ存続し得なかったはずである。

 現代においては、アマチュアリズムの純粋な形態としてのスポーツがあるわけ
ではない。ナショナリズムのもと、名誉が前景化してもいるだろう。しかしここ
ではそのような問題には入らず、近代スポーツの特質からルールを巡る問題を見
ていこう。ここからは柏原のテクストに即して議論していこう。

 柏原はグートマン(Guttman,1978)のスポーツ社会学の理論を補助線として、ル
ールの問題へと切り込んでいく。グートマンによれば、近代スポーツの必要条件
として「世俗化、競争機会と条件の平等化、役割の専門化、合理化、官僚的組織
化、数量化、記録万能主義」を挙げているが、この必要条件を必要条件たらしめ
ているのが、明文化されたルールの成立にあるとされる。明文化されたルールは
記されたからといって、ルールとして成立するわけではない。ルールとして認知
されるためには、他の書記物と物質的素材として同質であるだけでは「犯すこと
の出来ない絶対服従されるべきルール」という性格は生み出されえない。ルール
に服従するには、ルールに外在する非物質的、超自然的な存在に依存することに
よる。よって、ルールは特別な存在になる。柏原によれば、それは「権威」と呼
ぶことが出来るという。

 ルールに権威が帯びるとは、ルールが全てのプレイの外的な位置にあることが
その要件となる。つまりルールはゲームに参加する者たちに命令を下す地位を獲
得している。ルールに服従するためには、ゲームの当事者の外部性=他者から発
せられたものである必要がある。権威がこの外部性を保証するのである。しかし
この権威はパラドキシカルな性格をもっている。数式としてそのパラドクスを表
現すると、”ルール=ルール+X”となる。ルールの権威は、ルールの構造や内
容をどのように分析しようとも見いだすことは出来ない。柏原は、このパラドク
スをジジェクのキリスト教道徳の論理を用いて説明する。つまり「キリストの言
葉が真理であることの究極の保証は、それを述べるものの権威、すなわちそれが
キリストによって述べられたという事実なのであって、その内容の深さ、すなわ
ちそれが何を述べているのかではない」(Zizek,1992)
という論理がルールに適応
される。つまりルールに権威が帯びるというのは、ルールであるからというトー
トロジーによる。このトートロジー・システムの延長線上の論理に、Xを実体化
したものとしてある特定の”神”を要請するのはまさにイデオロギー化、錯誤な
のである。

 よって、ルールの存在の合理的根拠を見いだすのは困難である。つまりルール
は恣意的偶然的に生まれ、スポーツをする上での現実的な整合性のもと、その非
合理性の隠蔽に成功しているのである。また、いつその非合理性を暴露されるか
知れない現実的整合性を合理性として事後的に構成するのである。この非合理性
の暴露の可能性とは”外傷”であり、権威あるルールとしての存在は、この外傷
を抑圧するという精神分析的理論に接合される。つまり外傷の抑圧こそが合理性
なのである。この理論展開によって実は先の”X”の正体が理解される。つまり
権威をもたらすものこそは、ルールの恣意性および偶然性なのである。そして、
この恣意性および偶然性と合理性の間にある距離が、抑圧という機制を関係にお
ける徴候として生成させるのである。外傷は我々の生きる合理的世界において、
徴候として我々の世界における非合理性をもたらす。つまり外傷は回帰し、我々
の合理的世界を脅かすのである。

 さて、次に問題となるのはレフリーという存在である。先に述べたルールの外
在性は、ルールを適用する具体的な存在を必要とする。勿論、これがレフリー
(審判)である。柏原はレフリーの身体性を二つの理論的次元において分別操作
することによって、外傷の回帰を具体的場面の中で説明する。レフリーの身体性
とは、ひとつには具体的現実的な自然的身体、もう一方がルールと権威の具現者
としての超自然的身体である。自然的身体がルールにおけるパラドキシカルな性
格を隠蔽する権威の具現者として超自然的身体を担うということは、まさにその
権威がレフリーの自然的身体に依存しなければならないことを、換言すればミス
を含みうる主観=恣意的かつ偶然的な判断によって構築されることを意味する。

 レフリーの判定が主観であることを前景化する場面は限りがない。野球におけ
るストライク・ボールの判定やアウト・セーフの判定においてしばしば見られる
し、ポール際のホームランの判定等々。つまり、特に我々がミスジャッジという
認識をする場面とは、ルールにおける外傷が回帰する具体的場面なのである。
我々がミスジャッジと認識するレフリーの振る舞いをなぜ非難するのかといえ
ば、合理的なものとされる世界像が揺るがされるからなのである。あるいは「レ
フリーも人間だから間違いもある」という発話もまた、合理的であることを支持
する無意識的な戦略的処方箋なのである。またレフリーを処罰するということ
も、人格にその恣意性と偶然性を回収する処方箋として機能する。これらミスジ
ャッジにおけるどのような処方箋も、「ルール自体は批判されず、その権威はな
んら損なわれないまま保持される。これにより、ルールの権威を守りつつ、発言
した症候に対処することが出来る」(柏原 P57)
のである。「ルール自体」とは
個々のルールではなく、「ルールがルールであること」というルールの存在論的
規定に関してである。どのようなルールも、どのようなルールの改善も、あるい
はどのような組織の再編によっても外傷の回帰は必然なのである。

3 顕在化する外傷:装置としてのプロレス

 プロレスにおいても同様、このルールにおける外傷はレフリーの身体とその振
る舞いによって回帰する。先のタイガー服部も野球の審判も「外面的体裁」は何
ら変わるところがない。タイガー服部が橋本信也によって暴行を受け、意識を失
ってしまった。佐山が服部を場外にエスケープさせる。そして小川のいわゆるプ
ロレスを逸脱したと言われる攻撃。つまり反則攻撃である。しかしながらタイガ
ー服部は倒れたままで、反則を指摘することもできないし、反則自体を見ていな
い。つまりレフリー不在における試合展開の中で、橋本はKOされている。攻撃
の有効性=合法性を判定し得ないレフリーは、自らの恣意的判定を下すしかな
い。

 柏原によれば、プロレスの古典的状況とは「この場面において、最も象徴的な
ことは、レフリーが意図的に起きあがらないことである。つまり、彼は、反則攻
撃が行われていることを知りつつ、それを見ようとしない」(P58)
として、
その意図性において他のスポーツとの偏差を導入する。しかしながら、この意図
性は、実は真に意図性を保持しているとはいいがたい。なぜならレフリーは、そ
の判断において恣意的かつ偶然的であることから脱出など出来ないからである。
またレフリーの視野の外にある行為は反則にならない。これは先に述べたよう
に、いわゆる一般スポーツと同様、ルールにおける外傷の回帰構造として一致し
ている。つまりタイガー服部の振る舞いにおける決定は恣意的であることを必然
としている。

 このような視点からすれば、プロレスのレフリーの地位は高いと言わざるを得
ない。だからこそ、特別な試合において、レフリー選出の話題が新聞雑誌をにぎ
わすことになるのである。単に話題づくりとして利用されていると見るのでは不
十分である。プロレスがもつスポーツにおける権威性が、我々がスポーツにもつ
リアリティとなんら遜色がないということを証明しているのである。強調するま
でもなく、つまりスポーツはプロレスのリアリティに根拠をもつジャンルなので
ある。スポーツとプロレスの差異とは「むしろ、単に量的なもの、すなわち恣意
性を過剰に体現するか、それを最小限にとどめようとするかという点にこそ求め
られるべきである」(59)。

 では、なぜプロレスが「正当的なスポーツ」から逸脱したものとして批判さ
れ、時には嫌悪されたり、軽んじられたりするのであろうか。それはまさに外傷
を顕にすることによって、ルールという社会規範の安定した社会構造が、虚偽性
に満ちていることを知らされるのに絶えられないからである。我々は外傷を忘れ
ておきたいのである。このような論理の延長線上にプロレスがスティグマ化され
る根拠が存在する。そう、「見せかけのスポーツ」であると。そして「正統的な
スポーツ」はこの「見せかけのスポーツ」であるプロレスとの二項対立的図式を
利用しながら、外傷の隠蔽を補強し、両者の差異を強調する。プロレスはスポー
ツという社会的領域において、スケープゴートとしての役割を背負うことになっ
てしまった。逆説的に「プロレスはこの過剰なまでのプロレス的性格ゆえに、芸
能ともみなされないのである」(51)


 さてこのスティグマ=「見せかけのスポーツ」は、人々の解釈におけるスキー
マとなり、プロレスを見る視線を固定化する。この固定化された視線によって、
プロレスにおける反則の見逃しは他のスポーツと本来的に同一であるにも関わら
ず、「プロレスゆえに見逃されたのだと解釈される」(59)。仮にプロレスが
その試合展開の中に競技性を内包していたり、あるいはプロレスを「正統的なス
ポーツ」として整備しようとしても、一端スティグマを刻みつけられてしっまた
という運命によって、全ては演技であり、偽りであると認識される。スティグマ
の解消とは、スティグマを刻印されたものの主体的活動によっては為されない。
他者がその主体なのである。

 この論理を適応させれば、プロレス外部の総合格闘技が「正統的スポーツ」と
されるのは必然であるが、さらにPRIDEにプロレスラーが出場したり、アン
トニオ猪木プロデュースという”プロレスの進入”によって「見せかけのスポー
ツ」論が進入するという解釈を生み出すことになる。その真偽はともかく、いわ
ゆるプロレスファンではなく、一部”純粋”な格闘技ファンによるアントニオ猪
木プロデュースを嫌悪する状況は、その”プロレスの進入”以前に用意されてい
た論理に依拠したものである。つまり、プロレスのスティグマ性が認識の真偽を
事実以前に決定してしまうのである。
 
4 おわりに

 ルールという問題系からプロレスを論じてきたが、もう一方プロレス論の王道
である「暗黙の了解」には触れなかった。それはまたの機会として、最後に簡単
なコメントを加えて終わろうと思う。

 さて、このようなスティグマから逃れるには、より強烈なスティグマを身につ
けたジャンルが必要になるが、現時点では見あたらない。あるいは近代スポーツ
という概念枠組みが、スポーツにおける主要な構築的な概念であることからの歴
史的離脱という社会状況の変化の必要がある。しかしながら、そのような望みは
今の所薄いだろう。あるいは戦略的なカミングアウトを考えることが出来るかも
知れない。しかしながら、カミングアウトの成果はその社会における社会的・歴
史的コンテクストに依存すると言う側面が強い。その微妙な言説的な権力を読み
解くのは困難であり、事後的に理解されるのがいいところだろう。  

 勿論プロレスには、このスティグマを自らのダイナミズムへと変換してきたと
いう歴史があるだろう。プロレスにスティグマが刻まれている事実は、そのファ
ンを弱者へと定義づける論理を用意する。しかしながら、プロレスファン歴の長
い者の中には、プロレスにおけるアンビバレントを理解し、そこにカーニバル的
な読解の悦びを見いだしたり、”人生の真実”を見いだすという過剰な読解をし
てきた者もいるであろう。いわゆるプロレス八百長論の主張がもつ危うさは、弱
者であることを社会的に構築することに手を貸してしまうことにある。先のカミ
ングアウトの戦略が、このような危うさに手を貸してしまうかも知れない。よっ
て我々がプロレスを語るということ自体に、文化的な権力の問題が存在すること
は確認しておく必要があるだろう。
(第6回完)

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