第3回  フィスク「ロックンレスリング」:カーニバルとしてのプロレス
■投稿日時:2001年2月6日
■書き手:Drマサ

テクスト:フィスク・ジョン 伊藤守・藤田真文他訳 1996年「テレビジョ
ンカルチャー ポピュラー文化の政治学」所収 梓出版社


1バルトからフィスクへ

 フィスクは、テレビ番組としてのプロレスを分析している(フィスク
[1996]P375~391)
。分析対象は、1980年代半ばのWWF(世界レスリング協
会)のテレビ番組である。フィスクがアメリカでこの番組を見たのか、あるいは
イギリスで見たのかは解らない。ただWWFのテレビ番組は、ヨーロッパ各地で
放送され、人気を博している。テレビ番組の名は『ロックンレスリング』であ
る。そして、この分析の理論的枠組みとなるのが’カーニバル理論’である。

 このカーニバル的視点は、前回扱ったバルトによって先取りされている。また
フィスクはバルト理論を土台として自らの議論を展開している。今回はこのプロ
レスのカーニバル性についての考察を展開しようと思う。

 さてもう一度、前回報告のバルト理論の続きから出発しよう。「レッスルする
世界」は、『神話作用』の他のエッセイとはその性格が異なっている。つまり、
この後に理論化される「テクストの快楽」という視点が混在しており、それは後
にバフチンによる’カーニバル’理論の先取りとも言えるものである。

実はバルトは「レッスルする世界」を他のエッセイより重視していたと思われる
節がある。というのは、他のエッセイが篠沢翻訳版で4ページ程度であるのに対
して14ページと長く、また『神話作用』の単行本化の依頼に対して「レッスル
する世界」を必ず載せることを条件としたことからも、それは想像できる。そし
てその内容からも、前回の報告で見たように単なるイデオロギー批判を乗り越え
、かつプロレスの芸術形式のあり方に悦びを見いだしていたという点からも強調
可能であろう。

 プロレスにおける記号は、当然のことだが言語ではなくて、レスラーの身体と
それらによる相互作用の身体動作である。一般的には言語という記号では、シニ
フィアン=形式とシニフィエ=意味の関係は一対一の不可分離性を保っている。

厳密に記号の恣意的性格を理論的に、あるいは演繹的に適応すれば、その不可分
離性は崩れるかもしれない。しかし日常生活においては、この不可分離性のおか
げでコミュニケーションは不和を生じないで済んでいる。つまり言語(特に単語
レベルにおいて)とは、’デジタル記号’として成立している。

ところがプロレスのような身体によるコミュニケーションや映像による意味の確
定は、コンテクストに多く依存しなければならず、意味の確定は相対的なものと
ならざるを得ない。またコミュニケーションの受け手が持つコンテクストにも影
響を受けざるを得ない。しかしながらバルトが指摘するように、レスラーは徹底
的な身振りの誇張によって、唯一の意味を瞬間的な映像のうちに確定する。

つまり意味の確定が恣意的であるコミュニケーションが、誇張の身振りによって
デジタルな表象を可能にする。映像などにおけるシニフィアンとシニフィエの一
対一対応という不可分離性の揺らぎが、不可分離性へと回帰する。いわゆるパフ
ォーマンスにおいては、善悪の道徳劇によって表象されるような意味世界はなか
なか見いだしにくいものである(実際にはプロレスにはこのパフォーマンス的要
素が存在してもいる。この観点については追々議論していこうと考えている)。

しかしながら誇張の身振りであることによって、不可分離性の回帰自体がメッセ
ージ化されてしまう。つまりプロレスは’プロレスである’というメッセージ性
を見せびらかせてしまう
。ここに我々が常識としているもの、つまり一般的な記
号形式=シニフィアンからの逸脱がある。我々はなぜプロレスを非日常として思
い描いてしまうのか、この記号論によるプロレス形式の分析によってその一端が
理解されたはずである。

 我々はこの非日常を具現化した世界を祭りやカーニバルという祝祭空間に見い
だす。バルトの指摘によると、このマス文明の中、生産される商品や広告は全て
見せ物=スペクタクル的な誇張の身振りを抱えている。いわゆる薄められたカー
ニバルという現代社会における消費社会論的視点がそこにあるが、消費社会論に
ついては省こう。そしてバルトの「レッスルする世界」における、次の表現から
カーニバル性を読みとってもらいたい。

 情熱の強調、絶頂のくりかえし、やりとりの激昂は、当然、最も異様な混乱に
到達するのみである。いくつかの試合は、最も成功したものであるが、最後の大
騒ぎで飾られる。規則も形式の法則もレフリーの制止もリングの限界も廃止され、
勝ち誇る混乱の中に持ち込まれて客席にはみ出し、レスラー、セコンド、レフリー、
そして観客をもごちゃまぜに引きこむ一種のはめを外した大狂乱である。
                           (バルト[1967]P15)

このセンテンスは、まさにカーニバルの端的な表現になっている。バルトにとっ
て、プロレスの試合における成功とはカーニバル的状況の出現にある。このカー
ニバルの出現は、シニフィアンの誇張の身振りによって前面に押し出されること
による。この時、バルトが嫌悪するシニフィエは否定されており、そこには快楽
が存在し、イデオロギー的抵抗の一手段となっている。ここではシニフィエの持
つメッセージ性が喪失していく。我々が日常的次元において守られねばならない
価値規範は失効し、一時的な秩序からの解放の祝祭空間とでもいうべき状況が顕
現する。

 もちろんこのような視点からのプロレス論には限界がある。この視点からのみ
批評すれば、先日の全日本プロレス1・28東京ドームでは「テリー・大仁田V
Sブッチャー・キマラ」がベストマッチ
ということになるだろうが、これに異論
を持つ者がいるのは間違いないところだろう。

 さてバルトは概念化には至らなかったが、このプロレスのカーニバル性に言及
していたことになる。また、のちの『テクストの快楽』では、文化より自然を強
調する。「この移行にはイデオロギーの政治学から快楽の政治学への移行という
政治学の定義の変化」(フィスク[1998]P102~103)
があり、快楽の政治学はさらに
悦楽という概念化に向かう。つまり文化というイデオロギーや意味より自然=形
式へとその視点は変化する。その時、徹底的に強調されるのが身体=形式であ
る。バルトは「レッスルする世界」において既にレスラーの身体を強調していた。

 リングの上で、その自発的な下劣さのどん底そのものでレスラー達は神々であ
る。なぜなら、彼等は何秒かの間、自然を開く鍵であり、善を悪からへだて、遂
に明らかとなった、正義というものの様相を露にする身振りだからである。
                           (バルト[1967]P18)

レスラーによるシニフィアン、つまり身体が「自然を開」き、民衆的な善を顕現
させる。この善はカーニバル的な「裏返し」によって構造化されている。このと
き我々が通常文化と名付ける世界像は失効し、文化ならざる文化を見いだすこと
になる。

 以上、バルトのカーニバル視点を概観してきたが、バルトはカーニバルという
概念を持っていなかった。このカーニバルという概念を持ってして、プロレスを
分析したのがフィスクである。



2 カーニバル理論

 フィスクのプロレス論にはいる前に、ミハイル・バフチンによって打ち立てら
れたカーニバル理論について言及しておこう。そして次節において、フィスクの
プロレス論を要約かつ批評することにしよう。

 カーニバルは、特に中世において、国家的な公式の祝典とは異なって、民衆が
自発的に執り行った祝祭である。この祝祭においては、公的な権威は一時的に失
効し、上下の身分、性別、貧富の差が無効となり逆転する。乞食の王が選ばれ、
女性が性的領域において主導権を持つ。日常的価値規範は破壊され、無秩序が秩
序となる。社会におけるあらゆる領域の階層構造が失効する。

 カーニバル性とは非日常的でアブノーマル、常軌を逸した 考えや行動(あべ
こべの世界)、意外で場違い(場所柄をわきまえない)、自由で滑稽、笑いと歓
喜、激情、罵詈雑言、スキャンダラスでエクセントリック、不合理、暴露など。
バフチンはそうしたカーニバルの逆転した世界の豊穣に、被支配者階級の民衆に
よる支配階級への抵抗、反逆、変革の契機を見る。

 バフチンが取り上げたカーニバルにおける「裏返し」の論理は、サーカスや、
下層階級が使用する粗野な言語に見いだされ探求された。例えばこの粗野な言語
の使用とは、低級な自由語であり、日常生活においては使用をためらわれるもの
であるが、その使用によって、公的な言語体系が持つイデオロギー性を失効させ
てしまう。ラブレー論では、市場における猥雑な言語が示されている。

 しかし猥雑な言語はそれのみで存在するのではなく、公的言語と共にあり、秩
序を惑乱するイデオロギー的な多様性を顕在化させる。このような言語=声の存
在様式がポリフォニーである。ポリフォニー的言説というのは、バフチンが取り
上げるドストエフスキーの主人公の語りに特徴的である。

ドストエフスキーの主人公は非常に長い語り口の中で、自己の言説の中に他人の
言説を混在させてしまい、結果自己の言説自体を相対化させてしまう。この主人
公は世界をモノローグな世界として一元化することに失敗するが、逆説的に世界
の多様性を顕在化させている。

モノローグな客観世界における’典型的’な言説は、支配階級によって統制され
たイデオロギー世界を表象する。しかしこの主人公は、多数の自律的でしかも融
合不能な言説を絡めながら混在している。つまり一元化された世界を志向すると
き、非対話的な言説が顕現するが、ドストエフスキーの世界では、登場人物だけ
でなく作者自身が、多数の自律的でしかも融合不能な言説を絡め合いながら、そ
れでも統一体を志向する。これが’対話’である。

本論ではポリフォニーに関しての言及は回避するが、プロレスというジャンルに
適応可能な概念でもある。というのはプロレスが村松いうところの「ジャンルの
鬼っ子」であるという指摘は、このポリフォニーの逆説的表現である。プロレス
がある特定ジャンルに特定できないということは、その読解のために他の様々な
ジャンルの読解方法を接合してこなければならないということになる。

我々はプロレスを論理によって段階的に理解しようと欲するとき、つまり確定記
述の束によって定義しようとするとき、相反するジャンルの言葉を借り受けねば
ならない。


もっとも単純な例を挙げるなら、スポーツと演劇の言語がからまりあうところに
どうにかプロレス論を構築しようとする時、両者は矛盾する言語体系であるが故
に’対話’を生みだし豊穣な世界像を創造をするということになる。

 ところでバフチンのカーニバル理論は、民衆の力が復権すると声高に宣言す
る。それはあらゆる民衆による、支配階級に対する反体制的な力の表現であると
される傾向を持っていた。バルトにとって、プロレスは民衆の力の顕現を見させ
てくれる。バフチンは滑稽、風刺、屈辱、冒涜、粗野な言葉や毒舌、肉体それ自
体などが持つイメージ群を「グロテスク・リアリズム」と名付けている。

この「裏返し」の世界においては肉体こそが喜びの原理でありる。バルトは「レ
ッスルする世界」において、このようなカーニバルにおける民衆の喜びと同様の
視点から次のように述べている。

 レスリングによって身振りで示されるものは、だから、事物の理想的な明白さ
であり、人間であることの幸福感であり、日常の状況の基本的な曖昧さの外へ一
時的に高められ、意味表象が障害も逸脱も矛盾もなく遂に原因と一致するような
包括的な自然のパノラミックな見通しの中におかれている。
                          (バルト[1967]P17~18)

端的に要約してしまおう。プロレスとは自然に開かれた人々のための民衆の力の
発露であると。よって
世間に埋没している者には開かれないのである



3 フィスクのWWF

 フィスクはバフチンのカーニバル論を三つの次元に分類し整理する。その三つ
の要因に沿って、テレビ番組としてのプロレスをバルトの「レッスルする世界」
を参照しつつ、分析する。

 (1)儀礼的なスペクタクル

 (2)滑稽な(口承)の作品―創作作品、パロディ、風刺作品、屈辱を与える
    作品
    神聖さを汚す作品、滑稽な戴冠と脱冠の作品

 (3)様々な無遠慮で粗野な言葉のジャンル―毒舌、誓詞、民衆的な誇示宣揚

 第一の要因に関して、重要なのはシニフィアンの誇張にあり、それによって儀
礼的なスペクタクルというフレームが成立しているとされる。「見えるもの強
調」「意味作用や深層の拒絶」「過激な肉体の動き」という表現によってシニフ
ィエの後退を表現する。「それはスポーツの動きが持つ巧みさではなく、あくま
で儀礼の動き」(フィスク[1996]P381)
なのである。この儀礼的な動きの具体的例
として、プロレス技の名前がいくつか並べられている。

 フィスクはアンドレ・ザ・ジャイアントキング・コング・バンディの試合を
例にしてこの儀礼的なスペクタクルの面を分析する。傷つけられたアンドレの肋
骨は、その傷つけられたということに意味はなく、「現実の道徳的価値や法の世
界から絶縁したスペクタクルの対象」として現実的世界のシニフィエを失効し、
儀礼的なシニフィエを獲得する。この儀礼的なシニフィエによって意味表象され
るのは、世界が反転した上での道徳的価値や法の世界である。つまり現実的意味
=シニフィエは失効している。傷つけられたアンドレの肋骨とは、誇張の身振り
のシニフィアンなのである。

 カーニバルの第二の要因に関して、フィスクはプロレスには「逆転とパロディ
ーというカーニバル的形態が同じく明確に示される」という。「主要な逆転は、
統制と混乱との間の逆転」にある。WWFのテレビ番組には情報提供コーナーが
あるが、最新情報を提供するコメンテーターとしてロード・アルフレッド・ヘイ
ズが登場する。彼はその名前、衣装、発音のアクセントによって英国貴族のパロ
ディーとなる。このパロディーによって、英国貴族の社会的地位は格下げを受け
る。今ならロード・スティーブン・リーガルがそれに当たるだろう。

 またレスラーと観客というカテゴリーがこのスペクタクルで失効し、「パラド
キシカルな世界」が顕現する。「見るもの/見せるもの」というカテゴリーは一
つの社会規範として機能しているが、プロレスの闘いが場外乱闘などの破られる
ためにある規則の、まさに破られることによって、そのカテゴリー化を失効さ
せ、観客も「肉体的な参加者」となる。観客の参加志向は、実際の身体的行為
や、プラカードを掲げたり、Tシャツなどのシンボリックなものを身につけるこ
となどがあげられる。テレビカメラは、カーニバル化した観客を映し出す。

 スポーツが「公平である」ことから始められ、敗者が格下げされることはな
い。プロレスは「公平である」ことを拒否することから始められ、敗者はこれみ
よがしに格下げされる。例えば、一方のコスチュームが最小限レスリングするた
めだけの恰好であるのに対し、もう一方マッチョマン・ランディ・サベージは
「スペクタクルにあったカーニバル的な衣装」を身につけている。不公平と醜
悪、悪の勝利という逆転した世界の仕掛けとして「この対称的な構図は、正常と
非正常との間で、日常性とカーニバル的な特性との間で、描かれているわけであ
る」(フィスク[1996]P384)。

 またレスラーの肉体は支配的価値観により構成される美の対象ではないと言
う。つまり家父長制の支配的イデオロギーによって構成されるエロスの対象とし
て、男性の肉体は捉えられる。しかしプロレスにおいて、レスラーの肉体とはグ
ロテスクなものである。それはバフチンの言う「グロテスク・リアリズム」であ
るという。スポーツにおける完璧な肉体とは対称的な、民衆の肉体に根ざした世
界観が構成される。つまりある価値規範によって矮小化されている身体観が、肉
体の物質性に帰還する。レスラーの肉体を見る快楽とは、次のようなものだ。

 醜悪さを体現し、悪魔と契約した男の強さと力を見ることは、スポーツとは対
称的な魅力と嫌悪の快楽を高めるのである。醜いものと同盟関係にある、この誇
張された強さは、男らしさに関する、これまでとは対称的、かつ対立的な解読の
ための空間を開く。
                          (フィスク[1996]P387)

このような支配的価値によって構成される身体観を逃れることは、現実社会の逆
転した世界への開示となっている。

 次に第三の要因に関して、「粗野な言葉のジャンル」は口語的、または非口語
的側面両方から成り立っている。レスラー同士のののしりあい、レフリーや観客
への悪態、観客のプラカードなどに見ることが出来る。そしてインタビューでは
ライブの観客を飛び越え、テレビ視聴者に直接的に自己の強さと素晴らしさを訴
え、対戦相手を罵倒する。例えば現在のWWFではこの「粗野な言葉」がファン
の求心力を高める一つの要因となり、アメリカでは最大規模の視聴率を獲得して
いる事はよく知られるところである。

口語的なものと、非口語的なものを一例づつあげておこう。口語的なものでは、
最大の憎まれ役であるビンス・マクマホンには会場全体で 'ass holl'(クソ野郎
)と連呼し続ける。周知の通り、ビンス・マクマホンは実はWWFの現実のオー
ナーである。非口語的なものでは、ストーンコールド・スティーブ・オースチン
は両手の中指を突き立てるポーズ(fuck you!)を見せ場に繰り出す。

彼がWWF’最大’のスーパースターとして人気を博しているのもまた周知の通
り。この事例を見るだけでも、プロレスにカーニバル的逆転劇が特徴的であるこ
とが理解できる。「「粗野な言葉」は演技者と観衆の境界を取り去りながら、口
承的で、対立的で、なおかつ参加的な文化として存在するのである」
(フィスク[1996]P387)。

 プロレスのカーニバルはテレビ画面を超え全体性を獲得していく。

 フィスクは、カーニバルによる逆転した世界の顕現、権力や権威のパロディー
化が、日常世界における社会規範の相対化や批判に繋がると主張する。フーコー
を引用し、身体が社会的権力が行使される場であり、カーニバル的肉体が社会的
権力の統制を逃れていることに、民衆的力の表現を読みとる。またスポーツによ
って称揚される身体が支配的イデオロギーに合致しており、プロレスの身体はそ
こからも逃れている。

社会の中で従属的地位にあるものにとって、プロレスは白人中心社会の、また家
父長制的資本主義社会の価値規範に一時的失効による祝祭なのである。それゆえ
プロレスは、従属的地位にあるものの社会的経験を表現し、単に境界侵犯的な表
現形式というだけではなく、より民衆の欲望の実現という積極的評価をしている。

 我々はカーニバルを、究極では社会統制がより効果的に働くようにする単なる
安全弁だ とみなしてはならない。むしろ、それは対立し、破壊力を持った、民
衆の力の強さと持 続力の証のである。(フィスク[1996]P390)



4 フィスクを乗り越えて

 よりフィスクのプロレス論の理解を深める作業も可能ではある。特に身体やテ
クストの問題に関しては。しかしながらそれは後にとっておき、そろそろ今回の
議論をまとめておこう。

 フィスクの論調は、プロレスが社会統制的、あるいは単純な社会反映論的な儀
礼として捉えることに重心はなく、カーニバルにおける民衆の反体制的な活力に
重心をおく。フィスクによって強調されるプロレスのカーニバル性は、ほとんど
無制限な自由と人々による対抗的な読解を混同させる側面を有している。つまり
特定のイデオロギーによる支配的側面を等閑視してしまう。バルトにおいてはイ
デオロギーと、単純化してしまえば反イデオロギー的側面が共存していた。だか
らこそバルトはプロレスのイデオロギーに嫌悪感を示しつつ、反面魅了されもし
たのだ


 かつてバフチンのカーニバル論が、その楽天的なまでに民衆主義的であること
に対して批判が起こった。ストリブラスとホワイトはカーニバルにおける人間の
欲望と実現の二面性を強調する。彼等の主張は、祝祭空間などの集合的な場での
出来事は、儀礼として社会規範を構造化したり、つまりイデオロギー強化に還元
することは不可能であり、また、民衆の全的な欲望を発露できる自由なユートピ
アとするのではないとする。彼等は権力を言説的実践の闘争として捉えることに
よって、人々の主体性がその闘争の中で構成されるプロセスとして描き出す(ス
トリブラス/ホワイト[1995])。それに比較して、フィスクはカルチュラル・スタ
ディズに位置しながらも、あまりにポストモダン的’戯れ’の美学に与し過ぎで
あり、文化における意味の闘争を一元化してしまい、闘争をも無効化しかねない
恐れを持っている。

 我々もプロレスを文化として分析の遡上にあげるには、ストリブラスとホワイ
トの指摘は参考にしなければならない。バルトが分析したプロレスは、おそらく
当時アメリカで盛んとなったプロレスがフランスに輸入されたものであろう。ま
たフィスクのプロレスは、現代アメリカのポピュラー文化である。

今後研究を計画している『プロレスファン・カルチャー』は、基本的には日本の
プロレスを対象とする。力道山によって、輸入されたプロレスは日本社会の権力
関係の網の中で、バルトやフィスクのプロレスとは異なった出来事としてのプロ
セスを歩んできたはずである。よって演劇論の中で安住するわけには行かない。

バフチン的な儀礼とカーニバルの相克、ストリブラスらによる境界侵犯と他者と
主体性をめぐる闘争=対話の政治学の地平に立ち、出来事を解釈していく必要が
ある。歴史社会的な文化の多層的なせめぎ合いと、プロレスを語る言説のあり方
が持つ権力性を読みとっていく視座が必要となるのである。また演劇として捉え
る知のフレーム自体が持つ権力性、つまりこの権力性はシニフィエであるが、破
壊していく作業が必要とも考えられる。

(第3回完)

 ご意見・御感想等ある方は、下記ボタンで送信していただくか、掲示板にお書き頂ければ幸いです。





本稿の著作権はすべてKANSENKI.NET及び「書き手」に帰属します。

戻る
TOPへ