第2回  ”バルト「レッスルする世界」” 読解と批評
■投稿日時:2001年1月23日
■書き手:Drマサ

テクスト:ロラン・バルト 篠沢秀夫訳1967年「レッスルする世界」
     『神話作用』 現代思想社刊

1 プロレスの神話と記号論
 
 バルトは言う。

 レスリングのよさは、度を超えた見せ物であることだ。(バルト[1967]P5)
 
 レスリングは下劣なスポーツだと信じている人達がいる。レスリングはスポー
ツではない、見せ物だ。(バルト[1967]P5)

 ここで「レスリング」と記されているものは、勿論’プロレス’である。バル
トは議論の出発点として、プロレスをギリシャ演劇や闘牛に匹敵する闘争の見せ
物として定義する。この「見せ物」という表現の中に、検討すべき問題点があ
る。

 バルトは「見せ物」という表現を否定的に使用してはいない。しかし、社会
における一般的信念として「見せ物」という表現には、否定的、侮蔑的意味が付
与されているものである。プロレスファンであれば、非ファンから以下の決まり
文句を浴びせられたことがあるはずである。「プロレスって、どうせショー(見
せ物)だろう!」
と。しかし、バルトはこの見せ物にボードレール的な誇張的真
実を発見する。

 我々はこの小論において、バルトのテクストを土台として、このボードレール
的な誇張的真実、つまり「見せ物」の力学をめぐって議論を重ねていくことにな
る。より厳密な議論を目指そうとすれば、我々が「見せ物」やプロレスという社
会的構築物に付与される意味の政治学が問題視されなければならない。


 さて我々がプロレスについて学際的な考察を行おうとするとき、バルトのプロ
レス論を回避するわけにはいかない。その理由は多岐にわたるが、学問的な方法
論上の手続きに関すること、かつ現代文化を考察するための重要なテクストとし
て位置づけられることがあげられる。この小論に関して、前者はとりあえずおい
ておこう。よって後者を中心に議論を展開していこうと思う。

 バルトのプロレス論「レッスルする世界」は多義的な読解が可能なテクストで
あるが、まず2節において全体像の素描を行い、3節において分析及び批評に焦
点を当て、大きく分けて2つの視角において取り上げてみる。まずその1つがプ
ロレスという芸術形式のその形式の特性に関して。バルトはプロレスにおける、
いわゆる記号論という理論的視角から抽出したシニフィアン=記号形式を’無意
識的’といっていいほどの態度において賛美してしまう。そう、バルトはプロレ
スに魅せられている。しかしそれを認識はしていない
。プロレスにおける形式の
「誇張の振る舞い」は、世界が信じている’人間中心主義’=イデオロギーを脱
臼させてしまう装置となっている。もちろんこの「誇張の振る舞い」とはボード
レール的な誇張的真実に深い関与を示すことになるだろう。

 そして2つ目の視角はプロレスにおけるイデオロギーの問題に関してである。
プロレスによってどのような意味世界が展開されているのか、つまり記号論にお
けるシニフィエ=意味に関して論じていこうと思う。バルトはこの『神話作用』
というテクストにおいて一貫してイデオロギー批判を行うが、「レッスルする世
界」はイデオロギー批判という枠組みを乗り越えてしまう。つまり記号形式の問
題において導き出された脱臼化装置としての記号は、正義と悪の弁証法ともいえ
る事態=イデオロギーに関して自己言及的な批判をしてしまう。

 この2つの視角を交差させることによって、3節は展開される。また我々はそ
の理解の中心をバルトテクストのみに限定するという戦略を採る。内在的な読解
によって、バルトの脱構築という問題関心を抱えている。つまり3節は、この問
題関心による中間的考察として位置づけられている。


 「神話とは、ことばである」「その中に社会を再現することになろう」(バルト
[1967]P139~140)
とバルトは言う。バルトは様々な出来事の分析を行っているが、
そこで’暴露’されるのは我々が自明としている現実が隠し持つイデオロギー性
である。暴露されるのは、実際には根本的に文化的なもの、つまり社会歴史的構
成物が、あたかも自然なものとして社会に流通し、後天的なものが先天的なもの
として流通している状況である。

 我々はメディアや芸術、そして常識などによってある一定の世界像の中に被投
されている。その世界像は真理ではないが、歴史と自然が混同される過程によっ
て、いわば真理として自然化する。

 バルトはこの混同によって自然化された’分かり切ったこと’を記号論によっ
て意味作用の形式として取り出し、かつ神話として暴露してみせる。カルヴェに
よれば、バルトの神話概念は二つの要素をその属性として取り出している。ひと
つは伝説であり、人間の条件を示す象徴的な物語。二つ目には嘘であり’たぶら
かし’であるという(カルヴェ[1993]P247~248)。バルトは広告や文芸批評、映画、
風俗習慣、など日常生活で語られるあらゆるもの、出来事を神話として取り出し
、そのイデオロギー的偽装=’たぶらかし’を指摘した。ところでバルトが暴き
出そうとする神話とは、プチブルジョワジーのイデオロギーを示す神話である。

 大衆文化の消費者であるプチブル階級の文化政治的態度への批判が、その底辺
に存在する。このような視点がバルトの「いらだちの感情」を生み出していたの
だ。バルトは資本主義社会における、権力と階級構造が生産する文化領域におけ
る差別的な社会経験を明るみに出す方法論として記号論に着目した。それは、特
にその「いらだちの感情」はプチブル神話の破壊を目指す。

 ではバルトは、プロレスという見せ物がいかなるイデオロギーを表していると
捉えたのか述べる必要があるだろう。それは市民社会的正義や道徳というイデオ
ロギーである。




2 バルト=プロレス論の素描

 このプロレスという闘争の見せ物は「光の輪の強烈で垂直な性格」という過剰
なカーニバル的空間を成立させている。つまり過剰な意味空間が成立している。
これに対立するものとして「空」という概念によって、我々が信じている規律規
範によって成立している実社会を表現する。プロレスにおける身体は規律を、実
社会を侵犯する。
 そしてバルトは、様々な識者によってプロレス八百長論と理解される議論を展
開する。

 先刻の人々は次にレスリングが八百長スポーツであると憤慨するのだ(そうだ
としたら その下劣さが失われてしまうのに)。観衆は闘争が八百長かどうかを
知るなど全くどうでもいいのだ。そして彼等が正しいのだ。観衆はこの見せ物の
第一の美点に身を委ねる。それは動機も結果も全て廃絶することにある。
 大事なのは観衆が信じるものではなく、観衆が見るものなのだ。(バルト[1967]P5~6)
 
 よって、プロレスは演劇に分類されると指摘され、ボクシングや柔道とプロレ
スという似通った身体行為の比較を行う。ボクシングは「優越性の証明に基づく
ジャンセニムス的なスポーツ」であり、賭事が成立する「観衆の目前で築かれる
歴史」
である。ボクシングは真実としての出来事であり、その時間的連続性によ
って意味が付与される。ボクシングにおける勝者はナポレオンと同様、われわれ
の世界における成功者=勝者として、よって歴史として認知される。

 ほぼ同様に、柔道は勝利へと連続する機能的身体として認識できる。それに対
してプロレスにおいては、レスラーの身体は瞬間的な’記号論的身体’なのであ
る。よってレスラーは、観衆が期待する身振りを正確に演じ、かつ徹底的に誇張
する。柔道では勝利への直線的な志向によって、不利な状況は即座に有利な状況
へと展開されなければならないし、ルールによって決定づけられる勝敗によって
終了する。レスラーは試合の状況を徹底的に誇張し、勝者と敗者の意味をも誇張
する。
「レスリングでは、床に倒れた者は大げさにそこに留まり、その無力さの耐え難
い光景で観衆の目を徹底的に満たす」(バルト[1967]P7)
のである。

 つまり一般的スポーツの規範性が失効するジャンルとしてプロレスを捉える。
我々が信じる機能的身体の表象や価値への関与を後退させ、勝者と敗者の関係性
が導き出す道徳を浮上させる。

 次にバルトは、プロレスにおける記号提示の第一の鍵としてレスラーの身体を
上げる。

 その肉体的あり方によって、レスラーの役割が表象されているという。例えば
トオヴァンというレスラーは≪げす野郎≫の記号として過度の意味表象を行う。
彼の肉体は「卑猥でよぼよぼした五十男で、その一種の無性別的な醜悪さが常に
女性的な渾名を思いつかせ、その肉の中に下劣な奴の諸特性」(バルト[1967]P7)

を持っている。この記号としての身体が持つ’醜さ’という表象を出発点とし
て、トオヴァンというレスラーの全ての身振りのあり方が決定される。つまり
「裏切り」「残忍」「卑劣」「下劣」「ぶざま」「低劣」そして「ゲジゲジ野
郎」など、バルトはプロレスにおいて≪げす野郎≫という表象をカギ概念とす
る。

 このレスラーの肉体という記号は、プロレスという闘争全体の基底となり、試
合の状況によって意味を繁殖する。そして、レスラーの肉体は「敗北の全体的な
イメージ」に寄与する。この敗北は結末としてではなく、観衆の目前で展示され
るため持続される。敗北は徹底的に誇張され、みじめな敗北の身振りをレスラー
は演じる。

 いわゆる記号論の用語を援用するなら、それぞれのレスラーの肉体はパラダイ
ムを構成し、試合の状況とその展開がシンタグムを構成する。極めて簡単に説明
すれば、垂直軸としての記号(パラダイム)=「レスラーの肉体」と水平軸の規
則(シンタグム)=「試合の状況」に基づいてコードが組織化される。

 この様な組織だった記号システムの成立によって、意味は社会の成員に共有さ
れる。コードがレスラーと観衆とを結びつけ、プロレスによって構成されている
文化的世界の意味のネットワークを繁殖させることになる。≪げす野郎≫の肉体
がある状況においてある身振りを行えば、その意味は明白に一つの意味を構成す
る。観衆の読解に不明瞭さをもたらす身振りはあり得ないのだ。

 バルトはこのレスリングのあたかもデジタルな意味作用を「レスリングは発音
記号のようだ」と表現する。重要であるのは、意味は既にコード化され、共有さ
れているということである。我々が現実を知覚し、現実に意味付与するのは我々
個人個人が独創的に思考する結果によってではなく、社会的に流通している文化
のコードの産物によってなのである。

 プロレスにおいて、その同一性の志向は「道徳的な種類の英雄化」「著しい道
徳的なイメージの段階的構成」であり、その段階的構成は、ルールと正義の弁証
法に規定される。この闘争劇が構成する道徳の構成要素を上げてみよう。それは
「情熱の最も社会的な諸ニュアンス」であり、うぬぼれ、正当な権利、洗練され
た残酷さ、仕返しの感覚、苦悩、敗北、正義、自尊心……。最も重要な道徳は正
義であり、そして仕返しである。バルトは次のように言う。

 だがレスリングがマイムで表そうとするものはとりわけ、純粋に道徳的な概
念、正義、 である。仕返しの観念はレスリングに本質的であり、群衆の≪苦し
めてやれ≫は何より も≪仕返しをしてやれ≫を意味する。もちろん、問題なの
はだから内在的な正義である。(バルト[1967]P13)
 
「内在的な正義」は、≪げす野郎≫によるルールの侵犯によって顕現する。そし
て善玉がルールの侵犯を執行する。

 ところでルールとは、選択することの妥当な、あるいは妥当ではない行為を指
示し、各行為者間で明示化される合意のことを意味する。よってボクシングや柔
道においては、ルールは行為者=競技者の外部にあって、絶対的な強制力をも
ち、合理的かつ客観的な限界値を提示する。しかしプロレスのルールは、バルト
にとって、このような限界値の乗り越えのために存在する。ルールは正義のため
に乗り越えられるべきものなのである。よって「正義は故に、有り得べき違反の
総体である。法を乗り越える情熱の光景は何よりも価値があるという法則がある
のだ」(バルト[1967]P14)


 ルールと自由の関係を考察する社会哲学的思考を採用するならば、ルールと自
由が対立するという認識は実際は無効化するかもしれない。しかし、このルール
と自由の対立という認識は常識的な理解に支えられているとする秩序観であり、
あるいは一般的な信念体系とさえ言える。プロレスはこの常識的理解を転倒させ
る。観衆の快楽のこの一般的信念体系の、常識の転倒にある。ここにはバフチン
的カーニバルの論理が内在しているが、ここでのバルトの強調点はこの転倒を民
衆の抵抗として肯定的に評価することではなく、神話として暴露する点に向けら
れている。
 篠田はこの「レッスルする世界」における転倒した世界を次のように要約して
いる。

 観客は自分がリング上に求めているのは正義の実現であると思っているにして
も、その 正義は実は「ありうる限りの違反の総体」なのである。この転倒、こ
れこそが「レッス ルする世界」というタイトルにこめた真意であり、正義を演
じている世界が実は違反の 総体からなっている事実を暴露しようとする本書の
意図を、まずその冒頭に掲げたもの だった。(篠田[1989]P39)

 ≪げす野郎≫、つまり悪役の悪行はある不定の量的限界をもって、善玉の仕返し
を正当化する。この仕返しには「一種の道徳的な美」が存在する。つまりプチブ
ル・イデオロギーとしての正義が、具体的な状況において「目には目を、歯には
歯を」という補償の論理として演劇的に提示され、善玉によるルールの乗り越え
は、正義としての価値を付与される。悪役の同じ行為はルールの侵犯と称され
る。よってルールとは、正義を具体的な状況において顕現させるための文化的な
仕掛けであり、実際の制約を構成せず、破棄される。

 このバルトのプロレス論は、プロレス八百長論やプロレス演劇説として解釈さ
れ、あるいはプロレスにおいて問題とされるのはその”喜劇”的性格であるとさ
れてきた。しかしながらバルトの内在的な読解によって、そのような理解では不
十分であると指摘可能であろう。次節において、バルト自身が無意識的に指摘し
ていた問題を議論してみよう。つまりプロレスによって顕現された正義とは、単
に”たぶらかし”とは言えないのである。だからこそバルトは「いらだちの感
情」と共に、プロレスに魅せられてもいるのだ。



3 暴露する芸術形式としてのプロレス

 我々は先に提示した視角、つまりプロレスという芸術形式のその形式の特性と
プロレスにおけるイデオロギーの問題が交差する地点に議論を展開しよう。
 バルトはこのプロレス論を閉じるに当たって、次のように言う。

 リングの上で、その自発的な下劣さのどん底そのものでレスラーたちは神々で
ある。な ぜなら、彼等は何秒かの間、自然を開く鍵であり、善を悪からへだ
て、ついに明らかと なった正義というものの様相を露にする身振りだからであ
る。(バルト[1967]P18)
 
この時「見せ物」に付与される意味作用は、プロレス蔑視、あるいは軽視とは異
なるトーンを持っている。詳細は避けるが、ここで述べられる自然というのは単
にイデオロギーの対抗としての社会的構成物にとどまるものではない。善悪の彼
岸を開示する芸術的装置と言えるはずだ。

 バルトは『零度のエクリチュール』[1964]で文学形式における自己表現の演劇
的誇張の諸形式において、エクリチュールという概念を打ち立てている。この概
念によって、バルトは言語の物質性に焦点を当て、言語の意味にではなく、言語
がどのような振る舞いを見せるかという言語のモードに焦点を当てている。つま
り文学的形式における言語の演劇的な、あるいは誇張の形式を問題視した。バル
トは言説における芸術形式をここに見ていたが、我々は今やバルトがプロレスに
おける演劇的トーンの、誇張の選択形式がこのエクリチュールという概念との近
さを指摘することができる。バルトはこの芸術形式における誇張の身振りに喜び
を、また同時にイデオロギー批判するものとしてプチブル神話の侵入に対し嫌悪
感を抱く。

 プロレスの形式に関わって、バルトの日本論と比較する視点を補助線としてみ
よう。『表徴の帝国』[1974]においてバルトは、オリエントの神話解読を行って
いるが、日本における日常生活や能などの演劇形式の人為性を賞賛している。日
本文化の特徴として、シニフィアンとシニフィエの分離、あるいは形式の自律化
を上げているが、プロレスの形式と共通する視点と、また差異を強調する視点を
与えてくれる。後にバルトは、日本文化の記号の特異性について論じているが、
歌舞伎においてはシニフィエとシニフィアンが分離し、そのドラマツルギーが記
号の形式に徹底的に還元されている。

 歌舞伎では、徹底的に形式化された記号、つまりコードによって役者は感情を
表現するが、その表現形式は徹底的に抑制されている。つまり’魂’と’身体’
の分離によって’品格’の芸術となっている。八百長スポーツであるからこそ
「内面に還元されることのない、直ちに知覚に与えられる身ぶり」「魂のない身
体、いうならば魂と化した身体」(鈴村[1996]P182)
にバルトは魅了されるのだ。
それとは対称的に、プロレスは’魂’と’身体’の分離によって誇張や過剰を、
あるいは’俗悪’の芸術となっている。

 バルトは形式と意味(あるいは概念)の関係を解体し、あるいは同様のことだ
が、シニフィアンとシニフィエを分離させる。形式及びシニフィアンには魅了さ
れるが、意味や概念、そしてシニフィエには嫌悪を感じる。先にバルトがプロレ
スに対して否定的態度をもっていないことを指摘したが、その理由はこの表現形
式によって、神話作用が人為的であることを自ら表出してしまうからである。

 本来人為的、文化的構成物である意味が自然と振る舞っていることにいらだち
を感じ、この偽装を暴露しようとする目的を『神話作用』は担っていた。しかし
、プロレスの表現形式があからさまに人為的であることによって、当初から偽装
であることを露にしている。バルトはプロレスがイデオロギーを表現していること
と、かつそれが偽装であることを暴露する表現形式としてメタ機能を共存させて
いることを無意識的に語ってしまう。『神話作用』の「レッスルする世界」に
は、記号破壊的な視点が既に存在していたのである。

 この様な神話の両義性は、意味と形式が同時に成立することに関わっている。
神話作用とは一時的意味作用の次元で意味であるものが、二次的意味作用の次元
では記号となる。
意味は形式になることによって、意味はその偶発性を遠ざける。つまりそのイデ
オロギー性を空虚とし、乏しくする。歴史は蒸発し、もはや文字しか残らない。

「ここには読み取りの操作の逆説的な循環があり、また、意味から形式への、言
語の意味表象から神話での意味するものへの、異常な逆行がある」(バルト
[1967]P152)。

 レスラーは意識的かつ能動的にコードの操作者として、身振りを決定しうる。
よって「経験に富んだ人間であるレスラー達は、闘争の偶発的な挿話を、公衆が
その神話体系のすばらしい大テーマについて作っているイメージの方へ、屈折さ
せることを完全に心得ている」(バルト[1967]P17)


 レスラーのリング上の身体的介入によって、意味世界は創造的な弁証法を成立
させる。かつレスラーは創造者、コードの操作者でありながら、同時に社会的・
文化的規定の支配下に存在する。不公平性は信じられている社会的・文化的規定
に反している。ここで善玉のレスラーは善良な市民になり変わって、罰を与えな
ければならない。プロレスにとって、社会生活は重要な意味の源泉である。これ
はプロレスに限定される論理ではなく、様々な芸術に適応できる。イデオロギー
は芸術における素材として一定の役目を担っている。

 プロレスの形式性は、プロレスによって提示される物語やイデオロギーを常に
脱文脈化する可能性を自ら開いてしまう。レスラーは日常において隠蔽されてい
る正義が持つ権力性を非日常的空間の中で露にする。よってバルトのプロレス論
は、これらの規範や価値観を破壊し、侵犯するプロレスの形式を賞賛している面
へと揺らいでしまう。

 「レッスルする世界」における神話体系を整理すると、当該社会における倫理
観、道徳観への侵犯や冒涜は、社会的正義の名によって罰せらなければならない
という市民社会の信念体系を表している。また社会的正義が行使される時、復讐
や罰の論理によって先の道徳は一次棚上げされ、違反の総体となる。つまり正義
の本質が理解される。つまりここに暴露する芸術形式が定位する。
 


4 小結

 筆者のプロレス観からいえば、プロレスはパフォーマンスやスポーツという側
面にも着目する必要があるが、バルトの視点では演劇である。とすればこの観点
からすれば、プロレスは特定の主題をもっており、イデオロギーとしての正義の
体現として、復讐と罰は必然的結果となる。パフォーマンスにおいて生じるダイ
ナミズムはここでは生成し得ないが、反対に一元化された意味世界が生成する。
よってこの一元化されたい意味世界=イデオロギー=自然を破壊する者は、市民
の生活を踏みにじる者として忌避され、非難を浴びる。復讐と罰とは儀礼のクラ
イマックスとして、世界の秩序を回復し、社会の擬集性をより安定させる。しか
しながらこの安定のために自然とされていたイデオロギーは、そのイデオロギー
性を暴露されてもいる。

 我々は、プロレスの形式性が持つ芸術的機能をバルトの「プロレス=演劇」論
から批評してきた。しかしながらプロレスファンにおいてもまた、このような視
点が存在していると言えるだろう。プロレスの形式性をそれぞれのプロレススタ
イルとして理解し、あるいは’バンプ’’セル’などの隠語の獲得などは、この
プロレスの芸術形式に関与する問題点の足がかりであるだろう。『紙のプロレス
・26』にこの芸術形式に関わる視点を見いだしうる部分がある。
 
 「プロレス」と「格闘技」を分けて語るのはあまり気乗りしないのだが、敢え
て分ける とすれば、「格闘技」は見る側が“顕微鏡”を用意しないと、実に見
えにくい世界だ。 たとえば技術の攻防にしても、見る側が“顕微鏡”の焦点を
合わせなければ見えないこ とが多い。

 しかし、プロレスは「拡大鏡」がリングの四面に張り巡らせてある世界である。
格闘 技としての技術、喜怒哀楽、エネルギーの大小、キャラクター(人格)、
辿ってきた道 程などが、一瞬にして「拡大」されて見える仕組みになっている。
だからこそ、チンケ な技術やチンケなプライド、チンケな思考などは、すぐに
見破られてしまうジャンルとも言える。(紙のプロレス・26P2)  

 この山口日昇編集長のいう「拡大鏡」が、我々が議論してきた形式における「誇
張の振る舞い」であることはいうまでもない。我々はバルトがプロレスを演劇と
して認識した地点からそろそろ離脱し、プロレスラーやプロレスファンの理解を
土台として、プロレス独自の芸術形式の文法を理論的にもまた見いだす必要があ
るのではないだろうか。

(第二回完)

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