『プロレスファン・カルチャー』(仮題)―プロレスの文化社会学の構想を巡って
■投稿日時:2001年1月1日
■書き手:Drマサ

0 当サイトで行うこと

 私がこのウエッブ上で行うことは、既存のアカデミックなプロレス論の紹介
と’批評’に関してです。断片的にアカデミックなプロレス論が紹介されること
はありますが、できるだけ網羅的かつそれぞれ包括的に述べていこうと思いま
す。ウエッブ上で様々なプロレス論を楽しんでいる方々に、少しだけ異なった角
度からプロレスを、あるいはプロレス論を楽しんでもらい、その上で喧々諤々の
意見を持っていただければという意図から生まれた企画です。

 現在私は某大学大学院の博士課程に在籍し、プロレスをフィールドとした社会
学的研究
を計画実行中です。プロレスを社会学上の概念によって説明することは
可能ですが、それはアカデミックな社会学にまでなかなか昇華しないものです。

現在このような地点で悪戦苦闘しているというのが自己紹介と思っていただけれ
ばと考えています。第1回はそのような自己紹介もかねて、私自身の研究計画を
素描します。ちょっと読みづらいかも知れませんが、おつき合いいただければ…


1 全体的展望

 『プロレスファン・カルチャー』(仮題)によって言及されるであろう課題は、あ
る特定集団=プロレスファンに関する文化的実践の物語に関してである。それは社会
学を中心としたマス・コミュニケーション論、メディア論、スポーツ社会学、文化社
会学などの知的領域をファンという主体概念を切り口として、横断しつつ、ひとびと
の日常生活における娯楽と経験の喜びと美学、そして抵抗に関して取り上げようとい
うものである。

つまり、ある特定ジャンル=プロレスのファンが保持している社会的慣習や文化規範
を包括する価値観に関する記述であり、またその文化的実践やマスメディアを中心と
する意味に関わる’テクスト論’的消費主義との複雑な関係に関する記述でもあり、
それらの理論化を志向している。注意が必要なのは、学的対象はプロレスそれ自体で
あるというよりも、プロレスファンの方にある。

よってプロレスの実際がいかなるものかという問いは二次的な問いとして一歩後退し、
プロレスファンのプロレス観とそのプロレス観を以て実践される様々な社会的経験が
対象化される。故に『プロレス文化』ではなく、『プロレスファン・カルチャー』
のである。


 我々はプロレスに着目する。最近のプロレスファンの性格の変化があるとはいえ
(いわゆる’平成のデルフィン’達)、プロレスの実際をあまり知らず、偏見とまで
はいわないにしても、プロレスを軽視する態度は一般的なものでさえある。付言すれ
ば、プロレスを軽視しているなどとは露にも思わないはずである。ひとびとの見せ
物spectacleとして、娯楽entertainmentとして提供される幾多のジャンルが存在する。

人々が野球、サッカー、相撲、ゴルフ、ポピュラー音楽、テレビドラマ、映画などを
家庭や職場そして学校などで話題にする時と、プロレスを話題にする時には、明らか
に’温度差’を感じざるをえない
。この’温度差’を生じさせる力学こそ我々の社会
的慣習や文化的規範における意味や価値である。この差異を創り出す構造を問題視す
る視角を戦略的に立ち上げることによって、プロレスを素材とした新しい文化理論を
目指そうというのが『プロレスファン・カルチャー』(仮題)の端的な意図である。

 社会の中では、プロレスをスポーツとして捉えるもの、芸能の一種として捉えるも
の、時には文芸的な対象として文化的関心を持つものなど様々である。日本にテレビ
放送が開始されまもなく、力道山が’輸入’してきたプロレスが紆余曲折ありながら
も現在も’生き生き’と繁栄し、ひとびとの人気を得て活動してはいる。しかし、そ
のプロレスというジャンルの特異さもあって美学的に低位にあるジャンルと見られて
いる。
プロレスというリングでパフォーマンスされる’見せ物’とそのファンについ
て学問上の考察をする時、その意義に懐疑的な人たちもいるだろう。しかしプロレス
の本質とその文化的意義をめぐる議論は、決して無意味なものではない。例えばメディ
アとその消費という、社会学的関心の議論上に新しい知見を提供できるはずである。


 特に日本では、数種類のプロレス専門の定期刊行物や単行本の出版も盛んであり、
一部の活字メディアはプロレス文化内で非常に大きな力を有して来たという側面があ
る。プロレスファンの中には、余りライブ・ショウやテレビ放送を見ないというのに
プロレスファンであるというアイデンティティを持っている者さえいる。つまり専門
週刊誌等のある特定のメディアのみでプロレスと接触し、この特異なメディア空間の
中で、それぞれのプロレス論を構築している者がいる。


 このようにファンとメディアの関係、およびメディアテクストの消費という社会学
的関心について、プロレスは非常にユニークな事例を提供できるはずである。メディ
アテクストの読解に関しては、プロレスファンの中にはその文化的能力が高いと想像
される者が存在しているだろうし、現代文化におけるメディアテクストの特性がこれ
らの議論から浮上してくるだろう。現代の多様なメディア状況を考慮に入れ、戦後日
本で定着したプロレスというジャンルの文化が占めている特異な状況を論じ、そして
さらに我々の常識を構成している知のあり方に問題意識を投げかけ、人気を獲得して
いるにもかかわらず、ある部分では拒絶反応がある理由を示唆することができるはず
である。


 また、人文社会科学の様々な領域を横断する知的運動として、カルチュラル・スタ
ディズ
が昨今注目を浴びているが、『プロレスファン・カルチャー』(仮題)はこの
現在も続く知的成果に負う部分が大きくなるであろう。静態的構造を持つものとして
イメージされた文化、つまり文化という言語が持つ自然性を引き剥がし、文化が政治
的なもの、力動的構造であることが主張される。人々が織りなすポピュラー文化にお
いては、権力をめぐる闘争がひとびとの実践、言語、あるいは知識のあり方に観察し
うるものであるという。文化は戦略的な闘争と交渉の場であり、意味と解釈など価値
をめぐる政治的な場なのである。プロレスについて語る時、まさに意味や価値を巡る
闘争状態が顕在化しているのではないのか。例えば「プロレスが八百長か否か」とい
う問題を巡る多種多様な言説が存在していることが、その現れと考えてもいいはずで
あろう。


 つまり日常生活において、ある社会集団がこの複雑多様なメディア状況といかに関
係を結び、メディアテクストを文化的資源として利用しているかという理解に関して、
様々なフィールドで議論され、精妙な理論化がなされてきた。プロレスファンの文化
研究は、このカルチュラルスタディズの理論や概念装置のコンテクストに存在するフ
ィールド研究という側面を持つことになるはずである。


2 ファンであることと研究者であることの狭間で

 『プロレスファン・カルチャー』(仮題)では、これまで取り上げてきた議論から
も分かるように、伝統的な社会科学上での関心を引き継いでいる。それは、特にカル
チュラルスタディズを中心とした批判理論における関心を共有する。著者がここで特
に強調することは、単にフィールド研究の伝統的形式からではなく、このサブカルチ
ャーを成立させている共同体内における著者自身の知識と経験を有効利用することで
ある。つまり、著者である私自身がプロレスファンであることを最大限に利用しよう
と思う。 


 翻って、私は物心ついたときからプロレスに熱中し、多くの時間をテレビのプロレ
ス放送やプロレス雑誌で過ごして来た。小・中・高校とアントニオ猪木全盛の頃、金
曜夜八時にはテレビの前で正座をして、テレビ朝日の「ワールドプロレスリング」の
放送を心待ちしたものだった。大学入学による上京を期に、ライブのプロレス観戦に
できるだけ足を運び、時には年50以上の観戦をしていたものである。ちなみに東京
での初観戦は「アントニオ猪木対ブルーザー・ブロディ」初対決で、その帰り際’プ
ロレスの味方’作家村松友視と握手したのはちょっとした思い出だ。

また、ちょっとしたプロレスファンなら誰もが日常的習慣とすることだが、毎日「東
京スポーツ」を駅売店で購入し、その他の記事には目もくれず、プロレス記事だけは
隅から隅まで目を通し、そのちょっとした動向をデータとして頭にインプットし、週
刊誌発売日には「週間プロレス」「週間ファイト」「週間ゴング」から更なるデータ
をインプットし、自分なりのプロレス論を構築し、そしてプロレスファンの友人とプ
ロレスについて語り合う。どうしても週刊誌発売日が待ちきれなくて、わざわざ前日
発売する書店やプロレスショップに足を運んだりする。

このようにプロレスは私にとって、日常的な関心事である。また私自身は大学のプロ
レス同好会、アマチュアプロレス、ファンクラブなどの組織化されたファン社会に深
く立ち入ることはなかったが、彼らとプロレスについて議論したり、意見を交換した
りしたものだった。観戦時偶然臨席となった人物と試合終了後、意気投合し深夜まで
語り合ったり、あるいはプロレス観の違いで激論になってしまうこともあった。また
理解が深まることによって、プロレスに失望し、挫折しかかることが幾度となく訪れ
た。そのたびに新しい発見や動向に勇気づけられて、プロレスファンとしての自我を
取り戻し、プロレスファンとしての自我は鍛えられてきた。この経験もまたプロレス
ファンが共有する’通過儀礼’のようなものである。そして今現在、当サイトに私自
身の言説を載せている。


 このような経験がプロレスというジャンルへの確固たる信念を作り出していく。し
かしそれでも現在でも揺れ動く可能性を持っており、なおかつこの可能性に対して自
覚的である。私はこのような私自身の生活史の中で、ファンの批評精神を身につけつ
つ、それを発見し、ファンによる解釈の喜びを理解し、この文化的慣習の力点を把握
するようになってきた。また’一般社会’から見たプロレスへの蔑視や無理解を強く
意識するようになった。プロレスというジャンルが世間には正当に評価されていない。
その事実は、プロレスファンである私自身を刺激して、どうしても問わねばならない
事柄なのである。この一社会的存在としての私の実感こそが、問題意識の諸端なので
ある。


 以上のファンとしての関心とは異なる次元で当研究に関する関心がある。それは大
学院での研究活動において、メディア研究、コミュニケーション論、文化研究への関
心へと導かれてきたことがあげられる。このようなディシプリンとの有意義な接触は、
現代社会の複雑多様な文化現象の理解のための知的好奇心を養ってくれた。多メディ
ア状況やコミュニケーション形式の変容、そしてサブカルチャーあるいはファン文化
との関係を問題視する社会学的関心は、プロレスというジャンルによって、私の中で
結合した。従来のプロレス研究に触れ、生じた疑問が特にカルチュラル・スタディズ
の理論が解消してくれるのではないかと感じるようになった。


 私のファンとしてのポピュラーカルチャーへのアクセスは新しい洞察を導いてくれ
るであろうし、文化理解における偏狭な境界線を持つカテゴリーやアカデミズムにお
ける批判主義的仮説から解放してくれるであろう。ファンである私自身が、ファンカ
ルチャーに関する日常的実践を白日の下にさらすことは、対象を観察する上で明らか
にある特定のイデオロギー的立場にあることを示している。文化を記述しようとする
時、このような立場にあるということは、従来の社会科学においてひとつの挑戦であ
る。これからファンカルチャーに関して論じていく上で、私は二つの立場を持つこと
になる。

つまりそれは一研究者を志向する者として、そして一方ファンとしてである。

前者に関しては、メディア論、コミュニケーション論など社会学を中心としたアカデ
ミックな領域において、ポピュラーカルチャーに関する確固とした理論化を試みる者
として。それはもちろん、カルチュラル・スタディズを含めた文化理論と深い関係に
ある。また批判的かつ自伝的なエスノグラフィー=民族誌を試みる者としてである。

後者は、ファン共同体の特定の知識や伝統を保持するものとして。この二つのレベル
での理解の間を運動するものとして私の試行=思考が成立することになる。両者が必
ずしも相反する性格を持つというわけではなく、完全な一致を見るわけではない。し
かしながら、この両者間の知的往復運動が新しい文化理論の構築に結びついていくは
ずである。


 『プロレスファン・カルチャー』(仮題)執筆への動機は微妙なもので、先に述べ
たようにファンとしての立場とアカデミズムの立場にまたがる二重の役割に関わって
いる。大衆文化やファンカルチャーに関わる心理学、社会心理学、社会学などにおけ
るアカデミックな議論には、ファンをスキャンダラスな存在として描き出すものが多
く、一ファンとして違和感を抱いていた。このサブカルチャーの理解にとって誤解を
導くものも多い。ファンとのコミュニケーションの中で、このような誤った概念化が
実際上の影響を持ち、世間の評価が敵対的なものとなることが多いのだ。プロレス自
体がアカデミックな議論の俎上に上がることは少ないとはいえ、ファンのステレオタ
イプ的な理解は一般的なものとして流通し、ファンであることに自己のアイデンティ
ティを意識化が為される瞬間、なにがしかの圧迫感を与えるものだ。そのような社会
的状況への’異議申し立ての科学’として戦略的な振る舞いを志向しようとするもの
である。


3 プロレスの社会的地位に関する一事例から

 次に引用した記事は、元柔道世界チャンピオンの小川直也がプロレス界に転向した
際のコラム評である。


 どんな格闘技が好きかで、その人の性格がある程度わかるような気がする。以下は
 独断と偏見。例えば相撲が好きな人は分析的で解説好き。柔道ファンはきちょうめ
 んで議論をつめるタイプ。プロレスを好む人は楽天的で発想がユニーク……。何や
 ら血液型の話のようになってしまった。街頭テレビに群がってはじめてプロレスを
 みた世代としては、格闘技がこれほど多様 化するとは思ってもみなかった。それ
 だけ日本人が迷っているのかも知れない。(日本経済新聞[1997'3'8])


柔道という制度的地位を確保しているジャンルからの転向とは、プロレスというジャ
ンルが一般社会と交差する瞬間であり、その時一般社会のプロレス評価が顕在化する
ことは多い。また、日本経済新聞における言説における評価によって、二重に制度的
なものによって包囲されている。このコラムは、明るいトーンによる冗談めかした言
説であるが、そこにプロレス蔑視とプロレスファンへの侮りを読みとることが出来る。

プロレスファンを「楽天的」であるとラベリングし、単純な社会反映論によって説明
可能な一種のイデオロギー的統制に無意識的に寄与しようとしている
。イデオロギー
的統制からのすり抜け、あるいは鋭敏な批判精神を持つ部分があるからこそ、プロレ
スというジャンルの喜びがあるのではないだろうか。まさにイデオロギー的統制とは、
他者へのラベリングである。


 よって、ファンの社会的経験をプロレスに反映できるだけではなく、そのベクトル
が逆となることさえある。プロレスというジャンルによって勝ち得た社会的経験が、
支配的文化、制度への疑問や批評精神を生み出すことさえあるものだ。この記事によっ
て、ラベリングする力を持つ制度的な知との’記号論的闘争’の場が立ち上がってい
る。


 次に上げるのは、小川直也のプロレスデビューの朝日新聞評である。


 デビューは四月十二日の橋本真也戦。小川は「徹底的にたたきのめし、殺してやる
 といった闘いがしたい」と語るなど言動はすっかりプロレス選手。コスチュームに
 ついては「私は柔道なので、柔道着を着てやります。(朝日新聞[1997'3'8])


朝日新聞という制度的な知によるプロレス評に対して、プロレス専門紙では次のよう
に批評する。


 スポーツ面の”囲み記事”といっても、一般紙には一般紙の論調というものがある
のだ ろう。朝日新聞は、記者会見における小川のコメントを「『殺してやる、といっ
た闘い がしたい』と語るなど、言動はすっかりプロレス選手」(原文そのまま)と
分析。プロ レスというジャンルに対する一般マスコミ、あるいは一般社会の認識、
理解の度合いを それとなく示唆する内容になっていた。どう記事を担当した朝日新
聞の記者は”殺して やる”というコメントをまぎれもなく”プロレス選手の言動”
ととらえているのだ。
 (週刊プロレスNo.783)


専門週刊誌における、一般社会のプロレス認識のあり方への批評は、このジャンル内
において、一般社会への批評が制度化していることを表している。これは一事例にす
ぎないが、制度、あるいは支配的文化における価値規範への抵抗や批評精神は、プロ
レスというジャンルの’伝統的’な慣習とさえいえる。


 このような現象の理解にとって、カルチュラル・スタディズの概念や理論、あるい
は思想を中心としたアカデミックな知識を利用し、ファンやファン社会が一般的に認
知されている社会的アイデンティティに異議申し立てをし、再定義すること、そして
ファンカルチャーのステレオタイプ的認知への挑戦が可能であるはずだ。その作業が
通常隠されているファンカルチャーの文化的豊かさに気づく機会を提供でき、プロレ
ス以外のファンカルチャー領域の文化的豊かさへと連なるものと考えられるだろう。

ある特定領域における特殊性を主張しながらも、かつ一般性・普遍性に開かれていく
であろう議論が展開できるはずである。


 アカデミズムの立場から見たとき、ファンとして経験してきた社会的実践の中にあ
る特性や複雑な知識体系は重要視されていない。その状況に違和感を覚えたものだ。

確かに文化は人々にとって、抑圧的に作用するものとして実感される。しかし、特に
欧米から’輸入’された大衆文化論やマスコミュニケーション論における「受け手」
像は、その受動的、非理性的、否定的な性格を持つものとして描かれ、我々の日常的
振る舞いを根こそぎ否定されているかのようであった。

その反面新しいメディア状況の消費者として能動的な’ポストモダン’的受け手像が
議論されたり、’オタク’文化を肯定的に評価する議論も見られた。また昨今のカル
チュラル・スタディズへの注目が、受け手像の見直しを提起してはいる。しかしポピ
ュラーテクスト内に我々が見いだす快楽は、イデオロギー上の批判にさらされ、否定
的評価へと結びつけられていくことがやはり多い。それは日本における文化研究の特
徴があげられるとしても。現在のメディア研究への着目と発達の中で、アカデミズム
の立場からファンカルチャーを学ぶことと、ファンカルチャーからアカデミズムが学
ぶことも多い。

この二つの観点の交錯と融合から『プロレスファン・カルチャー』は構想され、ファ
ンのファンによるファンためのテクスト
であり、尚かつアカデミズムの議論上のテク
ストとして志向されるだろう。
 

4 次回の報告に向けて
 
 以上私が構想している『プロレスファン・カルチャー』(仮題)の問題意識の素描
ですが、次回の報告では既存のアカデミックなプロレス論を要約し、コメントしてい
こうと考えています。そうすることによって、この構想が既存のアカデミックな体系
下でどのような問題と接合でき、あるいは体系の不十分な点を発見できるからです。

またこのサイトに立ち寄った方に、プロレスのアカデミックな議論を紹介するという
機能を果たせるのではないかと考えました。そのような認識において、みなさんの意
見が聞けるとすれば、「ファンであることと研究者であること」という問題意識に循
環的構造が現実的に生み出され、あたかも実体的に存在しているかのようなファンと
研究者の境界線が揺らぐとすれば、私にとっても’ちょっとした’喜びとなります。


 次回報告予定はプロレスファンにもよく知られているプロレス論の古典
  ”ロラン・バルト、篠沢秀夫訳1967、「レッスルする世界」『神話作用』、
現代思想社”を予定しています。


(第1回完)

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