第48回 プロレス格闘技をみる「メガネ」(前半)
■投稿日時:2004年8月24日
■書き手:Drマサ


プロレス格闘技をみる「メガネ」(前半)


 このコラムは、2004年7月18日に開かれた「プロレス格闘技シンポジウム」での私の講演内容を「書き言葉」に”翻訳”する作業となっている。

 講演内容を特定するきっかけ、つまり問題意識は、昨年度末の同シンポジウムで、印象に残っている2つの事柄にある。まず1つは、参加者の情報へ欲求が過剰なのではないかと感じた点があげられる。それは大晦日興業戦争のただ中、引き抜きをめぐる情報が錯綜していたとの背景があったがゆえでもある。もちろん、非難しているのではない。かくいう私も、同じ穴のむじななのである。しかしながら、一歩引いて見てみるとしよう。例えば、ミルコ・クロコップが参戦するか否かをシンポジウムで知ったとしても、数日後には事実は明らかにもなる。とすれば、この数日間の違いというものに、どれほど大きな意味があるのかを疑問とすることもできる。これは、情報に対する態度の問題ということがいえる。


 2つめは、競技という枠組みを重視し評価する意見にジェネレーション・ギャップを感じたことである。どういうことかというと、二次会の席であったのだが、ある参加者がPRIDEでの「ドン・フライ対高山善廣」を評価しないとの意見を述べていたことに発する。その理由は、競技が勝利を目的とする以上、2人のど突き合いは勝利の可能性をあえて自ら低くする試合模様であって、非合理的であるとの指摘である。これは、確かに一理ある。もちろん、すでにそのような意見があることも既知ではある。しかし、プロレスやUWFを通して、このジャンルを愛好し理解してきた私にとっては、どこか違和感のある意見でもある。これは、競技とは何であるのかという問題と深くかかわっている。


 この2つの事柄はそれぞれ別次元の問題ではある。しかしながら、実のところ、情報は包括的な概念でもある。そこで、両者を結びつけるという操作を行うことによって、見えてくることがあるのではないかというのが、シンポジウムの講演内容であり、このコラムの骨子である。つまり、我々がプロレス格闘技とどのような関係を構築しているのか、あるいはすることができるのかが少なからず見えてくるのではないかという希望的観測からの試みである。そこで、情報と競技という概念を解きほぐし、そこで、競技という情報への態度を消費として捉え、考察していくことにする。


  先に競技について検討する。それに関しては、グートマンのスポーツ近代化論を参照するとよい。グートマンのスポーツ近代化論はウェーバーを下敷きにしているが、近代スポーツを明確に特徴づける要因を整理している。一応確認しておくが、スポーツはいつの時代においても存在しているといってよいが、時代や社会によって異なる様相をもっている。スポーツ近代化論とは、近代特有のスポーツの様相を浮き彫りにしようという試みである。現在、われわれの競技観は決して普遍的なものではなく、時代によって変容しているのであり、さらにいえば、近代の競技観はある種の”奇形”と考えられなくもない。  グートマンは近代スポーツを特徴づける要因を「世俗化」「競争の機会と条件の平等化」「役割の専門家」「合理化」「官僚的組織化」「数量化」「記録万能主義」と整理している。


 「世俗化」とはスポーツが宗教的儀礼から離脱し独自の領域として自律してきたことを指す。例えば、学校体育が日本人の規律を目的にするとか、プロレスが経済的利益を目的にするなど宗教色は薄い。

 「競争の機会と条件の平等化」とは万人が競争の機会をもち参加者の個人的能力以外は競争の条件が平等であること。この要因を指標とすれば、PRIDEで吉田秀彦のみが柔道着を着用してトーナメントに参加することが許されている状況は、近代スポーツからは逸脱していることになる。


 「役割の専門家」は当該スポーツの体系にそって競技者や競技への参加者の役割が決定される。例えば、昔の野球は観客が飛び入りで試合に出ることが当たり前であった。カーニバルのプロレスで観客から挑戦者を募るというのも、ありきたりの慣習であったと考えられる。つまり、近代化以前は競技者とそのまわりにいる参加者の境界が曖昧であった。


 「合理化」はルールの普遍化・明文化に象徴される。そもそもルールは慣習でしかなかった。例えば、フランク・ゴッチの時代のプロレスはそもそも何が反則なのか明文化されていないため、ゴッチはその間隙をついて反則すれすれの攻撃を常套手段としていたようである。そのためか、ルー・テーズはドレッシング・ルームでの評価として、ゴッチをエド・ストラングラー・ルイスのレベルではなかったと評価する。これは慣習法ゆえの評価である。


 近代スポーツにおいては、明文化されたルールのもと、平等な条件で試合が行われる。これが前提である。それゆえ、結果がすべてなのである。PRIDEでの「山本宜久対マーク・ケアー」戦でアクシデントによって山本が勝利したように見えたとしても、近代スポーツにおける競技観からすれば、結果がすべてであり、山本が強いことが証明されたことになる。ちなみに、競技者とオーディエンス両者にとって、競技性が最も徹底されているのがオリンピックである。オリンピックであるならば、アクシデントの勝利であろうが、偶然の産物としての勝利であろうが、勝利は勝利として揺るぎはしないし、イコール賞賛に値する。山本の勝利に対して否定的見解があったのは、評価の規範として、純粋に競技性を適応することができなかったからと考えることができるだろう。仮に「ガチバカ」が山本の勝利を評価しないとすれば、彼は競技という概念を捉え損なっている。あるいは、異なる規範を用いているのである。


 「官僚的組織化」はIOCと各国のオリンピック委員会の協力体制によく現れている。サッカーもしかりである。いわゆる管轄上の紛争や対立はあるが、各競技上の管理運営を官僚制が果たしていることを指している。現在、総合格闘技では競技として確立する努力がなされているのかもしれないが、「官僚的組織化」という観点は抜け落ちている。この問題は、ルールの整備以上に競技の確立としては制度的な問題であるがゆえに、対外的には重要なはずである。


 「数量化」「記録万能主義」は競技を統計的な数字によって評価する。記録は時間空間を超越するゆえ、競争の目標を具体化する。特に記録は塗り替えられるゆえ、近代的な進歩主義思想と親和的である。そのため、記録の追求、勝利の絶対化あるいは神聖視が生じる。その論理は明文化されたルールの中で勝利を唯一無二の目的とした合理的な戦略が正しいという信念体系を生み出すことにもつながる。その意味でいえば、「ドン・フライ対高山善廣」は、勝利を目指す合理的な戦略により構成された試合ではない。顔面をど突き合うよりも、打撃の防御をするべきであるし、戦局を変化させるためにタックルにいくなど、まさに合理的な選択肢がいくつかあったはずである。


 しかしながら、「ドン・フライ対高山善廣」はその非合理的な性格から批判されるものだろうか。われわれが2人の闘いになぜ魅了され戦慄を覚えたのかといえば、まさにその非合理性ゆえではなかったろうか。そもそも、勝利を絶対化神聖視し、その目的のために合理的な戦略を採るという考え方自体が、近代における特殊な信念体系ではないだろうか。このような信念体系はわれわれの無意識的なものの見方となっている。あるいは、それゆえ解釈枠組みとして機能し、規範化しているのではないか。われわれはそのような「メガネ」をかけて、ものを見てしまっているのである。この合理的なものを規範化する「メガネ」は後に説明する情報概念における「行動情報」の次元にある。つまり、知らず知らずのうちに、「メガネ」はわれわれがプロレス格闘技をみるための「行動をデザイン設計」しているのである。われわれは囚われたものの見方をしているといえないだろうか。  明文化されたルールの中で、勝利を唯一無二の目的とした合理的な戦略を採るために徹底的に訓練され、その戦略を無意識的に実行する身体とは、競技的身体とでも名付けることができるものだろう。理念型としての競技的身体であるならば、勝利に対して目的合理的な行為以外を排除する。それゆえ、競技的身体はそれが徹底されている場合、自己と対象が道具的な関係のなかで客体化、有用化としてのみ機能する。また、経済的な身体でもある。このような視角からすれば、理念化された競技的身体は個体という小さなシステムに閉じこめられ、逆説的にも自己を疎外されたものとしてしまう。つまり、理念型としての競技的身体は世界と自己との関係を「内―外」「主体―客体」「目的―手段」と二分した認識の地平に存在する。同様、みる側もまたこの認識の地平、つまり競技的身体の「メガネ」を通しているのである。


 競技的身体を以上のような性格のものと捉えるなら、「ドン・フライ対高山善廣」における身体性とは競技的身体から逸脱していた、あるいは超越していたと考えることができる。とすれば、この試合にわれを忘れ感動したものは、競技的身体の「メガネ」をはずしていたことになる。あるいは、近代スポーツにおける競技性を信奉するものが感動したとするならば、「メガネ」がずれてしまう経験であったと考えられる。


 次回はこの「メガネ」のあり方を情報という概念に照らして考察し、プロレス格闘技を見る経験とは何かという問題にもう少しばかり踏み込むことにする。

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