第四十七回 「プロレス格闘技シンポジウム」観戦記(後半)
■投稿日時:2004年8月12日
■書き手:Drマサ


第3試合 Poet「プロレスはいつから「プロレス」か?PART2」

 前回のシンポジウムで、Poetさんは国際プロレス時代のゴッチ対ロビンソン(1971)から、ルー・テーズのいくつかの試合、そして「どこから探してくるの?」という感じのジム・ロンドス対ブロンコ・ナグルスキー(1934)と、どれも貴重な映像を提供し解説してくれた。ただ、僕の記憶が正しければ、このビデオは流智美監修で市販されていたようにも思う。ちなみに、僕はロビンソンがバックドロップの体勢にはいって、タイミングをはぐらかし、ワンハンド・バックブリーカーにいくシーンが、Poetさんの名調子と共に、記憶に焼き付いている。というのは、「プロレス」というフォーマットの中で、なにがしか競い合いがあるのではないかと、僕の妄想を膨らませてくれる映像と思われたからだ。また、1934年のプロレスと現在のプロレスを比較することができたわけだが、1934年当時、すでにプロレスは「プロレス」であったと、具体的な映像からPoetさんは検証した。

 僕のようなプロレス関連の本を渉猟してきたマニアからすれば、1934年当時、すでにプロレスが「プロレス」であったことは知識のひとつだが、映像からのアプローチは具体性があり、それらの知識を検証していくことができるという点で、本当に興味深いものであった。

 そして、今回の講演である。表題にあるとおり、「プロレスはいつから「プロレス」か?」という疑問に対して、より古い映像から、再びのアプローチである。取り上げられた映像資料は以下の通り(協力Poetさん)。

 1 ルー・テーズ対タム・ライス(1948シカゴ or  1954ハリウッド?)
 2 ”ジャンピング”ジョー・サボルディ対マン・マウンティン・ディーン
(1933/11/11 MSGニューヨーク)
 3 エド”ストラングラー”ルイス対ディック・シカット
     (1932/6/9 MSGニューヨーク)
 4 ジョー・ステッカー対アル・キャドック(1920/1/30 MSGニューヨーク)


 プロレスがいつから競技ではなくなったのかとか、いつシュートからワークになったのか、あるいは、いつwrestlingからrasslingになったのかという問い。あるいは、いや、プロレスはもともとプロレであったなどと、このような問いへの解答は諸説入り乱れており、これといって決定的なものはないように思われる。
 その理由は、ひとつには事実を検証する証拠探しが困難なこと。例えば、すでに生き証人がほとんどいないなど。特にフランク・ゴッチ引退から1920年代のプロレスは、当時の他の娯楽産業との兼ね合いを含め、著しい変化を余儀なくされたはずであり、それらの変化の具体的な中身を浮き彫りにするのは難しいと思われる。講演の中で、Poetさんは映画史の年表を参照したが、その意図はより古いプロレスの映像が発掘される可能性を示唆していたんだと思う。と同時に、僕は娯楽産業の広がりにより、プロレスがどのような方向に進むべきかを模索せざるをえなかったことを暗示していたようにも思えた。ちなみに、1920年代といえば、映画産業としてのハリウッドがスター・システムを確立したころである。また、野球やボクシングなどの競技スポーツは「見る」娯楽として変容し確立していく時代である。

 ふたつめには、現在の競技観と18世紀後半から19世紀前半にかけての競技観に違いがあるため、競技か否かを判定する基準が曖昧にならざるをえないし、当時のルールは慣習法であったと考えられるから、今となっては、どんなルールで試合をしていたのかは正確には分からないという点があげられる。例えば、現在のアマレスはポイント制の導入などによりレスリングの質を変化させてきたが、そのため、当時のレスリングはマラソンのような性格であったのに比べ、現在のアマレスは短距離走のような性格になってしまい、競技性を変質させている。このような変質は、昔のレスリングに現代のレスリングの規範や見方を押しつけることにつながる。当然のことながら、認識のズレを問題視すべきなのである。

 何はともあれ、「プロレスはいつから「プロレス」か?」という問いは、プロレス・マニアなら、中心となる関心事のひとつである。1の映像は僕の勘では1954年。とすれば、テーズは38歳、全盛期あるいは円熟期のもの。タム・ライスは「赤サソリ」の異名をもつが、何といっても、大山倍達と死闘の末、三角跳びでKOされた人物ということで知られている。もちろん、愛すべき梶原一騎ワールドでの出来事である。Poetさんは1の映像と梶原一騎ワールドを絡めて、笑いを誘う。1の試合自体はいわゆるストロング・スタイルのプロレスで、猪木はゴッチよりもテーズのスタイルを継承しているという指摘が印象に残っている。

 2のジョー・サヴォルディはドロップキックの元祖、マン・マウンティン・ディーンは300ポンドの巨漢にあごひげキャラが受けたレスラーで、レスラー引退後は映画でも活躍している。Poetさんはこの映像、つまり1933年、すでに「プロレス」の様式が成立していると解説する。確かに、いわゆる競技レスリングではありえない動きによって構成された試合であるし、ドロップキックはその最たる例でもある。また、レスラーのキャラクターという点に着目すると、「プロレス」の様式を発見することができる。競技であるとしても、他のプロスポーツ同様、当のレスラーの地域性や民族性、あるいは容姿が人気に影響を与えるのは当然のことではある。しかしながら、マン・マウンティン・ディーンをみると、そのキャラクターがもつ記号性には明らかな誇張が施されている。つまり、人為的な意図を感じざるをえないものとなっている。もちろん、カーニバルという祝祭的な娯楽との歴史的つながりからすれば、このような記号の誇張は伝統と主張することもできるが。  3の試合は1・2と比較すれば、競技として呈示されているのが理解できる。しかしながら、ルイスの攻撃模様はヘッドロックという競技技術を変形した「プロレス」的なパフォーマンス・ホールドを中心として構成されるている。もちろん対戦相手の技量や状況によって、ヘッドロックは競技技術としても有効ではあるが、チョークを変形したパフォーマンス・ホールドとしての色合いをもっている。これは逆説的に、競技技術との連続性をもつゆえに、競技的なリアリティを保持することができる。それゆえ、競技として呈示されていると感じることができるのである。

 また、Poetさんが指摘していたように、この試合では、後半からフィニッシュにかけ、試合展開が早くなり、観衆の興奮を誘うような構成になっており、まさに「プロレス」のフォーマットが成立している。つまり、この試合は基本的には3部構成をなしている。最初は競技としてのレスリング、次はヘッドロックなど競技性を損なわないように見えるパフォーマンス・ホールドをめぐる攻防、最後は展開の早い攻防、つまりハイスポットからのフィニッシュである。この構成は、新日本プロレスのジャパニーズ・クラッシクとでも名付けられるような試合を思い出させる。つまり、グラウンドで手・足・首を取り合う静かな展開からはじまり、攻守を入れ替えながら試合を展開し、いくつかの大技の攻防からフィニッシュになだれ込むという構成である。とすれば、1932年のこの試合は現代のプロレスと試合構成という観点からすると、基本的に同一の視座にある。つまり、ワーク試合の基本構造を見いだすことができる。より一般的な言葉にすれば、ドラマ化が施されているのである。

 4は有名な世界タイトルマッチで、ステッカーがキャドックから世界タイトルを奪った試合である。今回の講演のハイライトである。Poetさんも触れていたと思うのだが、1920年という時代状況について触れておこう。そもそも、1911年のフランク・ゴッチ対ジョージ・ハッケンシュミット戦後、さまざまな裏話がメディアをにぎわせ、プロレスの信用に傷が付いていた。しかしながら、アメリカ最初のスーパースターといわれるゴッチのカリスマによって、どうにか名目は保っていたという背景がある。ちなみに、この試合はハッケンシュミットが試合前怪我をする。しかし、延期することはできず、ハッケンシュミットの面子を保つべく八百長を画策するのだが、ゴッチはその取り決め自体をダブルクロスする。しかも、ハッケンシュミットの怪我はゴッチが秘密裏に送ったスパーリング・パートナー(色々な説があるようだが、アド・サンテルが真犯人)による陰謀である。  このような時代状況の中、1915年、ステッカーがゴッチの愛弟子チャーリー・カトラーを敗り世界チャンピオンとなる。これは大方の予想を裏切る試合結果であった。1917年、ステッカーはキャドックに破れ王座を明け渡しているが、この試合は有名な八百長試合といわれ、メディアから厳しい非難を受け、プロレスはその人気を失ってしまった。同時に、賭けの対象としての信用を失っていく。そして、1920年のこの試合である。この試合が賭けの対象になっていたのかどうかは分からない。このように八百長が横行していた時代ではあるが、そもそもプロレスに限ったことではない。ボクシングもしかりである。

 4の試合自体は、見た目において、慣習的な競技としてのレスリングである。3の試合のような特定形式の試合構成をもつものではないし、そのため、試合のドラマ化を見いだすことは難しい。フィニッシュ・シーンはステッカーのハーフ・ネルソン&トップ・シザーズからのピンフォールである。ちなみにこの時のフォールは、映像が鮮明ではなく見ずらい部分もあったが、3カウントではなく1カウントである。Poetさんは「workではないが、fixed fightかもしれない」と解釈していたのだが、それは前述の時代背景を考慮したため、慎重な発言になったようだ。僕の知る限り、1917年の試合は”怪しい”と指摘されることはあるが、1920年の試合に関しては、その様な”怪しい”との指摘はないように思われる。ということで、僕は普通の競技試合ととりあえす解釈しておく。ちなみに、某有名人と僕の会話をダイジェストしておこう。

 某「ワークやな」
 僕「その理由は?」
 某「フィニッシュで、レフリーが顔を近づけ、指示してる」
 僕「なるほど。でも、当時の慣習なら、お前負けてるのと一緒だから、そろそろあきめ  ろよ位はいうって感じでしょ?」
 某「そういうことやな」


この解釈が正しいか否かは証明しようもないのだが、こうなると、競技という概念とワークという概念が一致してしまうことになり、先に挙げた競技概念の問題へと帰着するように思われる。おそらく、「プロレスはいつから「プロレス」か?」という問いにデジタルな解答はないようである。

 ところで、Poetさんは「フランク・ゴッチの試合も、どこかに眠っているかも」と希望を持って語っていたが、それは僕も同じ思いである。そうすれば、今回の1920年の映像との間を想像してつなぎ合わせ、楽しむことができる。そんな機会が訪れるかどうかは、人任せにして、勝手に心待ちにしておきます。とにかく、Poetさんに感謝。


 第4試合 Poet&グリフォン&ドラゴンヘッド
    「青い目のケンシロウ、秋葉原に降臨〜2002年のジョシュ・バーネット伝説」

 長くなってしまったので、ここからは手短に。この演目では、元UFCヘビー級チャンピオン、現パンクラス無差別級チャンピオンのジョシュ・バーネットと一般ファン?との間で起こった、日本が誇るオタク文化を媒介とした数奇?な出会いの物語が披露された。UGフォーラムの掲示板で、ドラゴンヘッドさんやグリフォンさんの書き込みに、いちいち反応してくる我らがジョシュ。ドラゴンヘッドさんがマリオ・スペーヒーやノゲイラなどの格闘家とウルトラ怪獣のコラージュをのせれば、ジョシュは即座にいちいちオタクな反応を見せる。それにしても、チャンピオンという地位とこの反応の落差になぜか頬がゆるまる。

 オタクはひきこもりと違い、コミュニケーション能力が高いという説があるが、それははからずも実証される?海を越え、ジョシュと上記3名はオタクの聖地、趣都・秋葉原に繰り出すまでに至るのである。あのラジオ会館をぶらつくジョシュ。フィギアを見るジョシュ。ガンダムに興味津々のジョシュ。ガチャガチャをするジョシュ。電子空間におけるコミュニケーションは、ついに日本とアメリカという現実的な地理上の距離を乗り越えたコミュニケーションに発展したのである(大袈裟ですいません)。

 UFCとはギャラでトラブルとなり離脱したとの話も聞いているが、3人の印象によると、ジョシュはかなりいい人らしいし、この業界では珍しいくらい社会性をもっているようである。それは参加者も感じたのではないだろうか。3人の講演を総括するならば、プロレスラーの人間性に触れられるという点で、参加者の「ヒューマン・インタレスト」を充分満足させてくれたと思う。


 第5試合 メモ8・品川シュート漫才
     「総合格闘技とプロレスの逆襲」およびフリートーク

 大晦日興業戦争を前にした前回、いろいろと業界裏事情を語ってくれたメモ8さんと品川さん、今回も大サービスである。ちなみに、前回のシンポジウムでは、試合をする当の本人が知るより先に、シンポジウム参加者の方が先に知ってしまうというミラクルまであった。どうなってるんでしょう、この業界?
 今回の話の内容に関しては、シンポジウム参加者だけの特典ということで、このコラムでは割愛させていただく。あしからず。もちろん、参加者大満足の裏情報満載であった。それにしても、皆さん、裏情報というか、「実話誌」的ネタがお好きなようで。  

 総括しよう。とにかく、プロレス格闘技をテーマとして、このようなシンポジウムを行っているだけで稀少価値があると思う。また、いわゆるインターネット上のホームページを媒介としたオフ会レベルを乗り越えた企画になっていると思われるし、その意味で、ファンが主体的に執り行うコンベンションとの様相を呈している。関西では、現代風俗研究会の部会として、岡村正史氏を中心とした「プロレス文化研究会」があり、独自の活動を行っている。彼らの活動は「プロレス文化を研究する」と標榜している。それと比較すれば、「プロレス格闘技シンポジウム」は発表内容も「研究」という枠組みから自由であるし、よりファン中心、草の根的であるという特徴を持っているのではないだろうか。もちろん、比較する必要はなく、独自の活動を行えばいいだけではあるのだが。

 色々と反省点もある。今後、新企画を立てたり、運営方法の改善など努力が必要なのはいうまでもないところである。ちなみに、僕個人の一番の反省点は、場所を提供した立場として、マイクの事前チェックをしていなかったこと。お聞き苦しい点があり、申し訳ありませんでした。品川さんがマイクがおかしいという素振りを見せるたびに、僕が非難されているような気がして・・・。
 ところで、3回目の「プロレス格闘技シンポジウム」はあるのだろうか?


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