第四回 今、マット界では何が起こっているのか?(後編)
■投稿日時:2001年8月17日
■書き手:田中正志

今、なぜまっとうなジャーナリズムが必要なのか?


 聖域なき構造改革には、必ず抵抗勢力が過去の慣習を守ろうとする。ニューヨーク・タイムズ紙は、「日本の政治家たちはまるでプロレスラーのようだ」と報道した。虚々実々の密室政治は、政治記者クラブ制度の弊害と合わせて、国民に真実を伝えてこなかったのだ。だから改革が遅れ、ますます不況になる悪循環を繰り返している。既得権こそが敵だったのである!

 例えば8月6日月曜日、たまたま昼間にチャンネルを回していたら、千葉テレビでWCWのナイトロ中継日本語版をやっていた。ちなみに私は、3ケ月前に合計17年間のアメリカ生活に別れを告げて東京に住み始めたばかりだが、この日放送された昨年9月25日のロングアイランド(NY)大会は、もちろんリアルタイムで楽しんでいる。しかも、ブッカー(試合の勝敗や時間を決め、インタビューの台本も書く現場の最高責任者)であるビンス・ルッソー(もちろんレスラーではなく、アスリートですらない)が、出身地ということで、自ら人気黒人選手のブッカーTと金網戦のメインイベントをやってしまった、WCW転落劇を象徴する重要な回でもあった。だから中身を鮮明に覚えていたのである。
 しかし、そこで私が再度見た日本語版は、ちっともオリジナル放送のエッセンスを伝えてない酷い内容だった。いや、日本での放送が一年遅れるのもしょうがないし、一時間の短縮版にカットされるのも仕方ない。「日本語実況になってる分だけありがたい」と、思うべきなのには異論はないし、各種の制約があるのも当然だろう。だけど、どうせマニア相手だし、情報として後日談まで調べればわかるのだから、もう少し勉強してから編集すべきなのだ。

 アメプロにケーフェーのタブーがなくなったとされるのは、89年にあった2つの裁判において、団体側がプロレスの仕組みを公開してからである。しかし、ルッソーがここ数年でやったタブーの破り方は、そんな足掛け20年も現地でプロレス番組と報道の進化過程を見てきた私でさえ、驚きの連続だった。なぜならルッソーは、番組の中で自らのブッカーという立場を大衆向きに説明してしまい、「俺様こそが、どっちが勝つのか決めるんだ!」ってのを、堂々とギャグにして何度も何度もしゃべっていたからである。
 もちろん日本のメジャー団体は、未だに「プロレスは全試合ショーである」ことすらカミングアウトしてない国なのだから、夢を持ってる視聴者に配慮して、という説明が成り立たなくもない。だけどアメリカでもその点は議論されたのだが、「わからない層には、そもそもルッソーのギャグが何のことだか理解できないし、逆に大人のファンを喜ばすのだから構わない」というコンセンサスに集約されてしまった。それがWWFとWCWが裏番組で激突した「月曜生戦争」の大きな売りでもあったのだ。彼らが発見した高視聴率獲得の必勝パターンとは、仕組みをわかって楽しんでいるインテリ層でも中毒にさせるし、舞台裏なんかどうでもよい、一般大衆や子供たちが観ても、単純に面白い、というプロレス番組作りにあったのだ。

 この日、スコット・スタイナーが台本を無視して、勝手な会社批判演説をやらかしたのだが、その部分は未放送。もっともPPVでキティー嬢が乳首を見せた時、「あれはアクシデントだった」がWWF側の公式見解で、だから現地での再放送版ではすでにカットされていたし、日本語版でも乳首は見えなかったと聞いている。問題になった演説部分は、そもそも削除されて日本にビデオが発送されたのかも知れない。しかし、もしそうなら、配給会社は「日本のマニアはレベルが高いし、情報も良く知ってる」と抗議して、再度オリジナル版を送らせるべきなのだ。あるいはキティーちゃんの回に関しては、「日本は放送コードが緩いから、乳首は構わない」とメールを送るべきなのだ。なぜならスコットの問題発言こそが、オリジナル版のハイライトだったからである。
 あるいは前週のおさらい映像で、グラジエーターの名前でFMWで活躍していたマイク・アッサムが、バンピーロ選手を場外の机にパワーボムで投げ捨てるシーンが再現された。それを受けて、バンピーロの仲間のICP(ロックバンドでもある)が演説するシーンが放送されていたが、その攻撃でバンピーロが大ケガをして、長期欠場を余儀なくされたマジな事件のことを、日本語実況は触れようとしなかった。これではICPが怒り狂ってるシュート発言の意味が、さっぱり視聴者には伝わってない。

 たまたま観たWCWナイトロの日本語版を、業界が成熟してない悲惨な現状の具体例として少し詳しく紹介してみた。もちろん私が一番心配しているのは、もうすぐようやく日本語版が公開される(編集者:8月11日から公開。本稿執筆時には日本未公開。)、シュート活字の集大成映画「ビヨンド・ザ・マット」である。試合前の打ち合わせの現場をカメラが捕らえているし、前出のルッソーがWWFのブッカーだった時期の撮影なので、彼が選手に細かくスポット(振付と演技)を指示している場面も冒頭に出てくる。ところが日本は、すでにキャンペーンの段階から、理解のない担当者が見当ハズレのプロモーションを展開していて不安は募るばかり。更には、サムライTVのS-Arenaにおける菊地孝氏の論評には笑うしかない。「アレはアメリカのプロレスの話であって、日本のプロレスはああじゃない」と、公然とおっしゃられたからだ。

 ファンタジーとしての「活字プロレス」を守る、秘密結社としての業界の掟(ケーフェー)を守る、というオールド・スクール出身者の態度は、現実問題としてマット界をドン底のまま、一部のマニアだけを対象にした商売のままに追いやっている。わたしたちが考えねばならないのは、新しい大衆ファン層の掘り起こしではなかったのか?

 新規の女性客で賑わっているウルティモ・ドラゴン校長率いる闘龍門は、「わざと負けてやった!」発言とか、「両リン推進委員会」など、アメプロ式の危ないギャグを効果的に散りばめている。わかって楽しんでいる大人のファンをもひきつけているわけだ。
 WWFの改革が裁判でプロレスの仕組みを公開したことが契機になったように、2001年、パンクラス尾崎社長と前田日明の裁判の席で、リングスがプロレスであったことが記録に残ってしまった。つまり、今更「真剣勝負です!」とケーフェーを守ったところで、公判記録にまで書かれてあることを否定しても、それはもはやメディアではないのだ。そして実際、週刊プロレス、週刊ゴングの部数は急激な転落を続けていて、コンビニに置かれなくなったという危機的状況の報告がアチコチで聞かれるようになった。

 シュート活字には敵が多い。しかし、時計の針は元には戻せないのだ。今、マット界で起こっていることを真剣に憂慮すれば、過去の価値観を守るよりも、前進と発展を求めて改革を断行せねばならないことに気づくハズである。前座の頃から応援してきた者の一人として、伊藤薫の敗北を「無駄死に」させたくはない。





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