第49回 プロレス格闘技をみる「メガネ」(後半)
■投稿日時:2004年8月31日
■書き手:Drマサ


プロレス格闘技をみる「メガネ」(後半)


 では、情報という概念を考察していこう。社会学者吉田民人は情報を3つの次元に分けている。1つめは「認識情報」である。いわゆる認知情報、知識としての情報である。例えば、高山はUWFI出身であるとか、フライは猪木の引退試合の対戦相手であるというような単純に真偽を問うことが可能な情報である。

 2つめは「行動情報」である。いわゆる指令情報、プログラムとしての情報であり、行動をデザイン設計するような情報である。例えば、「プロレスはブッカー頭で見るのが正しい」とか「K-1は競技化を徹底させるべきである」など、ある価値観に基づき、情報を享受する側の思考や行動に影響を与えたり、批判の契機ともなる情報である。

 3つめは「美としての情報」である。いわゆる充足情報、悦びとしての情報である。1・2の情報概念は、通常われわれが情報と考えているものとほぼ一致するが、3の情報概念は通常の情報概念とは異なっている。いわゆる情報という概念を乗り越えているような情報概念である。「美としての情報」はかけがえのないものの領域にある「至高の生」と関わっている。また、それゆえ具体的な言説としては表現し難い。1・2の情報概念が効用としての情報であり、目に見える情報であるとすれば、3の情報概念はそれ自体として直接的に悦びを与えるものであり、目に見えない情報である。


 1・2の情報概念は効用としての情報である。例えば、1はマニアックな知識や裏情報を求める心性と結びつき、その情報のマニアックな深度によって効用が決定される。それゆえ、1と2は地続きである。しかしながら、かけがえのないものの領域にある「美としての情報」は効用とは相いれないものである。


 おそらくは、1・2の情報概念は世界と自己に境界を建て、世界を「どのように」変えることができるのかという近代的意識と親和的なのではないだろうか。まさに「どのように」とは効用を問うている。つまり、対象が「何であるのか」を説明することを問題としない態度である。まさに、これは近代的態度であり、効用とは「どのように」という認識論的視座から測定し観測し予測することに他ならない。


 しかしながら、3の情報概念はそれとは異なる位相にある。そのため、1・2の情報にのみ囚われている場合、「美として」という位相を取り逃してしまうように思われる。私自身の見解としては、PRIDEでの「ドン・フライ対高山善廣」は「美としての情報」という位相に触れていたのではないかと考えている。


 競技性を信奉し、勝利に対し目的合理的な行動を是とする競技的身体の「メガネ」は、「行動情報」として機能している。つまり、特定の価値観に由来する見方であり、この価値観の枠組みの外側にあるものを排除してしまう可能性をもっている。とすれば、「ドン・フライ対高山善廣」を評価しない理由として、その競技性への疑義から発する意見は他の価値観を排除してしまうのである。


 では、どのような価値観を排除していると考えることができるだろうか。それは当然のことなのだが、競技的身体を是とする「行動情報」とは異なる「行動情報」を排除している。最もわかりやすいのは興業論といわれる考えであろう。プロレス格闘技を論じる定番として、勝負論と興業論という2つの枠組みがよく見受けられる。この2つは矛盾する論理をもっており、勝負論を徹底させれば、興業としての面白さが失われるなどと定番化された議論がなされる。その反対に、演出を誤った興業は勝負論を軽視するゆえ、社会的認知を受けづらいなどと考えられている。競技的身体の問題は、当然勝負論と親和的である。


 「ドン・フライ対高山善廣」における人々の感動は、興業論という枠組みから論じることによって理解されるものといえるだろうか。確かに、そのように考えることが必然的な感じもする。なぜなら、思い出してもらいたいのだが、「ドン・フライ対高山善廣」があったPRIDEの興業は、もし、この試合がなかった場合、決して人々に興奮や感動を与えることはなかったのではないだろうか。その意味では、結果的にこの試合がこの興業における興業論を支えていたといえる。


 また、高山自身がプロ意識から観客の存在を前提とした試合を行うと常日頃から口にしてもいる。彼は勝負にのみ徹するのではなく、試合を面白くしようとの意図を持ってリングに上がっている。それはプロレスであろうが総合であろうが同様の姿勢でもあり、彼への高評価の理由のひとつでもある。つまり、試合を意図的に面白いものにしようという考えは、興業論という枠組みで理解されるものである。しかしながら、高山は本当に意図的にフライとあのど突き合いをしたのだろうか?


 確かに高山は観客が喜ぶ試合をしようとの意図を持っているし、同時に、フライは恰好の対戦相手である。派手な殴り合いを演じてやろうとの意図を否定することはできないが、それがあれほどの突き合いになるとまで考えていたであろうか。そもそも、われわれはかつてあれほどまで、真正面からど突き合いをし合う人間を見たことはなかったはずである。まさにわれわれの常識を打ち破るど突き合いであったのであり、それを事前にセッティングするなど不可能なのである。おそらくは高山の思惑や意図を乗り越えて、ど突き合いの中に高山の方が巻き込まれていったのではないだろうか。それはフライも同様である。


 高山の試合もまた広く情報との関係とみなすことができる。しかしながら、高山が意図を持った主体ではなく、ど突き合いの方が”主体”であるとするならば、「行動情報」と親和的とはいえない。先に「行動情報」が世界を「どのように」変えることができるのかという近代的意識と親和的であり、測定・観測・予測という態度として現れることを指摘したが、そのような視角からすれば、勝負に徹する態度も、試合を意図的に面白くしようとする態度も「行動情報」と親和的であるという点で同様である。つまり、勝負論も興業論も「行動情報」という「メガネ」なのである。


 スポーツの語源はエネルギーの過剰・蕩尽という意味をもつサンスクリット語の「サポータ」に遡ることができる。つまり、スポーツは元来、エネルギーの過剰との遭遇にうろたえ、ただただ凄いと感嘆してしまうような体験と深い関わりをもっている。これは衝撃の度合いが違うとはいえ、本を読んだり、ゲームをしたり、芸術を鑑賞したりする時に生み出される経験であり、特別なことではない。


 しかし、普段のありふれた経験とは別のところに連れ出される経験であり、その意味からすれば特別でもある。「ドン・フライ対高山善廣」という試合は対戦していた当の2人や観客、そして視聴者などの個人に対して、ある本質的な優位性をもっている。つまり、試合の方が2人の闘いを誘惑し、闘い方を命じたのである。


 あのあり得ないど突き合いは、闘い自体が課している役割に対して2人が同調反応した結果なのである。この試合における行動の主体は高山でもフライでもない。それは、試合に内在的な相互運動とでもいうべき存在論的ステータスにある「闘い」なのである。以前、プロレスの芸術論(当コラム44・45回参照)において、芸術作品としてプロレスを定位可能であるならば、プロレスとは「闘い」として表現されるべき真理を要求するもののはずであると議論したのだが、「ドン・フライ対高山善廣」はそのひとつの現れではなかったろうか?つまり、ここに「美としての情報」が存在する。


 情報との関係とは消費として捉えることができる。バタイユの哲学/社会学は消費をキーワードとする。彼は効用に回収されない消尽が、社会のダイナミズムや変革に至る原理であるとする。しかしながら、現代社会は彼がいう消尽に根ざす「消費社会」ではなく、「薄められた祭り」であり、効用に回収される社会であると批判する。彼は効用なしの消費が富への完全な侮蔑を要求するとさえ主張する。この消費観は「認識情報」と「行動情報」を1セットとし、「美としての情報」をその対局にする。


 実は消費に当てられたフランス語は2つある。Consumationは<焼き尽くすこと。燃え尽きること。激しい高揚>を指し、消尽と訳されるものである。Consommationはいわゆる「消費」である。見田宗介は『現代社会の理論』(岩波新書)において、この2つの消費概念を明確に区別してConsumationは<充溢し燃焼しきる消尽>、Consommationは<商品の購買による消費>と要約している。前者は効用に回収されることのない生命の存在論的意義であり、消費の「原義」であり、その「転義」として後者が位置づけられる。とすれば、「ドン・フライ対高山善廣」は「原義」としての消費であり、まさにその試合は<焼き尽くすこと。燃え尽きること。激しい高揚>ではなかったろうか。あるいは、生命の存在論的意義の劇的かつ競技的現れではなかったろうか。特に興業論は試合の面白さを求める点で、消費の「原義」に引き寄せられるようにも思われる。しかしながら、効用として求められる面白さは「原義」には届きえないのである。つまり、先ほどまで「美としての情報」と名付けられていたものは、消費の「原義」と親和的なのである。


 「美としての情報」、消費の「原義」は生命エネルギーを解放するという意味での畏怖すべき作用がある。その意味で、興業論も競技論も「メガネ」をかけた囚われた見方なのである。しかしながら、これら「メガネ」とは世界を捉えるために無意識的に学習した図柄である。われわれのリアリティはこの「メガネ」に支えられている。その意味では、プロレス格闘技にとって、どのような「メガネ」がリアリティを構築させることができるのかを問う必要があるだろう。例えば、PRIDEは現代日本において最もリアリティを感じさせる「メガネ」をもっていると考えることができる。「ノアだけはガチ」との言明もまたリアリティを作り出す「メガネ」を作り出すことに成功したと評価することもできる。


 さて、そろそろまとめよう。われわれは「メガネ」をかけてプロレス格闘技を見るのだが、この「メガネ」は文化のふるいにかけられ文化によって構築された限定的なものの見方である。とすれば、文化に固有の「メガネ」はものを見るとき、根本的なすれ違いを起こさせる可能性をもっている。「ドン・フライ対高山善廣」が「美としての情報」であるとするならば、そのすれ違いを乗り越えさせる可能性であったのである。ゆえに、われわれは囚われた見方をしているのではないかと疑って見る必要がある。ここでは、その例として競技性を信奉する態度をあげてきた。しかし、この囚われたものの見方に楽しみがあることを否定する必要はないし、競技性の深部にはおそらく「美としての情報」が宿る可能性がある。なぜなら、「認識情報」や「行動情報」などの「メガネ」は「美としての情報」と無関係なのではなく、物語化するために必要なまさに情報だからである。「メガネ」がずれているとの認識は「メガネ」の認識を含んでいる。



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