Dr. Inside MOATのプロレス哲学講座・第七回 『反論可能性』
■投稿日時:2002年9月28日
■書き手:Dr. Inside MOAT

『選手はまじめにやっている』
この言葉は聞いたことがあるだろ?この後には二通りの言葉が続く。
一つは『選手はまじめにやっている』→『だから真剣勝負だ』
もう一つは『選手はまじめにやっている』→『だから批判すべきでない』

前者のパラドックスを生むが、そのパラドックスはアリストテレスが論理学の基礎を明らかにした時に解消されたはずだと思っている人がいるかも知れない。しかし現実の決着と論理学は全く別のものなので、儂の様な者にかかったらどっちにでも転ばせられる。だから、ここでは『ごもっとも』と言っておく。

後者も同様な論理上の欠点を持っているが、そのことはこの際おいておく。
それとは別にしても、この言葉は格闘技に関わる人間が口にしては成らない言葉なのだ。何故なら、選手はまじめにやろうが、不真面目にやろうが、客の前で批判されるために努力しているのだから、自己矛盾なのだ。これはガチであろうが、ワークであろうが、客の前で見せることを前提としている格闘技全てに当てはまる。村の腕白相撲からスカイドームでやるレッスルマニアまで全てに当てはまる話だ。(学校教育の一環としての格技などは除くとして)

試合をすると言うことは、科学で言う実験をすると言うことに等しい。科学の実験において、『科学者は真面目にやっているのだから、結果を観察するな・結果をまとめるな・論文を書くな・論文を評価するな』というバカはいない。全ては批評するという行為だ。それらの行為が行われることによってはじめて、一つの実験が完了し、科学がかろうじて保たれる。ポパーに依ろうが、クーンに依ろうが、ファイァーベントに依ろうが批評されない実験はあり得ないし、それに依らない科学はあり得ない。

試合は選手の実験だ。選手は鍛えた技や体や練ったスポットを観客の前で見せる。試合を実戦と呼ぶのは愚かだから否定するとしても、試合を行うことは構想し身につけた技術体系の実験になる。
愚か者は開始のゴングが鳴って最後に終了のゴングが鳴ると試合が終わったと感じる。しかしそれは違う。例えば滴定実験をしたとしよう。液体を混ぜて色が変わったところで、『実験終了!』というバカはいない。それじゃ実験じゃなくて水遊びだ。考察を加えて、投稿し、peer reviewを受けて批評されて、公表されてはじめて科学になる。科学になってかろうじてやった実験に意義がある。
試合をゴングから判定までと思っているのなら、水遊びと同様、マットプレーだ。いやマットプレーなら銭が取れるから、チイチイパッパダンスと言っておこう。園児がやれば身内だけ喜んで拍手してくれる。近所の園庭でもどこかの会場でも起こっていることだ。

と言うわけで、彼らにポパーの素晴らしい職業訓のその10をあげよう。

12箇条の職業倫理
その10「誤りを発見し修正するために我々は他の人間を必要とする。とりわけ異なった環境の元で異なった理念の元で育った人間を必要とすることを自覚せねばならない。」





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