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プロレスは愛すべきものである
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■投稿日時:2002年6月6日 ■書き手:田中正志 |
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大人から子供までが夢中になれる、感動を与えてくれるファンタジー格闘技劇場―――愛し方を知っていれば、見る側もやる側も、今よりもっと幸せになれる。 しかし、今の日本マット界は転換期にある。2002年に消滅するインディー団体が続出することも、もはや業界では周知のようで、すでに秒読みの段階になってしまった。 プロレスは素晴らしいスポーツ芸術だ。戦後の混乱期には、国民全体の勇気を鼓舞した歴史があって、それがいかにメジャーな現象であったかは語り草になっている。サッカーの「ワールドカップ」がアジアで初めて開催されたことは誇りには違いないが、生きる意味までをも教えてくれるプロレスの愛は、ライフスタイルをも定義してくれた。それが儀礼ドラマであるがゆえに、他のスポーツやエンタテインメントの持つ本質的な限界を超えることができる、唯一の不思議なライヴ空間でもある。 私はそんなプロレスに熱狂できることを、恥ずかしいと思ったことはない。だから、胸をはってプロレスが好きだと広言できる。卒業するつもりはないのだ。アントニオ猪木の闘いの姿勢に共鳴し、ブッチャーからフォークを突き刺されても立ち上がるテリー・ファンクを応援し、小橋健太の青春の握りこぶしを苦しいときに思い出してきた。船木誠勝の「明日も生きるぞ!」メッセージに励まされ、高田延彦の殉教者としての覚悟に涙したのである。むしろ、プロレスに偏見を持つことしかできない哀れな連中のことを、感性が鈍いからだと切り捨ててきた。彼らにはプロレスの奥の深さがわからない。だから、政治や経済の舞台裏のアングルを見抜く眼力もなければ、正義の意味を知ることも無かったのだ。 プロレスには永遠に普遍の、虚実が入り混じった謎が惹き付ける楽しさの秘密になる。しかし一方で、時代とともに顧客開拓の方法論を変えていかねばならない宿命もある。格闘競技だと紹介され、「力道山が最強」だと奉ればよかった時代と、リアルファイト興行が並存して成り立っている現代とでは、対世間への教育からして昔のようにはやれない。 数年単位でファンを使い捨てるのではなく、「卒業させない」マーケティングが必要になってくる。それを実現するのは、興行側の決断の勇気と、メディアの脱皮につきるだろう。興行の宣伝としての御用聞き専門誌の役割は終わった。痛い提言も書いてしまうジャーナリズムが育たないジャンルに、そもそも注目も集まらなければ市民権もありえない。北米市場でもプロレス人気が落ち込んだ時期があったが、そこから構造改革を進めた結果、ビジネスが成功して見る側もやる側も繁栄している。 昨晩のゲームで「阪神タイガーズがどうなったか」を職場でやっても許されるが、プロレスの話題は実社会ではタブーで、オタクの仲間だけの趣味の世界に追いやられてしまった。ところがアメリカでは、中学や高校での「バックヤード・レスリング(プロレスごっこ)」での、ケガの悲劇が社会問題になるほど、日常的に職場や学校で話題にされるまでに再浮上してしまった。 この違いを探るため、メジャー団体新日帝国の近況をまな板に載せてみる。できるだけポジティヴ・シンキングでいきたいのだが、どうしても現時点の総括をすれば、あまり誉めようがないのも事実であろう。実際、5月末日でフリーとなった長州力の退団会見では、露骨な猪木会長批判が飛び出していた。新日の良さの評価については、また別の機会に譲らざるをえない。 武藤敬司の離脱と新日本プロレスの没落 2001年の新日マットを振り返ったときに、1月4日の東京ドームでの橋本対長州戦がいかに期待ハズれの「遺恨戦」となったか、福岡ドームでの小川&村上組対長州&中西組がどれだけひどい内容だったかなど、つまずいた印象の方が先に思い出されてしまう。 その極めつけが、佐々木健介の米国格闘技戦勝利のニュースだった。なんと田舎の地方大会で、無名の力自慢に勝っただけの、いわば「肝試し」をやったに過ぎないのに、さも事件であったかのごとく「ワールドプロレスリング」中継の冒頭にもってきって大騒ぎをしたからだ。 もっとも恥ずかしかったのは、テレビ朝日の態度である。リングアナはギャラなしで出場した「日本の有名なプロレスラー」のために、付き添い保護者のドン・フライに言われたとおり、勝利のコールでは「スティル・アンディフィーテド」と紹介したのだ。本当はこの日の試合が、健介にとっての生涯初のNHB(ノー・ホールズ・バー)挑戦試合だったにもかかわらず、経歴詐称アナウンスをそのまま放送している。当然そのような試合を公式記録としてインターネットの公式サイトに書くのもヤボなので、大会の主催者は、当初は存在すら抹殺していた。それが日本で映像を公開することが決まって、あわてて記録が加えられたことでも大人のファンから笑われていた。 健介を責めているわけではない。生涯一度もリアルファイトをやったことがないというのが、プロレスラーとしては普通であり正常なのだ。むしろ、肝試しに出て行くだけでもたいしたもんだと誉めてあげたい。ケバケバしいメイクと衣装で有名な北斗晶の亭主として、その豪邸が紹介される一般向きの番組で、ようやく世間に覚えられている旦那は、本当の根性の持ち主だった。しかし、それは残念ながら自慢することでもなければ、ましてプロレス中継で紹介するものではないだろう。 "金狼"上田馬之助の、米国時代の数々のシュート伝説をご存知だろうか? トラック野郎を相手にした賭けアームレスリング(腕相撲)から、プロフェッサー・タナカ(実は中国系)がやられたからと、ドリー・ファンクに要請されてアマリロでリベンジしたセメント試合。テネシーではボスのトージョー・ヤマモトの腕を折って、ファンの興奮とイマジネーションをかきたててきたものだ。 だが、ビデオという証拠が残る現代には「武勇伝」は夢をブチ壊す欠点もある。健介の「無敗戦歴」のアナウンスが地方会場に出された時点で、純格闘技とプロレスの両方のファンである組は失笑してしまった。格闘技コンプレックスは、21世紀になっても番組を製作する側に根強く残っていたからだ。 シュート活字の目的には、スポーツ芸術の正しい理解の普及という使命も含まれている。いつまでも八百長論で片付けられてしまう誤解を解き、誰にでもできる真剣勝負で強いアスリートが偉いのではなく、「毎晩ムーンサルトを正確かつ華麗に決めること」の方に価値観を置いてもらいたいからだ。ところが、プロレスを提供する側の関係者が、健介の肝試しをニュースだと判断する神経は現在のマット界の世界基準からはズレまくっている。これではまるで、自分たちのやっているプロレスはインチキで、格闘技大会がホンモノという上位概念として扱われているからだ。 いつまでも「なんちゃってVT(バーリ・トゥード)」と呼ばれる、シュートに見えるようなプロレス試合でだまそうとしていては、むしろファンに逃げられる一方であることを理解してないらしい。パンクラスもUFCもなかった時代に、金メダルなどの肩書きを持った格闘家をプロのリングにあげ、通常とは違う様式美で異種格闘技戦をやったなら、アレが真剣勝負だと勘違いした大衆が多数派であって不思議ではなかった。他に比較するものがなかったからだ。でも、ファンはバカではない。映像を見比べれば、さすがにプロレスは格闘技のひとつではあるが、勝敗を争う競技ではないことは、子供ですらわかってしまっている。ここに新日本プロレスが、トップ団体の地位に安住してしまい、特に格闘技系の他団体の動向をしっかり把握せず、方向感覚を失っている現状が見えてくる。 それで、ファンの目が節穴ではないのと同じように、やる側の選手だって間抜けではなかった。いつまでたっても格闘技路線の、新日の方針に愛想をつかせたのが、「プロレスLOVE!」を標榜する武藤敬司だったことになる。 武藤や小島聡、そしてケンドー・カシンの2002年冒頭での離脱に関して、プロレス業界の歴史を覆すような、革命的なバクチが決行されたことを、あまり知られてはいないようだ。なぜなら古参記者に言わせれば、「アングルを含むマット界のできごとは、すべて金の問題で説明できてしまう」というのが定説だったのに、今回のたとえば武藤の行動は、新日での給料よりも安い待遇を受け入れて、それで全日本プロレスに転出していったからである。 もちろん、武藤の野心は社長のポストである。全日も30周年を迎えるわけだが、その数字を区切りにして馬場元子社長がマット界から引退することは公然の秘密でもある。だから口約束とはいえ、株を譲り受ける手はずになっていることも間違いない。フジテレビがネットワークでの放送を検討しているという噂さえある。しかし、マット界はなにが起こるかはわからない。裏切りだって当たり前、約束が反故にされる可能性は否定できないわけだ。通常レスラーたちは、あくまで目先の金額を選んでしまい、長期的にものごとを考えられない人種だと決めつけられてきた。その常識が破られて、一旦給料が下がってしまう全日に、昨年度のMVPに選ばれたエース選手が自らの意思で移籍したわけだから、これを革命と言わずになんと表現するのだろう。 そして、それはいかに新日がバランスを失っているかの証明ともなった。「スポーツ芸術」という用語は、拙著「プロレス・格闘技、縦横無尽」(集英社95年)の表紙にも印刷して、筆者が最初に考えて広めた造語の定義であったが、武藤はこの言葉を好んで使ってくれて、新日と決別した理由にしてくれたのである。つまり、猪木の格闘技志向に露骨に反旗を翻したわけだ。 新日帝国にとってもっともダメージだったのは、中枢のフロント陣まで一緒に行動をともにしたことだろう。マッチメイク委員会のメンバーや、株式公開を計画していた責任者などが抜けてしまったたわけで、優秀なブレーンたちに反乱を起こされた。さび付いた企業に巻き返しがあるのかは予断を許さない。 長州力から出された辞表を、あっさり受理したのは会社としては正しい判断だといわざるを得ないだろう。永島勝司取締役も事実上左遷されたことで、古い頭の勢力は一掃された。だが、新しいスターを生めないままだと、なにも未来は見えてこないままなのだ。その候補である棚橋弘至の起用法にしても、30周年記念大会のゴールデンでのテレビ中継では、レフェリーとして呼ばれた女戦士元チャイナ嬢に投げ飛ばされる役で、せっかくのお茶の間へのアピールの機会を潰されてしまっている。 もっとも、せっかく「仮面ライダー」の製作者が新日側に覆面レスラーの企画を持ち込んで、棚橋が候補にされたのに、(当時現場監督だった)長州力はあっさり却下した逸話もあった。そんな暗黒時代に比べれば、棚橋をプッシュする姿勢が垣間見える蝶野政権の方がマシには違いない。 三沢光晴&ノアの幽閉、橋本真也&ゼロ・ワンの逆襲 将来像が描けない点では、旧全日本プロレスをそのまま受け継いだ格好になる、三沢光晴率いるプロレスリング・ノアでも同じだろう。純血主義にこだわって、オタクのプロレスマニアだけを相手にしている印象が強すぎるからだ。マット界の「最後の秘境」として知られ、高橋本が出版されたあとでさえ、「ノアだけはガチ」と呪文を繰り返す信者が大勢いることでも有名。レベルの高さは尊敬されているだけに、真剣勝負幻想のままのビジネス手法は笑ってしまわれるのも酷になる。 日曜深夜の中継番組は、毎週の放送開始時間が違っていて、これではタイマー録画すら失敗してしまう。ようやく他団体との交流戦をやっても、業界用語「行って来い」の星のやりとりだけ。しかも、先に白星から要求して、いつでも勝ち逃げする準備がファンから見透かされてもいる。貸しを作って利を上げるやり方でも、恩を売ってる印象を先に与えないとダメ。ジャイアント馬場の石橋を叩いて渡る手法の、悪い部分だけ受け継いでいる。損をしないことを前提にしか提携をやろうとしない。そんな冒険のできない態度がバレばれなのだ。 日本が多団体時代のままなのに対して、北米はWWEだけに収斂されていった。ところが、大手団体のみの独占の方が、肝心の選手の給料は上昇して幸福な状態にある。世界のトップ選手10名のリストはいずれもビンス・マクマホンの所属選手であり、お山の大将主義ですべての団体がインディー化している日本では、武藤も三沢も金銭的には恵まれていない。他団体とは勝ち逃げ政策で慎重に臨み、自身の団体内ではかたくなに序列システムを守っていては、そもそも外部からの新規ファンはついていけない。「四天王プロレス」と呼ばれて、同じメンツの間だけで完結する「激しいプロレス」が栄華を極めた時期もあったが、ボロボロになった肉体の代償は急激かつ明白だ。もはや「さまよえる方舟」に、新鮮さは発見できなくなっている。 それで、いざ内部で新しいことをやろうとすると、エースのGHC王者・秋山準が元ジュニア王者の先輩・小川良成に寝て(負けて)、それであっさりベルトが移動してしまったりする。世間一般にはさっぱりわけがわからない。マニアにも不評なことを新機軸だと勘違いしているようなのだ。 カミソリで切って自ら流血するような野蛮なギミックは、AIDSの時代になって全日では禁止されていたのに、馬場御大が亡くなって三沢政権になってから復活して、外様選手の新崎人生にやらせたりしていた。悪い伝統は再開して、本当の改革推進はなされていない。ケガをしては早く復帰しすぎて、もう選手としては使い物にならなくなっている小橋健太の悲劇こそ、日本マット界がその至宝を失ったことを象徴していた。WWEの真のエースは、映画界に転出しそうなロック様でもなければ、黄金時代を築いたストーン・コールド・スティーヴ・オースチンでもなく、とっくにHHHに移行している。しかし、彼がケガをしたときはちゃんと9ケ月間も休ませていた。こんなところにも、日米のビジネス格差の原因を求めることが可能であるだろう。 最後に言及したいのは、団体だけの頭が固いのではなく、底辺拡大をサポートすべき立場の報道する側の姿勢が変わってないこと。何度強調しても足りない教訓は、現在、日本のプロレスについてもっともハイブロウに分析され、深化した議論が書かれているのは米国の英語の専門誌である事実につきる。ビジネスの規模が十倍どころか百倍近い差をつけられてしまった日米のマット界。ジャーナリズムのレベルが北米で圧倒的に高いのは、必然の結果であったわけだ。 左端のエンタテインメント路線、右端の格闘技路線と、両方からの侵略に中道勢力が対抗するには、メディアも新しい血を導入して「王道」を築かねばならない。ところが、ミスター高橋元レフェリーの告白本が売れたあとでさえ、無視することでしか抵抗できなかった専門誌は、どんどん部数を落としてしまった。しかも最悪なのは、高橋本の成功に便乗した暴露本は中身が希薄なものばかり。なかでもユリイカなどを手がける「現代思想」のプロレス特集増刊は、やたら難しく書いてあるだけ。シュート活字というパラダイムの洗礼と革新を経ずに、「文化人の先生たち」にプロレス賛歌を語らせると、一見高尚そうに書いてあっても滑稽でしかなったこと。 考古学の世界で藤村新一教授のかかわった歴史的発掘がすべて否定され、教科書から完全に抹殺されたように、プロレスを学問として真面目に研究したいなら、論文を書くときに活字プロレスに書かれた記事からの引用を使っていては失格なのだ。「プロレスは真剣勝負ではない。それどころか、全試合の時間と結末は事前に決められている」という前提が出発点になる。もちろん、捏造と事実誤認は違うから、こんな風に書けば社会学者からは怒られるだろう。認識に人為が入ることはある意味必然だから、その認識に関わる方法論の有効性と妥当性が問題になる。だけど、やっぱり高橋本発売後の企画なのに、タイガー・ジェット・シンの新宿伊勢丹襲撃事件や第一回IWGP決勝戦での猪木の失神劇が、「ハプニングの数々」と記されてあってはマズいわけだ。 ジャーナリズムとして検証が成立している歴史観のみ活用すべきだから、「プロレスは太古の昔よりずっとワークであって、競技ではない」と、まず繰り返すことから考察が始まるべきだろう。ところが、そのような記事は皆無で、肝心のプロレスについて何も語っていない。それどころか、将来の展望も提言も述べられてはいない。 「現代思想プロレス増刊」号は、セピア色で昔の選手の白黒写真を表紙などに使い、古い考え方のライターたちが、それぞれの追憶話を披露して自己完結しているだけのお粗末な構成に終始していた。いくらそれが「哲学的考察」だろうが「社会学のアプローチ」であっても、やっぱり「95年にCNNのテッド・ターナーがNWAを買収し、WCWと名を変えてハルク・ホーガンをはじめ、WWFのスター・レスラーを多額の契約金で強引に引き抜いてしまった」などという、ゆがんだ失笑ものの歴史観しか提供されてないなら、せっかくプロレス団体が永遠のテーマとする市民権は得られないままだ。 ターナー氏の個人史は最初からプロレスとともにあり、72年にまで遡る。番組名がWCWになったのは81年だし、会社としてのWCWは88年11月に発足した。それにホーガンはWWFをお払い箱にされただけで、引き抜かれたわけでもない。95年に起こったのは9月にWCWが「マンデー・ナイトロ」の放送を開始したこと。WWFのRAWと同じ時間の裏番組なので、「月曜生戦争」が開戦したことは黄金時代の序章でもあった。 6月3日後楽園ホール、私は友人の試合を観るために「大日本プロレス」の会場にいた。お目当ては第二試合に組まれたREX Japanチーム対大日本正規軍の6人タッグ試合。大阪にある格闘技道場のトリオはグローブをつけており、すでに女性客からも声援を受けて目立っていたのがその井上勝正だった。最初に共通の仲間から紹介されたとき、「タナカさんの本を読んで感動しました」と青年は切り出した。しかし、当時の彼の試合はしょっぱすぎて話にならなかったのも事実。そもそも「プロレスとは何か?」から教えなければならなかった。 多団体時代のせいで、セミプロとしてリングにはあがっていた。もう何十試合もこなしてはいたが、格闘家というキャラクターのギミックが悪い意味で抜けない。やり過ぎて問題を起こし、現場監督から謹慎処分を食らったこともあった。ところがこの日、井上は何かがはじけていた。正規軍の松崎駿馬らにボコボコにされ、最後はお約束でフォールされたが、その手にはマイクが握られていた。 「オレは本当のプロレスラーになりたいんだ!」「今日でREX Japanはやめる」―――実人生をそのままアングルにした宣言が飛び出したあと、井上はグローブを外して仲間の格闘軍に投げつけた。こうしてこの夜から、彼は晴れて大日本の一員となった。こうして私は、シュート活字のパラダイムの洗礼を受けたやる側の選手が、本物のプロレスラーとして生まれ変わるデビュー戦に立ち会うことが出来たのである。メディアが変わらなくても、闘う戦士たちはシュート活字を通じて意識改革に目覚めた。もう、確実に新しい世代が自己主張を始めたわけだ。 しかし、このエピソードはインディー団体の小宇宙にしか過ぎない。まだまだ新日などでは、シュート活字はブラックリスト扱いなのだそうだ。世間の側が注目するイベントを目指すべきビジネスの主旨を掲げながら、その世間の側が評価して、プロ野球関連の単行本では不可能なベストセラー部数を記録したプロレス本が出現したのに、それをいかんせんプラスに生かしきれていない。それどころか存在を封印することで、やはり隠し事だらけの業界というマイナスのイメージすら深められてしまった。それがマット界の全体像である。ショーだと開き直るチャンスを逃し、ますますファンタジー信者のみを相手にする、マニアックな方向に走っていたりする。 その象徴が、橋本真也率いるZERO―ONEというインディー団体だ。バラエティー豊かな外人選手を多数起用した巡業で、UWF革命が最後の一線をも突き破り、リングスまでもが本当の真剣勝負興行に変貌した上で解散した歴史を見届けた、大人のファン層に受けてしまった。 大航海が一周したからこそ、古きよき時代を原典回帰で再現したからおもしろかったわけだ。新日帝国が外人選手を使いきってない現状との比較では、これはもちろん、歓迎すべき明るい材料のひとつになる。しかし、世間はZERO―ONEという団体名すら知らないし、所詮はマニア間だけの短期のブームには違いない。実際、早くも有力スポンサーが倒産してしまい暗雲が立ち込めている。ただ、トップ団体である新日の方が、その手法から学ばねばならない現実だけは否定のしようがない。立場は逆転してしまった。あとは改革を支援するだけだ! * 観戦記ネットの品川主宰のご好意により購入していただいたので、発表の機会に恵まれました。アミューザー系のネット読者を代表して感謝させていただきます。ただし、雑誌メディアでの発表を目標としており、いくら感想を掲示板に書かれても、紹介する仲介者がいない限り、作者本人からの売り込みは嫌がられるのが日本社会の慣習です。ネットでなく活字で読みたいと思われる方は、どうかお気に入りの各雑誌などに、直接電話の一本、ハガキの一枚を出されることをお願いいたします。ネットの世界だけで完結してしまうと、まだまだPC持ってない組の方が多数派なので「今月のワースト記事」に選ばれるだけ。掲示板というメディアは、狭い特定参加者だけの村社会の外側には、影響力もなれば効果もない現実をご理解ください。未発表原稿のストックは膨大にありますが、アミューザー系のコアな読者を喜ばせるトピックを選ばずに、あえてメジャー団体の動向をシュート活字で斬る企画を選ばせて頂きました。 |
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