「元気ですか?」〜裸になったアントニオ猪木
■投稿日時:2002年5月31日
■書き手:田中正志

 新日本プロレスが創立30周年を迎えた。2002年5月2日には東京ドームにて記念大会も開催されている。どんなビジネスであれ「会社の寿命は10年だ」とする考え方からすれば、アントニオ猪木が旗揚げした団体が、それだけの期間日本マット界のトップに君臨したことは偉業には違いない。しかし、あっけなく崩壊したアメリカのWCWの末期症状との類似点を指摘する声も多く、その将来に関しては予断を許さない。

 実際のところ、毎週55分枠で放送されている「ワールド・プロレスリング」中継は、土曜日の深夜番組になり下がったまま。世間一般にプロレスのことを話題にしようとしても、「K―1は知っているが、もうプロレスは放送してないから見なくなった」と、存在自体が認知されてないのが普通かもしれない。だから、ゴールデン・タイムに生中継されたその東京ドーム大会などは、単に新日本プロレスという看板だけでなく、プロレス業界全体の今後の可能性を見極める重要な興行でもあったわけだ。

 視聴率は7.1%。裏番組の「サッカー・キリンカップ」に負けることは最初からわかっていたとはいえ、そちらの数字は約三倍。困ったことに、その他の局のバラエティー番組にも惨敗しただけでなく、中身がマニア層に不評だったことで、もうプロレスは「ゴールデンでは放送できないのではないか?」といった、悲観論さえ交わされるようになってしまった。

 不評の中身のひとつは、ライヴ興行での目玉のテーマが「新日xノア」の対抗戦であり、メインイベントは大将戦となる「蝶野正洋対三沢光晴」だったが、「ノア中継」を日曜深夜に放送する日本テレビのキリンカップが裏番組なので、永田裕志対高山善廣のIWGP王者戦が番組上のメインなこと。ただしこちらに関しては、大将戦が予想どおりの30分引き分け決着で、次につながる対抗戦インパクトを提供できなかった、肩透かし感がライヴ客には残った。対して、ベルトのかかった試合も結末こそ新王者に就任したばかりの永田の防衛という変哲のない筋書きだったが、中身は好勝負で、「お仕事」役の高山の評価も上がった。だから、まぁ番組としては無事に締めてくれた格好になる。しかし、蝶野新現場監督の就任による新体制を強調するための、「舞台裏にカメラが潜入!」がもうひとつの売りだったが、こちらは完全な不発に終わってしまったからだ。

 テレビ朝日はWWFのスケッチとよばれるコント場面を意識したのだろう。ビンス・マクマホンとリック・フレアーの共同オーナーのやりとりは、単純によく練られていて、舞台裏の本当の出来事をもスパイスにされている。現実と虚構が微妙にブレンドされるのは、なにも試合だけではなかったわけだ。ところが、モニターからの試合中継を一緒に見る猪木オーナーと蝶野のやりとりは、ソファを空き部屋に置いただけのセットのしょぼさだけでなく、会話がアドリブに任されてしまい、何を訴えたかったのかさっぱりわからない。WWFはハリウッドの放送作家を大量に採用して、プロに台詞を考えさせるだけでなく、コントであっても入念にリハーサルされた、ちゃんとした劇を見せてくれている。だから毎週、RAWとスマックダウンのふたつの二時間番組が、ともに高視聴率でプライムタイム(和製英語のゴールデンと同義語)に成立しているわけだ。

 1月4日の東京ドーム大会でも、番組上の目玉扱いだった小川直也対佐々木健介戦が、毎度の不透明決着でファンのフラストレーションを募らせたばかり。テレビ局とプロレス団体側ががっちりタッグを組まねばならないのに、その教訓が何も生かされなかったことになる。

 30周年記念セレモニーには、過去のスターが集結したが、ここでの注目は倍賞美津子さんのリング上での挨拶につきた。新日本プロレスは、当時猪木と新婚ホヤホヤだったミツコさんの、金銭面を含むサポートがなければそもそも旗揚げできなかった歴史がある。花道を歩いてくるその物腰だけで、大女優の貫禄は他のどの選手をも凌駕していた。昭和のプロレスファンにとっては、この日の興行のハイライトは試合ではなく、ミツコさんの登場場面であった。これはもちろん、10年以上も現場の最高責任者だった長州力が退団して、いよいよ、実弟である倍賞鉄夫取締役が実権を握ったことの象徴でもあったわけだ。

 ただ、もっと大きな世間側からの観点からは、会社が30年たってもオーナー兼任のトップは猪木のままで、この中継番組でも主役であったこと。恐ろしいことに、当初の興行企画では、この日に猪木は一夜限りの選手復帰を遂げるハズだった。さすがにその案は否決されだが、現在のマット界の顔が依然として業界用語の「アゴ」氏であることが、構造改革が進まない問題点を象徴していることになる。

 たとえば、専門誌用に2001年度のMVPを聞かれたら、マニア向けにはパンクラスの美濃輪育久選手を挙げてみる。もっとも世間が、その名前を知っているとは思えない。プライド認定ヘビー級王者となったアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラでさえ、大晦日の「猪木祭り」に呼ばれていながら知名度がないとテレビ局が難色を示し、試合を組んではもらえなかった。いくら格闘技がブームだからといって、世間的に覚えられているのはK―1戦士だけなのだ。それでは武藤敬司なら誰も文句はないだろうが? いや、その名勝負男ですら、猪木の露出度にはかなわないだろう。大衆にとってのマット界のMVPは、あくまでフジテレビの「プライド中継」の途中に出てきて、「元気ですか?」と気勢をあげる「闘魂オヤジ」の姿になってしまう。

 そのプライドの総合プロデューサーという肩書きにしても、自分がオーナーの団体以上に看板や象徴としてのイメージが定着してしまい、これが蝶野選手の叫ぶ「俺たちがやりたいのはプロレス!」というメッセージとぶつかっている。単純に考えてプライドは真剣勝負の総合格闘技であり、新日本プロレスはエンタテインメント格闘技のプロレス団体であるからだ。

 もちろん日本では、そのふたつを一緒のものとして紹介してきたメディアの共謀があり、「異種格闘技戦」というギミックなどは、純格闘技興行誕生のルーツでもあった。よって、過去の歴史まで否定するわけにはいかない事情もある。しかし、「ファンはバカばかり」という発想の古さと、「狂信的なプロレス信者だけを相手にすれば良い」というビジネスの誤解は、もはや取り返しのつかない絶壁に追い詰められている。

 リアルファイトのプロ興行が継続して成立してしまうと、さすがに素人のファンにもその違いは映像をみれば明白なのだ。かといって、WWFのような開き直った娯楽番組制作会社に徹するわけでもない。一方で「ウチの格闘技は本物」「キング・オヴ・スポーツ」といった宣伝文句も使えない。そんな中途半端な立場に、老舗団体の苦悩が集約されている。

 ズバリ、「プロ格」路線は終結させるべきだ。この業界用語は、プロレスと格闘技をミックスした様式美を指すわけだが、それはもう、UWFの出現段階で実験され、そして本物の純格闘技興行が継続して成立している93年以降には通用しない。よく、シュート活字がやる提言は、「一端既存のファンベースを否定することになるから、リスクが大きすぎて踏み込めない」と反論される。しかし、あらゆるデータがファンの周期サイクル(使い捨て期間)は2年以下となっていて、すでにドン底に落ちている観客動員数やテレビの視聴率が、さらに減ることになるマイナスと、新しい客が注目するプラスを天秤にかければ、もう待ったなしの段階に来ていることは述べるまでも無い。

 さらに、プロレスがエンタテインメントであることをカミングアウトすることで、もっとも影響を受けるとされる頑固な「昭和のプロレスファン」と称されるグループにしても、そもそも会場観戦にお金を落としている組はわずかで、団体側の商売に貢献してきてない事実がある。彼らがお金を落とすのは、ファンタジー活字プロレスの出版ビジネスであって、選手の給料をあげる方向への改革とはもとから無縁なのだ。

 八方美人でいることは理想だが、現実には全部のファン層を満足させることは難しい。そこでビジネスがドン底にあったWWF(当時)は、中間層のマニアさんたちを切り捨てて、数の上では非常に少ない、プロレスを舞台裏から楽しもうとする悪魔の勢力と結託する方向転換に歩みだす。ここでのターゲットは、あくまでお茶の間の大衆であり、しばらく離れていた元のファンを呼び戻す戦略にあった。これが見事に成功して、プロレスの社会的地位までもが向上したことは記憶に新しい。

 その極悪な勢力こそが、「昨晩のショーン・マイケルズの失神病院送りは単なるアングル(やらせ)」と書いてしまう、真ジャーナリズムのメディアであった。このグループからアイデアを聞き、やがてはシナリオ・ライターたちをも輩出していったのが90年代アメプロの成功物語ということになる。


「猪木祭り」の功罪、そしてマット界に明日はあるのか?

 30周年記念興行の倍の視聴率をTBSで記録したのが、2001年の大晦日に開催された二度目の「猪木祭り」であった。同じ名称で2000年の大晦日に開催された一回目は、プライド戦士たちが大量に参加することが目玉だったが、シュートかワークかの二元論で区別するなら、あくまで全試合がプロレスの、文字通りの顔見せ「お祭り版世紀末カウントダウン」だった。ところが二度目は「Kー1対猪木軍」というテーマで、こんどは全試合がリアルファイトだったのだ。

 メインイベントでは「借金王」の異名と取る大相撲出身の安田忠夫が、Kー1の強豪ジェロム・レバンナをギブアップさせて男をあげた。ギャンブル問題で離婚され、離れて暮らしていた安田の娘が肩車されて祝福する大団円は、裏番組の「紅白歌合戦」をぶっ飛ばした迫力があったことは事実だ。

 このメインイベントは、最初からK―1石井館長が猪木軍に花を差し出したカードに過ぎない。レバンナはキックボクシングのトップ選手だが、付け焼刃で2週間練習しただけの総合格闘技の実力などたかがしれている。アンダードッグ(負け犬)の安田が予想に反して勝利する物語は、リスクはあったが期待はされていた。人情話の演出が成功しただけなのだ。その反対にマニアが祈りの心境で注目していたカードは、"プロレスハンター"と紹介されたミルコ・クロコップ対永田裕二のバクチ戦の方だった。しかし、願いもむなしくハイキックにKOされた永田がこうむったダメージは計り知れず、将来の新日の固定エース候補にはキズがついたままである。

 私は一貫してK―1との対抗戦を批判してきた立場にあり、一体どんなメリットがプロレス界にあるのか謎のままだ。つい二週間前まで普通のプロレスをしていた永田が、なんでいきなりはじめての総合格闘技ルールに挑戦せねばならないのだろうか? 専門家の判断でも五分五分がせいぜいで、準備期間の短さまで考慮するなら不利の予想すら事前から注意されていたのだから、こういう試合の実現を煽る週刊プロレス、週刊ゴングの方が、拙著(「プロレス・格闘技、縦横無尽」集英社、「開戦!プロレス・シュート宣言」読売新聞社)やミスター高橋本(「流血の魔術」講談社)を無視することよりはるかに業界にはマイナスという事実は覚えておいてほしい。

 結果論として、「やるんだったら一年休んで特訓しないとダメ」と発言した、中西学の方が正しかったことになる。いずれにせよ、猪木という名前を使った興行で、純格闘技の方が14.9%の視聴率をとってしまう現実に、新日タイタニック沈没船の末期症状を見た者は少なくない。

 ただ、悲観論ばかりでもない。長州力政権下暗黒時代の迷言として、「メディアは東スポだけでよい」と、「俺の目の黒いうちは、格闘技と女子プロが新日のリングで行われることはない」というのがあった。シュートに関しては、プロレス団体なのだからいまさら選手をリスクにさらす必要はなく、私も同意見だけど、日本のエンタテインメント産業が世界に誇る女子プロに関しては、なぜ興行のアクセントに使おうとしないのか疑問だったからだ。それが蝶野政権でプロデュースされた30年記念大会では、全日本女子プロレス提供のタッグ試合が披露され、真のエースである中西百恵が、WWWA世界女子王者のベテラン豊田真奈美をピンフォールするという感動のクライマックス。予想どおり、この日の最高試合賞をかっさらってくれた。この模様はゴールデンタイム二時間での中継には紹介されなかったが、通常の「ワールドプロレスリング」枠の東京ドーム中継第3弾で放送され、ついにタブーのひとつが破られたのであった。





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