追悼ルー・テーズ〜「日本人は特にファンタジーが大好きな国民性だから・・・」
■投稿日時:2002年5月24日
■書き手:田中正志

 偉大なる統一世界チャンピオン、ルー・テーズさんが享年86歳で亡くなられた。以下は、その業績を偲ぶとともに、プロレスというものの日本での理解のされ方を考えてみたい。

 ハンガリー系移民の子、本名Lajos Tizaさんはセントルイスにわずか16歳でデビューして、74歳で蝶野正洋との師弟対決で試合(1990年)をやっているから、そのリングに上がり続けた年数の長さこそが最大の記録だと多くの記者が尊敬する、伝説の名レスラーであった。しかし同時に、「最後の本物」とか、あたかもテーズさんの全盛時代は「プロレスが真剣勝負であった古きよき時代の象徴」と語られるのが定番の、非常にユニークな存在でもあり続けた。

 「最後のシューター」とか、自伝のタイトルである「フッカー(そのシューターのなかでも一握りのリアル格闘家に許された呼称)」と呼ばれ、実力の持ち主であることが繰り返し代名詞にされてきた強豪選手だったわけだ。ただし、ファンタジーとリアリティーを分けて冷静にその歴史を振り返るなら、一度もそのリアルファイトをやった戦歴記録がどこからも出てこないという、そういう測定不能の謎の経歴の持ち主でもあった。そればかりか、本人ですら「一度もやったことはない」と、はっきり自伝で証言されているにも関わらず、ずっと「真の格闘家」「ピュア・レスラー」だったと称えられてきた。他の格闘技や純スポーツから「就職」してきた転向者はともかく、プロレス道場に入門してからも、しばらくはプロレスの仕組みをしらないままだったファン出身の選手というのは、現在でも日本では少なくない。ところがテーズさんの自伝によると、もう最初から仕組みはわかっていたと豪語されている。わかった上で、その10代からリングに上がってきたタイプだとおっしゃるわけだ。

 もちろん、アントニオ猪木はパキスタンのカラチで、フィニッシュを決めてないままの奇妙な試合を受け、相手の腕を折って終了させた例外エピソードの持ち主である。あるいは93年「シュート革命」がはじまって、本当に競技としての総合格闘技をプロ興行としてみせる試みが始まってから、プロレスラー高田延彦は何度もリアルファイトに挑戦され、勝ち星こそないものの、「プロレス=八百長論」を崩壊させた偉大な実例もあった。しかし、テーズさんに関しては、日本語版の自伝「鉄人」のみに書かれていて、英語版にはどこにも書かれていない「不滅の936連勝!」という業績が繰り返し語られていて、ついに死んでも尚、これからもその大記録は語り継がれていくのだろう。競技としての「記録」はゼロであっても、大衆が覚えたいのは真実ではなくファンタジーの「記憶」だったのだ。

 ちなみに、その「936連勝」にしても、 正確には1948年から1955年までの7年弱の期間に「一度もジョブ(負け役)をしなかった」ということが重要なのであって、実際にはあくまで「シングル戦不敗記録」であり、現実のレコードには「引き分け」は沢山含まれている。しかも、その9・3・6というマジック・ナンバーにせよ、日本が世界に誇る「記録マニア」たちが、アチコチの北米の文献を地方紙から探してきて、それを合計した「日本発」の記録なのだ。記録好きの日本人らしいエピソードであり、図書館に通われた努力を否定するつもりはないのだが、ここには大きな誤解もある。テーズさん本人がその自伝「Hooker」で書いておられるように、当時は新しいテリトリーをブッキングされた際に、さも他の地区で実績がったかのようにニセの記録がでっちあげられ、それが新聞に印刷されることは珍しくなかった。その印刷された記事を証拠として、プロモーターは新顔選手の売り出しに、大袈裟な戦歴のバイオを書きたてたわけである。そんな「活字プロレス」の役割の違いにも言及せねばならないからだ。シカゴ・トリビューンといった、立派な名前の大手新聞でさえ、当時のプロレス記事の書き方や記録に疑問を寄せるシュート活字のジャーナリストは少なくない。一方、日本国内の記録に関しては正確であり、これは世界で最古、最長の総合FC誌である「闘竜」が、藤波辰巳が国内で3000試合を迎えることを、東京スポーツなどの記録を調べて計算して最初に指摘した記録が残っている。これには信憑性が高いわけだが、テーズさんのは本人が認めていないわけだ。

 テーズさんがなんでかくも神格化されたかというと、日本人のベルトという権威に対する異常なまでの尊敬という事実がすべてを物語っている。もともと北米の関係者間では、「世界で一番NWAという名称を奉ったのは日本人」ということで、歴史に書かれてしまっている。なんと21世紀になってからもその伝統は生きていて、実際は有名無実になって久しい自称NWAを名乗る弱小インディー組織の価値のないベルトが、橋本真也率いるZERO-ONEの舞台では堂々と世界王者として商売の道具に使われていた。舶来品を上位概念で捕らえる傾向は、変革を拒むプロレス業界の方では依然として有効だったわけだ。新興のキックボクシング団体K-1が、事実上世界を統一してしまい、日本発のベルトが本物の権威となった新時代ですら、NWA選手権試合を売りにするなんて、そりゃとっくにK-1にプロレスが追い抜かされるのも無理はない。もちろんその、アナクロ二ズムこそがZERO-ONEの魅力なのだから、筆者はそんな現状を必ずしも嘆いているわけではないことは明記しておこう。もっとも大衆に支持されたK-1と比べて、ますますマニアックなオタクの世界に活路を求めているプロレス界に未来がないことも、そのインディー団体NWAとの提携が象徴している。こちらも自戒を込めて指摘する必要があるわけだ。

 デイリー・スポーツ紙はその訃報に際して、「1937年、弱冠21歳でNWA世界ヘビー級王座を奪取」からはじまる活字プロレスの追悼記事を掲載していた。シュート活字は真ジャーナリズムなので、「奪取という言葉はエンタテインメント格闘技にはふさわしくなく、あくまでチャンピオンに指名された」と、プロモーターが誰を次のチャンピオンにするか決めるという大原則で揚げ足をとりたいわけではない。その程度の言葉選びのファンタジーは、むしろ、たった21歳で王者に任命されたのだから、確かに称えるべき大偉業であるからだ。ところが問題なのは、テーズさんが認定されたのはMWAという地方団体の「世界チャンピオン」であり、NWAとは一字違いであることにつきる。しかも、別の日本語の資料によると1939年に「NWA世界王者になった」とあるが、こちらは「ナショナル・レスリング・アソシエーション」であって、「アライアンス」の”A”ではなかったりする。もっとも、「両方のNWAは1949年に統一されているので、そんな細かいネタを持ち出してもしょうがない」という反論があるかもしれない。だが、その年の11月25日にやる予定だったその「ベルト統一戦」は、対戦相手が交通事故でそもそも試合に出れなくなり、もとからオーバー(勝ち役)する予定だったテーズさんが、11月27日に闘わずして本部から認定された王座という、笑ってしまう事実まで原語版の自伝には公開されている。

 「プロレスはリアル」を前提としてファンを教育してきた日本の場合、「プロレスの記録マニア」という奇妙な宗教信者が大勢いて、本国のアメリカでは勝った負けたに意味がない職業格闘技には、記録マニアが数えるほどしか育たなかったのは仕方がないわけだ。いくら筆者が処女作「プロレス・格闘技、縦横無尽」(集英社95年)を発表して、プロレスの仕組みをわかりやすく公開しても、面と向かって「間違っている」と言ってきたファンは沢山いた。2001年末に発売されたミスター高橋の「流血の魔術、最強の演技」(講談社)がベストセラーになるまで、思い込んだファンタジーを絶対に曲げようとはしなかったわけだ。いや、正確にはその高橋本が出ても、頑固な記録マニアたちを改宗させることなど不可能である。ある昭和プロレスファンのインターネット・サイトに行くと、テーズさんの代名詞であるバックドロップについて、力道山にかけているのと、ジャイアント馬場にかけている写真が並べられてあり、前者には「しゃがみ落とし方式」、後者には「ブリッジ投げ方式」と命名され、本家のテーズさんでさえ二種類のスープレックスであったと美談にされている。もちろん前者は、たんに力道山が一緒に飛んでくれなくて、重くて右足がふんばれずに型がくずれただけの失敗作である。ただそれだけのことなのだ。純格闘技には、美濃輪育久からクイントン・ジャクソンまで、パイル・ドライバーの変形で相手を潰す技術は成立可能だがバックドロップはありえない。その大原則を、知りたくも無ければ、覚えるつもりもないらしい。「三つ子の魂百まで」というが、ファンタジー信者たちの生態はシュート活字が論破したところでメリットはない。そして、そういう記録マニアたちをもっとも興奮させてきたのが、NWA世界王座とか、936連勝というテーズさんを崇める「権威の記録」だったわけだ。そんな国民性だから、ヒクソン・グレイシー「400戦無敗」のギミックが佐山聡によってマスコミに広められたときも、純格闘技だけを信じようとする通称ガチバカさんからプロレスファンまで、大勢がその売り文句を受けいれたわけである。

 1991年に藤波辰巳がリック・フレアーを破ってNWA世界王者になった(ハズ)だが、それは本部によって取り消されたのだそうだ。そういえば、「アントニオ猪木がボブ・バックランドを破ってWWF世界王者になった記録はWWFには残ってないが、ジャイアント馬場がNWA世界王者になった記録は本部でも認められている」という、微妙に政治的なネタもプロレスマニアの得意技のひとつである。それでもちろん、テーズさんの時代のタイトルは、さらにいい加減であることは述べるまでもない。あくまでカウントアウト負けなので、前王者の評判に傷がつかないままベルトが移動したハズなのに、その後のプロモーター間のもめ事によって、王座移動はのちの歴史では無効扱いにされた交替劇もある。だから、なにを根拠に日本では「6度世界王座についたテーズ」と書かれることが多いのか、ちゃんと本人の書いた原語版の自伝を読んでほしいものだが、ファンタジーに浸りたい方には何を言ってもムダなのも自明である。別の角度からテーズさんの功績を追悼してみたい。

「世界最強の男」「鉄人」?−−−リアリストだからこそファンタジー格闘技の主役になれた!

 「ルー・テーズはグレイテスト・シューターだったのか」?―――この問いに対しても、仲間内から本物(オーセンティック)だと認められていたとはいえ、ベストのシューターであったという話は、そもそも実戦の記録がないことを抜きに考察しても、#1だったという証言はさすがにないらしい。あるいは「グレイテスト・ワーカーだったのか」? これはかなり疑問で、50年代初期にテレビという新しいメディアが大衆に普及を開始したのと同時に、ニュース番組と並んでプロレス中継が始まったことは広く知られているが、そこでのスターは伝説のショーマンであったゴージャス・ジョージであった。またその「金髪の貴公子」は、単なるショーマンではなく、ちゃんとプロレスができたからこその黄金時代の開始であったことは、当時の仲間のレスラーも認めているとおりである。もちろんこのジョージを原型にして、のちにバディー・ロジャーズやリック・フレアーといった、プロレスの達人たちが仕事師の伝統を受け継いでいくわけだ。テーズさんは「本物である」というのが唯一のギミックで、だからジョージの人気と一緒にテレビ草創期に活躍できた。でも正確には、脇役だったことになる。ところがおもしろいことに、その業界最大のアトラクションでもあったジョージ自身の晩年は悲惨だったらしく、最初のワイフ、二番面のワイフ、三番面のワイフがどんどん金をむしりとって、最後は酒びたりで誰にも相手にされず金銭にも恵まれないまま若死にしている。ところがテーズさんの方の試合ビデオは、いまだに追悼番組で放送されるわけだから、人生は最後までわからないということなのだ。

 この理屈は日本での評価とも一致する。なにしろ朝日新聞5月1日付の天声人語では、「テーズは別格だった。彼の胸毛の生えた均整のとれた全身の写真はいまでもはっきり覚えている。ただ、記憶は妙なもので、肝心の力道山戦は思い出せない。引き分けで、力道山が世界チャンピオンになれなかった試合である。当然テレビで観戦したと思うのに。」と書かれてある。しかし、この年配のコラムニストは例外でもなんでもない。なにしろ、芳の里こと長谷川JWAプロレス協会社長でさえ、はっきりと力道山の歴史の中で「テーズ戦というのは面白い試合ではなかった。あくまでリキさんがカッコ良かったのは、メキシコから来た巨象ジェシー・オルテガであり、吸血鬼フレッド・ブラッシーや、覆面の魔王デストロイヤーとの死闘である」と証言している。関節をとられて動けなくなるリキの姿が記憶に残っているわけではなかったのだ。しかし、ジェシー・オルテガが死んだとき、誰も話題にすらしかなったし、やっぱり偉大なる「世界王者」という金看板のほうが、晩年は重宝されてしまうのが歴史の皮肉ということになる。

 その日本人が愛した世界王者というベルトの権威ですら、真実は余りにもファンタジーの方を大切にしたい追悼記事にはふさわしくない。なにしろ、ニッポンに初来日したのは1957年10月だったが、そのツアーが大成功に終わってアメリカに帰るなり、テーズはNWA本部に「やめる!」と告げ、同年11月にさっさとベルトをディック・ハットンに渡しているからだ。しかし心配ご無用。テーズは自分でインターナショナル王者というベルトを勝手にでっちあげ、日程がしんどいだけで儲からない国内のNWAサーキットを諦めて、日本や欧州で稼ぐ決断をしたからである。そう、つまり日本人が愛して止まないあのインターナショナルのベルト(現在も全日本プロレスの三冠王者のベルトの一つとして継続)の初代王者は、そのテーズ本人が勝手に海外用に自称しただけの権威のかけらもないものであった。もちろんこういったエピソードは、活字プロレスには一切書かれていない。都合の悪い話というなら、「プロレスは競技なのかエンタテインメントなのか?」にしても、力道山時代でさえも一度公式にバレて、それがもとで57〜58年と、ビジネスのドン底を経験した事実がある。ところが力道山は、大仁田厚ばりに開き直って「ワールドリーグ戦」というギミックでショーマンを大勢使ったら、そのわかりやすい構図が、再び大衆に受けた実話があった。一般人はいつだって、面白い試合をみせてくれればファンは戻ってくるものだ。怪奇派のギミックが重宝されるときもあれば、「本物のチャンピオン」という肩書きが重要なときもある。

 天声人語のコラムニストが、つまらない力道山xテーズ戦を思い出せないのは、むしろ幸せだったことになる。ちなみに記録によれば、最初に「プロレスが全試合ケツ(結果)が決まっている」ことがバレたのは、1915年のニューヨーク旧MSGにおける「チャンピオン・トーナメント」から。皆さんが想像するよりもはるかに前から、ちゃんと別のメディアにはリークされていたわけだ。しかし、情報操作してしまい、その後にプロレスを扱うメディアでそのネタを蒸し返さなければ、人々の記憶なんてスグに忘れ去られてしまう。力道山の伝説も、ルー・テーズの神話も、あくまで都合のイイ部分だけが後世に語り継がれていくわけだ。それは戦争の歴史が戦勝国側によって改ざんされるのと一緒で、いくらジャーナリズムを追求しても仕方のないことである。

 ニールセンもビデオリサーチもなかった時代に、テーズと力道山の後楽園球場でのテレビ中継が87%の視聴率を記録したそうだが、統計確立のエラー・マージンがどれだかだったかはわからないわけだ。この数字にしても、ある資料では83%だし、別の方は87.5%だと細かい。ただ、どう考えても当時は、街頭の200名に「昨晩どのテレビ番組をみたか?」と聞いて、そのうちの175名が「プロレスリング中継だ!」と答えただけなのかもわからない。そもそも数字だって広報ギミックの手段なのだ。あるいはそのカードの大阪での再戦は扇町プールで行われ、3万人の大観衆を集めたとされている。もちろん筆者は、力道山もテーズもしらない世代、猪木世代の昭和のプロレスファンになるが、たまたま小学校が都会のド真中にあり、その扇町プールを授業に使っていた。もちろん現在は、その扇町プールも小学校もなくなっているが、いくらなんでも3万人も入るハズがない会場規模だけは、たとえ小学生の記憶とはいえ断言してもいい。もっとも、数字よりも記憶なのだから、追悼記事には美談しか必要とされてないのだろう。ハンバークの大味さがバカ受けしたジェシー・オルテガ戦よりも、京都風薄味のテーズ戦が半世紀たった歴史には「世紀の名勝負」だったと評されてしまうわけだ。それがフィクションの正体だったのである。

「日本人は幻想論信者である」by "Hooker"(娼婦の)神様

 筆者がテーズさんのことに興味を持ったのは、ニューヨーク在住時代に自伝「Hooker」の原書を読んだときから。なんとも破壊的で、素晴らしい興奮の回顧録であった。世界を回ったフーテンの寅さん(本人の自称では「ジプシー・ルー」なのだそうだ)が、旅芸人のテキ屋稼業の全容について語っている。勝った負けたはどうでもよくて、いかにお客様の記憶に残ったかが大切なのだと、連勝記録収集マニアを奈落の底に突き落としてくれる告白が売りの構成なのだ。

 なにが驚いたといって、まずその口調が、それまで日本語のメディアで伝えられてきた神様のニュアンスと大幅に違って聞こえたことが一番の衝撃だった。WWFの「スカイパーフェクTV」での字幕版中継番組では、ダッドリーズの口調は広島弁で紹介されているらしい。それが正しいかどうかはわからないが、日本語の活字から受けるイメージと、実際の英語での語り口が違う選手は大勢いる。たとえばテリー・ファンク。日本では自伝も数種類発売されているし、70年代から「活字プロレス」には頻繁にインタビュー記事で登場していた正義のヒーローなのだが、筆者が長くアメリカに暮らすようになった上で、ECWの控室や、インターネット・ラジオ番組で直接にテリーの声と口調を聞くようになって、もの凄くギャップを感じたことが思い出される。それまで思い込まされてきたイメージと本人が違っていたからだ。そのテリーは、プロレスの舞台裏を描いたドキュメンタリー映画「ビヨンド・ザ・マット」の日本公開キャンペーンに呼ばれて、確かに自分も出ている作品ながら「敵となる選手同士が試合の打ち合わせをしている」場面も描くタブー破りの内容なので、あっちの記者会見、こっちの雑誌取材と、チグハグな答弁を繰り返してしまった。それは人間らしくて結構なことであり、「プロレスはリアル」という前提を崩さない約束の日本市場に配慮したからだ。ただ、随分と素顔と本音が見え隠れしたのは日本ではつい最近のことであったわけだ。やっと等身大のテリーが、本国アメリカでの普段の口調でしゃべりだしたことになる。

 テーズさんも同じだった。なにしろ原語版の自伝はファンタジー版の日本語訳と内容が異なるからだ。最初からプロレスの仕組みをあっさりと説明してあるし、「自分は10代からその仕組みをはっきりわかっていた」という自慢話まで出てくる。師匠のエド・ストラングラー・ルイスは19世紀末から発祥したとされるカーニバル時代のプロレスを実践しており、初期のプロレス興行とサーカス巡業の両方を体験している世代であることから、テーズさんによって語られた歴史考察は非常に貴重であり、実際この本をベースにして「Unreal Story of Pro Wrestling」というテレビ番組が1998年に製作され、大好評だったこともあった。つまりテーズさんは、墓場まで秘密を持っていくタイプだと勝手に想像されていたのが、本人は「ケーフェィなんかクソくらえ」派だったわけだ。

 もっとも親友であるサム・マソニックNWA会長のことを、「アイツはいつまでたってもマークのままで、いまいちプロレスの仕組みを最後まで理解してなかった奴で・・・」とか、その毒舌が止まらない箇所もあるし、老人の自慢話もアチコチの章で延々と続く。自分がいかにモテて、世界各地にガールフレンドがいたかも豪語する古い時代の豪傑だったわけだ。だから単純に内容を鵜呑みにしてはいけないし、先輩の時代のいくつかの試合を「シュートだった」と記述している部分は、第三者の検証によって否定されたものも含まれていることは指摘しておく必要があるだろう。

 テーズさんが個人的に最高の試合だと思っているのは1955年にピッツバーグでやった、対ディック・ハットン戦だという。なぜなら、アマチュア・レスリング出身の当地のアスレティック・コミッショナーが、「プロレスなんかインチキ」論の持ち主だったらしく、「オレの管轄下で選手権試合をやる以上、フェイクな試合をやろうものなら、その途中でも直ちにストップしてやるからな!」と脅してきたからだ。そこでテーズは少しも慌てず、いつもどおりハットンと打ち合わせて、シュートにみえる最高の50分3本勝負をやってみせたようだ。もちろん試合は止められなかったどころか、感動したコミッショナーは「今日は本当の競技をやってくれてありがとう」と。だから、テーズさん自身はもっとも想い出深い試合になるようだ。これだから、いくらフジTVが真剣勝負興行としてのプライドの共同開催者になろうとも、重役連中はわからないままの試合が混じっているわけだ。あるいは前田日明xアレキサンダー・カレリンの試合で、オリンピック・メダリスト先生のコメントを思い出した方も少ないないだろう。格闘技経験者だからといって、プロレスがわかっているわけでも見えるわけでもない。わからない者には、どう説明しても見えないからこそ「スポーツ芸術」なのだ。それは今も昔も、なにも一切変わってなかったわけである。

 そんな経歴の神様だから、勘違いの経歴もファンは信じ込まされてきた。誤解も多かったわけだ。UWFインターの顧問になって、その北米版のPPV中継の解説席でも、「これはアメリカン・プロレスのようなショーではなく、リアルなんだ!」と演説をぶったことで、一部の専門家から非難されていたが、それはテーズさんの本当の歴史をしらないことになる。初代世界統一王者ということは、つまり「本物である。リアルなんだ」をギミックにしてきた、プロレスという大衆感情操作のビジネスを天職だと10代の時点で悟った、一人の偉大なる職業格闘家のルーツを勉強してないことになるからだ。だからテーズさんは神格化されたし、高田延彦は「真のリアル世界チャンピオン」で正しかったわけである。ここにて点と線は結ばれて、過去と現在はつながったわけだ。

 こうして偶像崇拝と実像のギャップに興味をもった筆者は、2作目の単行本「開戦! プロレス・シュート宣言」(読売新聞社97年)にテーズさんの真相を伝える章を書くことを決め、その出版に際しては写真を貰うためにバージニア州(当時)の自宅に手紙を書いて、以来2度も電話でお話するチャンスをいただいた。また、最初の電話がちょうどプライドが開始した時期だったので、その興行やパンクラス、UFCなどのビデオを何度か送らせていただいた。もちろん感想が聞きたかったからだ。それで、そのリアクションがまた傑作だったのだ。つまり「そんな全部シュートなんていう興行はありえない。お客様にみせる興行である限り、そんなリアルファイトなんてことは成立しない」と、ビデオをみて、とても気に入って下さったのだが、そうはっきりとおっしゃったからである。

 テーズさんとお話するというだけで、筆者なんかはなぜか受話器を持つ姿勢が直立不動になってしまい、原則としては「イエス・サー」の受け答えになってしまうミーハー・ファンではあったが、もちろん反撃も試みた。たとえば、「(純プロレスファンの願いはともかく専門家としては)確かにタカダがこのルールのベテランであるヒクソン・グレイシーに勝てる見込みはなく、主催者側が結末を十分把握している点ではプロレスと同じなんですが、それでも試合自体はリアル・ファイトでしたよ。ホンマにホンマ」と、そう食い下がってみた。だけど「いや、君たち記者はスグにシュートだワークだと言うが、なにもわかってない」と、いつものテーズ節が炸裂して自説を曲げようとしない。この電話ネタは、スグにシュート活字仲間に広まって大きな話題を提供してくれた。ほかにもケン・シャムロックとダン・スバーンの一回目の対決がUFCであったのだが、当時テーズさんはパンクラスのことは知識がないままで、逆にスバーンのことはUインターで旧知だったことから、「スバーンが負けるなんてありえない。アレはビジネスのために寝ただけなんだ」と、ビル・ロビンソンさんとの共闘戦線で、そう信じ込んでしまっていた。そのときのジャーナリスト仲間の結論は、やっぱりこの世代の選手たちには何を言っても「1993年シュート革命の意義を理解してはくれない」だった。同じ頃、日本のインタビュー記事でジャイアント馬場さんが「K-1だってプロレス」と、「シュートなんてことはありえない」論を展開していたものだ。本当に時代が決定的に変わってしまったことは、最後まで認めてはくれなかったことになる。まぁ、それは予想できた回答でもあったし、テーズさんだけがそう考えていたわけでもない。ご隠居さんがフロリダに引っ越したために、ビデオを送ることも電話のやりとりも、その時点が最後になってしまった。惜しむらくは、道場で目をかけていた田村潔司が、その(ありえないと主張する)シュート戦に挑戦をはじめていた姿を紹介できなかったこと。これだけが、テーズさんとの直接の想い出における、筆者の唯一の後悔であった。

 テーズさんの悪口は、美談よりもおもしろいようだ。インチキ輸入じゅうたん販売から、インチキ輸入ゴム会社経営まで、そのビジネスマンとしての失敗の歴史は、被害をこうむった善良な市民から、「ほら吹きじいさん」と軽蔑され、苦い経験をさせられたプロレス関係者も少なくない。もちろん前出のUWFインターですら、最後は被害者であったという。日本のインディー・プロレスで活躍するセッド・ジニアス選手が、道場コーチ話で大金をむしり取られて、自殺を考えるまで追い詰められたエピソードは有名だ。「NWA世界王者」という肩書きが一番決まる紳士なのに、そのNWA組織を何度も裏切り、対抗するオポジション勢力に荷担したり、グレート東郷と組んだTWWAの旗揚げなど、お世話になった団体を裏切って、新興勢力側に回ることでも節操がない銭ゲバだった。日本テレビとのギャラのケンカは業界内ではよく知られている。主張が通らないと、さっさと新日本プロレスに鞍替えするなど、恩人たちをダブルクロスすることでも評判は昔から一致していた。生涯のどの断片を取り出しても、決して「聖人」ではなかったわけだ。

 自伝「Hooker」で最も印象に残る記述は、プロレス・ビジネスの本質をファンタジー商売だと定義している箇所になる。また、お世話になった日本のファンに関しても「そのファンタジーが特に大好きな国民性であった」と分析されていた。何度も絶縁状を叩きつけたハズのNWAから呼び戻されていたように、日本テレビがその悲報に際して一時間の追悼番組を放送したのは、それだけでも事件であったが、最後の最後まで美談で塗り固めた構成であったことも凄かった。シュート活字ジャーナリストとしてスグに追悼記事を書きあげたが、「読者は訃報の場合はファンタジーを読みたいから」と、どこのメディアも買ってはくれなかった。あやうくボツとなるところを救って下さったのは、「観戦記ネット」の品川さんである。しかし、その死をもってすら、最後まで美談が優先された情景を眺めながら、日本人がプロレスに求めるものは、真実ではなくやはりファンタジーであったことを思い知らされたのであった。テーズ神話は大衆の記憶には、美しき伝説のまま完結したのである。





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