『プロレス哲学は全てノリリンに対する注釈である』あるいは『プロレス哲学の終焉』
■投稿日時:2002年2月28日
■書き手:ノリリン@Larger than Life(名前をクリックするとプロフィールの欄に飛びます)

『哲学は終わった』そうだ。もう何十年も前の話だが・・・確かに哲学者がするものとしての哲学は終わったのかも知れない。世界観なんてものはいまや、地下の巨大測定装置や数学者の方程式の中から生まれる。文学部哲学科からは生まれない。しかし哲学を、一発芸と同じ感覚でとらえている儂にとっては、哲学が哲学者によって行われようが、それ以外のものによって行われようが大した問題ではない

まあ、『歴史』『ストロングスタイル』『第3帝国』『Pride』『バブル経済』『還元主義』『帝国主義的社会主義』などなど・・・元から存在していないか終焉を宣言される価値のないもの以外は、すべからく事前に終焉を宣言される運命にある。

科学もまた然り。何年か前にJ・ホーガンの『科学の終焉』と言う本が話題になった。この本が妥当かどうかはここでは議論しない。あの本のテーマは、『科学においてはここ何十年も革新的な業績は成し遂げられていない。今後も起こらないだろう。皮肉の科学だけが続けられていく』ということだった。作者は科学の分野を革新するような科学の成果に較べて、その成果の後シフトしたパラダイムのなかで繰り広げられる科学を、『皮肉の科学』と呼んだ。この『皮肉の科学』の存在の部分に関してはホーガンはどうしようもなく正しい。(彼が言い出したのかどうかは知らないが・・・)『皮肉の科学』は、単なる関係者の職業としてまたは産業として、業績を積み重ねていくが、この業績は単に苦行の繰り返しに過ぎず、新しい知識を生み出すことはない。

力道山・馬場・猪木・天龍・長州・前田・佐山・ムタ・ビンス・・・・革新的なレスラーによって、プロレスは徐々に姿を変えて続いてきた。対してプロレスに対する論評も形を変えてきた。R・バルト『神話作用』、村松友視『私、プロレスの味方です』、ちょっと遅れてY井上編集長、次にターザン山本、田中正志のシュート活字、加えてMr.タカハシのゴーストライター、そしてインターネット。これらがプロレスの論評に革新を起こして現在に至っている。(勿論ここに上げられない何かもあるかも知れない)

話題を呼んだ『現代思想 2月号増刊:プロレス』。これを今回俎上に載せる。事前の期待に反して肯定的な評判は乏しい。しかし、事前の期待には反しているが、事前の予想通りとは言える。

特集の本体を占めると思われるのは『プロレスの哲学的考察』であるが、わずか4篇しかない。おそらくプロレスに関する哲学を書いてくれる人を充分集めることができなかったに違いない。

”『神々の演劇』by澤野雅樹”は意図したものであるとないとにかかわらず、ネットで有名なあるコラムの出来の悪いコピーである前半と作者のプロレスに対する思い出をつらつらと書き連ねただけの後半を無理矢理繋いだ迫力のないキメラに過ぎず、取り上げるべきものがない。

”『「ほんとうの本物」の問題としてのプロレス』by入不二基義”は92年の論文を元にしている。トンプソン論文に対する論考という全く意味のないものを冒頭に持ってきていることに目をつぶったとしても、92年以降シュート革命、シュート活字、Mrタカハシ、ネットプロレスなどの革新を経験していない論文は既に前のパラダイムに属する。はたして21世紀の物理学の科学雑誌にガリレオが投稿したらacceptされるだろうか?これは澤野の文章にも言えるものである。

”『光を聴け、声を見るな』by柿本昭人”は時事ネタを導入に、テクニカルタームをまぶせた典型的な青土社文体だ。読み物としてはいいが、テクニカルタームをまぶせてプロレスを語ることができるという以外に、プロレスについてなにを教えてくれるだろう・・・そしてそれが可能なことは儂らはもうすでに知っている。また、一部のテクニカルタームは定義されておらず、論文としては無価値だ。まあ論文ではないのだろうが・・・

哲学と肩肘を張らない読み物群はそれなりに面白い。
”『プロレス原風景への輝線』by井上善啓”はありもしない『プロ格』と言う言葉を使って、理解していないネットを相手に、裏付けのないプロレスの危機を煽る。団体の振ったアングルからも現実からも自由勝手に自社製のアングルを張って読者を欺くのはファイト編集長時代からの素晴らしい手法だが、いかんせん年齢的にこの力業にはもう無理がある。

『前田日明による前田日明 前田日明(聞き手 李スンイル)』:人には近すぎると決して見えないものがある。近すぎるために前田自身が『前田』を語っては何の意味もない。そもそも、前田は自身が語ることが妥当なほど小さな存在ではなく、自身で語ることが可能なほど筋の通った存在でもない。案の定、民族のこと以外は『いつみても波瀾万丈』と何ら変わることがない。

”『リアルアメリカ』by町山智浩”はごく軽い読み物で、中味はよく分かる。ついでに言えば、WWFの流れを知っていれば読む必要がないどころか、所々間違いがあることまでよく分かってしまう。勿論哲学とは何の関係もない。

『プロレス社会学への招待〜イデオロギーとテクスチャー』byDr.マサ:全ての革新を経た新しいパラダイムに属する層から『プロレスの哲学的考察』のセクションに呈された文章はこれだけである。その意味ではこのセクションで唯一の読む価値を持つものだろう。逆に言うとその意味で他のものは読む価値がない。
Drマサはいう『バルト以降のプロレス論は今端緒に付いたばかりである』

はたしてそうだろうか?
田中忠志はことあるごとにwrestling Observerを持ち出す。確かに新しい号には新しいことが書いてある。書いてあることのレベルは高いのだろう。革新的な雑誌であろう、少なくとも出来たときには革新的な雑誌だったはずだ。
しかし、それは果たして新しいのだろうか?そうではあるまい。出来たときには新しかった。しかし今は違う。書くことに使う手法は毎回うんざりするくらい同じだ。勿論Wrestling Observerに限らない。プロレスについて書かれることは全てこれから以降うんざりするくらい同じになっていくだろう。
観戦記ネットの観戦記もそうだ。常連の書き手の視点は次第にどうしようもなくダブってくる。独自で、しかも上記の革新を全て通過した新しい視点は常に求められるが、得ることは難しい。

今回の現代思想のプロレス特集はそれを再確認させてくれた。
勿論、『現代思想:プロレス特集』を読んで、初めてプロレスに対して哲学する者は別の感覚を持つかも知れないが、それは単に伝達速度の違いに過ぎない。戦前まで田舎では盆やひな祭りが1ヶ月遅れだったように単に遅れているだけのことだ。二度ひな祭りをしたいものだけがそれを喜ぶことができる。
プロレスの外部の哲学や社会科学の手法を導入することでプロレスを語ることはできるだろう。しかしそれは皮相的な文章でしかなく、哲学的手法について語ってもプロレスについてはなにも語らない。少なくともプロレスに対する新しい哲学を生まない。『バルト以降のプロレス論は今端緒に付いたばかり』であるとすれば、その筋からのアプローチが何十年も不毛であったことしか意味しない。

プロレス自身が大きく変容すれば、プロレス哲学もまた変容を余儀なくされるが、その萌芽もない。これからは・・・・少なくともしばらくは、『皮肉のプロレス哲学』しか存在を許されないだろう。はたして、プロレス哲学の新たなるパラダイムが得られる時が来るのであろうか、それとも『ノリリンに対する注釈』としてのプロレス哲学は終焉に至るのであろうか?
今のパラダイムの中では終焉しか見えない。

最後に、『プロレス哲学は全てノリリンに対する注釈である』
 と言ったのは、勿論柄谷行人ではなくて儂である。
ま、それが正しいかどうかはさておき・・・タイトルに訳の分からないアフォリズムを導入するのは儂の手法である。『何故プロレス哲学は全てノリリンに対する注釈であるのか』が解題される日が来るのかどうかは定かではない。





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