過激なラブレター。
■投稿日時:2002年2月19日
■書き手:deak

新しい現場監督が決まった。
これで諸悪の根源を一掃したかに見える新日だが、しかし、その一番ハードな問題は、実は何も解決していない。

エースがいない。

蝶野の現場監督就任は、5年遅かった。
5年前なら、もう少し動けた。
エース=蝶野、でしばらくは廻せた。

IWGPの王者が、安田に決まったという。
オーナーの一存で、「プロレスができない男」をチャンピオンにしてしまった。
このことが、これからの新日の行方にどう作用するか。
週プロにおける石井館長の新日批判は、残念ながらまったく正しい。
つけ加えておくけれど、安田のジェロム・レ・バンナ戦は本当に素晴らしかった。

プロレスができる、できない。
この意味も、ノアと、新日とでは、少し異なる。
新日のレスラーは、「新日のプロレス」ができないといけない。
ストロングスタイルという強烈なオリジナリティが新日を日本一の団体に育て上げたことを、断じて忘れてはならない。
秋山や小川と、大谷、ライガーを、同一線上で比較してはならない。

ストロングスタイルとは何か。
格闘技的なエキスを交えたプロレス、ではない。
違う。
違う。
違う。
永田のエース就任は、ない。
もしそうしたら、その瞬間、新日は、終わる。
ノアのプロレスはノアの人がやるべきだし、新日のレスラーは新日のプロレスをやるべきだ。
「格闘技エキスを注入したノアプロレス」は、いらない。
このことを少し履き違えている二人が、越境タッグを組み、あるいは、対峙して肌を合わせている。
あたかもプロレス界の中心をまわしているような顔で、互いを賞賛しあっている。
交流戦っていうのは、ほんと難しい。
ヤングライオン時代、永田は将来の新日を率いていくべき男だった。
海外遠征は、そのレスラーを決定づける。

同じオーナーであれ、ビンス・マクマホンや石井館長と並べてアントニオ猪木を語ることはできない。
猪木は、スーパースターだった。
スーパースターには、スーパースター以外のことなんてできっこない。
蝶野の言葉は、間違っていない。
意気込みやよし。
あとは、その理屈をどう「有言実行」するか。
チャンピオン安田の報は、こうした蝶野体制早々の、不安なニュースである。

中西が、ついに猪木と交わる。
去年、一昨年から永田の後を歩いてきた中西であるが、その間、着実に個性を伸ばしてきていることに注目していた。
その矢先の知らせ。
まだまだイタについてはいないものの、関西弁と野人のギミックは、完成度によっては化けるんじゃないか。
(それが会社やオーナーの無理な意向だったにせよ)永田のように、安易にガチンコの世界に飛び出さなかったのも、悲しいが賢明である。
中西は、猪木に、何を学ぶのだろうか。
エンターテインメントの天才には、後輩に教えること、教えられること、教えなきゃいけないことがいっぱいある。
新日凋落の一番の原因は、長州でもPRIDEでも、ましてや小川でもない。
猪木が、自分の本当の役目を果たしてこなかったからだ。
スーパースターには、スーパースターしかできない。
だけど、この役割は、希代の天才レスラーだったアナタにしかできない。
矛盾するが、これはどちらも真実である。
中西が、オープンフィンガーグローブをつけて帰ってこないことを祈る。

若獅子。
藤波、佐山、前田、高田、船木、山田、佐野、武藤、橋本、金本、大谷。
いつだって、新日には有望な若手レスラーがいた。
夢み、見据え、悩み、動き、クリエイトしてきた。
今の新日にも、いる。
ヘビーには棚橋、ジュニアには柴田。
新日のレスラーが宿命的に持たなくてはならない「何か」を持っている若手が、少なくとも二人いることは、この状況の新日にとってでかい。
とてつもなく大きい。
この原石を、どう磨くか。
現場監督には、少しの判断ミスも許されない。
蝶野は、「悩み」と「可能性」の種を、二つ同時に握らされたのである。

新日は、猪木・蝶野主導の下、徹底的にエンターテインメント化していくべきである。
(カミングアウトはすべきではないと思う。このことについての見解はここでは省く)
エンターテインメントとは、演じきることである。
演じきるということは、ガチンコである。
猪木のプロレスがそうだった。
力道山のプロレスもそうだったんだろう。
戦いきれず、演じきれない。
それが、今の新日である。
世の中は、いつだってガチンコなモノしか受け入れない。
この戦乱の「黒幕」と噂される馳が、かつてSWSの旗揚げ戦を観戦したときの言葉を借りる。
今の新日は、まさに「学芸会」である。

演劇にしろ、歌謡界にしろ、エンターテインメントの世界では、スタートの時点で「主役」と「脇役」が決まってしまう。
「華」とか、「持ってうまれた」という抽象的な言葉でしか表現のできない、けれど自分の努力ではほぼ覆しようのない部分である。
しかし、長州現場監督はこの暗黙の規範を破った。
エンターテインメントをやっていく上で絶対に侵してはならない部分を、もののみごとに侵してしまった。
練習する選手にチャンスを。
自分の可愛い選手にベルトを。
新現場監督のやるべきことは、もう一度それぞれの選手に「ぶん」をわからせることではあるまいか。
安田はチャンピオンの器なのか。
永田はスターの器なのか。
もう一度よく考える必要がある。
逆に言う。
唯一無二のスーパースターをつくることができるのは、エンターテインメントであればこそ。
K-1やPRIDEや修斗では、どんなに素晴らしいドル箱が生まれようとも「負けたら、お払い箱」にしなくてはならないのである。(石井館長は、この、リアルファイトならではの悲しさを上手く逆手にとってビジネスに結びつけてきた。誰が勝とうと構わない、勝った男に付加価値をつけるだけ、という方法で。反対の例としては、リアルファイトに転じたがために崩壊の道をたどっていったリングス、修斗「幻のスター」佐藤ルミナの例がある)
サイコロが振られてしまった今、あえて勝ち負けをばらけさせることでリアリティをつくりましょう、という前田UWFの施策をマネることは無意味である。
それよりは、プロレスだけの特権である「常勝チャンピオン」をつくるべきなのである。

石井館長は、必ずプロレスを攻めてくる。
猪木祭りでの戦いは、「予告編」にすぎない。
もうすぐ必ず攻めてくる。
黒船来襲の瞬間、しかしそれは同時に、新日大復活のチャンスでもある。
そのときまでに、新しい新日をクリエイトできるかどうか。
石井館長は、エンターテインメント、すなわちプロレスで勝負を挑んでくるはず。
そこに憎むべきライバルがいてこそ、本当のストーリーは動きはじめるのである。





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