プロレスの可能性とその遍在
■団体:批評空間興行
■日時:2001年10月3日
■会場:紀伊國屋ホール
■書き手:リー監督 (ex:リー監督の「た・い・く・つ」

 10/3、私は紀伊國屋ホールにいた。ついに、インディーズ・プロレスの「批評空間興行」を実体験することが出来たのだ。この感動を一言で述べるのならば、「正直、自分の人生の中で一番感動した」というヒネリも何もない表現になってしまう。

 18:30開始予定の興行なのだが、なぜかその時間になるとゴングの代わりにブザーが鳴り、それから5分後にもう一度ブザーが鳴って興行開始らしい。なるほど、プロレス界の中でもニューウェーヴと噂されるわけだ。

 400席程の会場。インディーズであるもののそれなりに人気の団体らしく、用意された席では不足のようで、客席の通路に補助椅子が用意されていた。それがパイプ椅子である、というところに、一見プロレスらしくない興行をうっているにも関わらず、プロレスに対するこだわりが感じられる。つまり、どんなに逸脱しようとも、ベースは常にプロレスであることを主催者が主張していることは、マニアでなくても理解できるだろう。

 早速、前説から。闘龍門の興行を参考にしているとしか思えないスケジュールだ。しかし、そこは所詮旗揚げ2回目の興行団体。まだまだそのインパクトはあまり感じられない。オーナーの内藤氏の挨拶はやや貧弱。そして、オーナーとはいえ、そこは批評空間、中心の場を占める「ゼロ記号」にすぎない。誰が考えても事実上の権力者はエースの柄谷行人選手であり、ブッカー兼レフェリー兼選手の浅田彰である。

 「おかげさまで、『トランスクリティーク』は増刷の運びとなりました。また、かなり悩みましたが、雑誌『批評空間』を少しだけ増刷することに致しました」とのこと。考えてみれば興行パンフを増刷するなどというのは前代未聞ではないのか。この内藤オーナーの言葉を注意深く読み取れば、新しいプロレス興行のあり方の可能性を私たちに提示してくれていることが理解できる筈だ。

 「『トランスクリティーク〜カントとマルクス』をめぐって」とサブタイトルが付けられたこの興行、前回同様、バトルよりもマイクアピールが中心となる。あの闘龍門でさえそこまで開き直った興行は不可能だ。しかも今回は、エースである柄谷行人の出版記念であるから、アップされるのは柄谷であることは明白。従って、この興行のポイントは柄谷をアップさせるために、他の選手たちがどれだけ上手なバンプをできるか否か、だ。

 何のテーマ音楽もなく、淡々と4人の選手たちが入場してくる。実にクール。レフェリーと選手とアナウンサーを兼任する浅田が、各選手の位置関係を説明する。「柄谷選手が『トランスクリティーク』という本を出したのですが、サブタイトルにある通り、カントとマルクスを中心に語っているわけです。そこで今日はカントを語らせたら世界一の黒崎選手と、マルクスを語らせたら、話が長いだけの西部選手を呼んでみました」(そんなこと、言ってない)。ちなみに西部は、主戦場である北海道から着いたばかりらしい。プロレスの移動スケジュールの凄さは、このようなニューウェーヴ団体でも共通の現象だったのだ。

 浅田レフェリーに促されて、早速黒崎選手がバンプを始める。「柄谷さんのカント論は、形は変だけど、その中に古典的な思想が流れています」。「そう言うと、私は古伊万里を鑑定する骨董屋のようですけど」とは、実に見事な受け身だ。素晴らしい。これだけで今回の興行の成功が約束されたようなものだ。

 というわけで、黒崎選手は主に柄谷選手のカント論を比較的精緻に分析し、「骨董屋のオヤジ」として、「純粋理性批判」の内にある「他者性」の概念を見出したことを、高く評価する。メジャーデビュー当時の、柄谷の「探究1」で示されていたクリプキとヴィトゲンシュタインの「固定指示子」の問題(固有名は述語には還元できない)にしても、既にマルクスの「命懸けの跳躍」(商品を売る、つまり手持ちの商品を市場に出して貨幣を得るということは、よく考えれば非常に難しいこと、を示している)の概念を導入し、ある一定の解決方法を示唆していた。

 一般に、カントの理論の中でも未解決とされている「物自体」の概念を、柄谷は「他者性」の範疇の中に括り入れ、カントによるコペルニクス的転回後の、主体に従属する対象と、主体に従属しない「物自体」の分離性を明確にした。それを黒崎がマイクアピール。

 おっと、技の詳細を綿密に語るのはマニアの悪い癖だ。反省。

 さらに、「アプリオリな綜合判断」についても「他者性」という軸を用いればより面白い議論になるらしいのだが、ここでは省略。

 次が本日のポイント。カント、ヘーゲル、マルクスの邦訳で、時々大きな間違いがあるとのこと。特に「のみならず」を単に「ではなく」と誤解を招くような訳にしているらしい。つまり、カントは経済的のみならず道徳的な面も重要なことだと捉えていた、ということ。これですんなりとマルクスに繋がるというのだ。「いやあ、そりゃ出来過ぎですよ柄谷さん」とは誰もツッコミをいれなかった。

 ここまで、黒崎選手は柄谷に対する「表面上」のリスベクトを続けてきたが、それだけでは観客も飽きるし、何よりも自分が飽きるだろうから、いくつかの疑問点を提示する。「超越論的統覚X」という柄谷の表現は、カント自身使っていないというのだ。

 この辺で浅田レフェリーが徐々に介入し、ゲームを作り始める。トランスクリティークとは「視差」というある種の根元的なズレに基づいている。例えばカントの方法は、合理論に対しては経験論的な立場で、経験論に対しては合理論的な立場から論ずる。これはどういうことかというと、縦の考え方には横もあるよ、横の考え方には縦もあるよ、と示しているのだ。普通に考えるだけでは縦と横を同時に語ることはうまく行かないので、柄谷は斜めのジャンプを使っている、というのだ。いかにも浅田的、見事な三次元図式法で、「やはり、プロレスはレフェリーの役割が重要だな」と再認識する。これが正しいかどうかは別として、簡単に図式化して私たちに提示するその能力に私は驚嘆する。

 柄谷と浅田が黒崎のマイクアピールに答える形で持論を展開していく。その締めでは、浅田が「例えばフロイトは縦軸に性的なものがあり、横軸に臨床経験的なものがあるわけです。その性的なものは『凡性欲論』として世間の批判を浴びたが、横軸の、水平的な臨床的な経験を強調するカウンセリング理論みたいなものだけでは、どうしても限界が出てきます。あるいはマルクスにしても、縦軸に生産とか労働があって、横軸に交換があるのです。労働価値説の否定によって縦軸を取ってしまうと、単なる交換理論になってしまうのです。そして、やはりそれだけでは自ずと限界が出てくるのです」てなことを語り、いやいやすっかり私の頭の中は、縦と横と斜めの図形で一杯になってしまう。プロレスは、分かりやすく語られなければならないという、プロレスマスコミに対する教訓にもなっている。素晴らしい。

 というわけで、北海道から着いたばかりなので、それまで何も喋らなかった西部忠の出番だ。いよいよ、マルクス。冒頭に、西部が「トランスクリティーク」をトイレに忘れてしまったので、彼は柄谷氏の持っていた本を借りて発言をするとのこと。ぐははははは。いきなり、やってくれます。これがシュートなのか台本通りなのかは私には理解できなかった。批評空間、恐るべし。

 柄谷の影響を受けてぼくらは育った。ヘーゲルを知らない子供たちよ〜、と歌ってはいないが、そんな感じ。西部の語りはマイクのノリにムラがあり、しかも論旨があちこち飛んで明解ではないため、理解し難いところがある。もちろん、柄谷ファンであったことは一度もないが、私のプロレスファン歴は長いので、なんとか付いていける。「資本主義は宗教的である」とか「資本の根元を価値形態論に見る」など刺激的な言葉を散りばめて、なんとかプロレスをしようとしているが、あまり上手ではない印象だ。

 西部が最後に討議の論点として提出したのが、「資本論」は既存の経済学批判として書かれた側面もあるが資本そのものが批判的ではないのか、という点。あるいは価値形態論を極めた上での「貨幣の形而上学」なのだから、今さら労働価値説は必要なのか、の主に2点。

 突然浅田が乱入する。資本主義そのものが批判的な存在ではないのか、などという論点は70〜80年代のバブル全盛時代の話。西部が「そんな時代に私は柄谷さんや浅田さんの影響を・・・」と言いかけたら、浅田怒る「あなたが影響を受けようとどうしようと私には関係ない」と一喝。「当時のソ連との関係で資本主義が批判となり得ていた時代もあったが、それは決して本質的ではない。実際ソ連崩壊とバブル崩壊によって、資本主義は逆に閉じたものになっているのです。それを超えようというのがトランスクリティークではないのか」。ぐははははは。浅田センセも意外と大人げない。というか、レフェリーとしての役割ではなく、レスラーとして乱入した、ということだろう。「70年代の気分は縦軸を無視して、水平的な面が強かったですね。つまり、<生産ではなく消費>という先ほどの誤訳と同じことになっていました。しかし、本来は<生産のみならず消費>です。これがカントの論議と繋がっていくことになります」と、さらに追い打ちをかける。

 西部は、やられっ放しではレスラーとしてのプライドが許さないのだろう。労働価値説の必要性に対する疑問を再度提出。それに対して「わかってないなあ、お前」とばかりエース柄谷が重い腰を上げる。「私はそれほど言ってないですけど。労働価値説は事実上、資本に押しつけられるものです。そして、労働価値説を押しつけているのは労働時間制を否定する立場にある側なのです」。何だか興奮している。それが現代的な「搾取」の構図だと言いたいのだろうか。

 柄谷の血圧を心配してか、浅田が関係あるようで、関係のないフォロー。一方では貨幣があり、他方に価値実態論がある。これは超越論的シニフィアンと超越論的シニフィエなのだ、と例によって見事な図式化。また、流通過程が鍵になることを強調。「労働者のみならず消費者として・・・」というフレーズはこの日何度使われたことだろう。縦軸は必要だが、縦軸を否定する動きも間違いではない。その両者に足を乗せることが大切で、だからこそ、そこに「視差」が生じる、というわけだ。

 浅田が「それでは最後に柄谷さん、まとめをお願いします」と時間を気にして小声でレフェリング。

 エース柄谷は、ここで本日最後のハイスパート。「カント的マルクス主義」という独自の立場に至る経緯を説明。また、批評は「誉めるためにしか書かない」というドゥルーズの言葉を引用し、それは小林秀雄とも共通すると言う。「ま、カントとマルクスは別格で、私はこの2人は徹底的に誉めまくります。逆にやっつけるのは簡単で、彼らを批判する人がいるけど、そのやり方は私が一番知っているはずだ」と笑いを誘う。

 後は他の出場レスラーたちが簡単に柄谷賛辞の言葉を述べた後、試合終了。おまけとして、お決まりのファンによる質問コーナー。残念ながら事前に仕込んでおかなかったので、つまらない質問しかでなかった。それらを浅田はばっさりと切り捨て、自らの言葉で最後を締める。「昔から柄谷さんを知っていますが、やっと『これが自分の本だ』と言う勇気に驚きます」と、言外に書物の売り込み。考えてみればここは紀伊國屋ホールだ。

 興行後もサイン本など飛ぶように売れていたのだから、柄谷ブランドもまだまだ落ちていない。次回も行けたら行こうと思わせる、楽しい興行だった。観客はマニアしかいないのだが。


●批評空間興行 バトルロイヤル 148分51秒 「亀の甲より年の功」で柄谷行人の勝ち





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