相撲の出生の秘密:ワーク活字の冒険
■投稿日時:2001年5月5日
■書き手:ノリリン(名前をクリックするとプロフィールの欄に飛びます)

この文章は相撲(すもう)が『すまひ』と呼ばれた頃の実体を探る思考実験である。この文章の中で相撲はいろいろな言葉で表記される。単に相撲と書いたときには、現在の相撲につながる当時の徒手格闘技そのものを指す。『相撲』は日本書紀の中で『相撲』と表記されたものをさす。『相撲』と相撲が同じ物であるかどうかがここで検討される。『すまひ』と書いた場合は、日本書紀の中での『相撲』『?力』の読みとしての『すまひ』を意味する場合と、奈良時代以前の『すまひ』と呼ばれていた何かを意味する場合がある。『?力』の『?』は古字なので皆のPCで表示できているとは限らない。『手偏に角』と書く。

もっとも古い相撲の記録は日本書紀の雄略記である。正確に言えばもっとも文献上ふるい『相撲』の字の登場は日本書紀の雄略記である。
『秋9月に、大工韋那部の真根、石を以て質として、斧を揮りて材を削る。終日削れども誤り手刃を傷らず。・・・・(雄略天皇が)采女を喚し集えて、衣を脱ぎて、タブサメ(褌のこと)して露わなるところにて、相撲とらしむ。ここに真根・・・・』要するに、天皇に『おまえは刃物の扱いがうまいが、間違って刃を痛めることはないのか?』と聞かれた宮大工の真根が『ない』と答えたので、ぎゃふん(死語ではあるが日本書紀の頃にはまだ使われていた)といわせるために、裸にした采女たちに相撲を取らせて気をそらせて失敗させた。
というお話である。
『相撲=そうぼく』である。『相(互いに)撲(なぐる)』という意味だ。言葉の意味からいえば、ボクシングならともかく、相撲が『相撲』と書かれるのは不自然だ。今に至るまで何故相撲が『すもう』と呼ばれるかは誰も確かな事は知らない。相撲が『相撲』と書かれる理由もはっきりとはわからない。中国語で、相撲=sou mokuから転じてkuがとれて『そもー』→『すもう』になったという説があるが、とんでもない。平安時代中期の漢和辞典和名抄ではこの件(くだり)を『すまひとらしむと読む』と書いてある。『すまひ』を経ずして『そもー』から『すもう』になったのなら非常に納得がいくが、日本書紀完成から200年経った時点で、『すまひ』であったものが、元々『そもー』で、後に『すもう』になったと考えるのは不可能だ。
この件は雄略帝を暴虐な天皇に見せるために作り出されたお話で、日本書紀作成時に三国志呉史から剽窃したものであると指摘されている。古伝を採用したのではなく、新しく作り出したお話だ。日本書紀に書いてある話の中では一番新しい部類のものである。相撲に過剰に宗教性を見る者はこれは悪魔のような名工真根を不浄のものであると見た雄略帝がそれを祓う為に相撲の節を催したとみるらしいが、お笑いでテキストの由来を考えない、まずい説である。

日本相撲協会が相撲の起源として採用しているのは日本書紀・垂仁記の野見宿彌と當麻蹶速の闘いだ。野見宿彌と當麻蹶速の話はこうだ。
『7年の秋7月の・・・野見宿彌を喚す。是に、野見宿彌出雲より至れり。則ち當麻蹶速と野見宿彌と?力とらしむ。』
當麻蹶速が強くて威張っている乱暴な人なので、それに対抗するために出雲から野見宿彌が呼ばれる。垂仁天皇の前で御前試合が行われ、手の取り合いから、蹴り合いになり、脊椎への致命的なストンピングで野見宿彌が勝った。その後野見宿彌は3代の天皇に使えて功績があった、というお話だ。日本書紀誕生に極めて近い時期に成立したお話だと思われるが、野見宿彌を始祖と仰ぐ土師氏→菅原氏の中の伝承が一部採用されている可能性もある。この文章ではそんなことは重要ではない。
日本書紀用に作ったfictionであることは同じでも、勇壮さや登場するキャラクターの格からいって、日本相撲協会が雄略記の女相撲の方を相撲の起源と取らずに、こちらを相撲の起源としたのは大いにむべなるかなというところだ。エピソードの重要性が雄略帝の女相撲とは段違いだ。
同じ和名抄は『野見宿彌と?力とらしむ』をやはり『すまいとらしむ』と読ませる。(『?力』の『?』は古字なので皆のPCで表示できているとは限らない。『手偏に角』と書く)和名抄は『すまいとらしむ』というが、?力は素直に読めば、『ちからくらべさしむ』である。または中国古来の格闘技・カクテイも?力と表記されることもある。『野見宿彌と當麻蹶速の闘いが日本の相撲らしくない乱暴な闘いであったのは、中国のカクテイの影響だ』ととんでもないことをいう学者もいるらしいが、勿論誤りである。カクテイは舞楽から派生したエンターティメントなのだが、そんなことを指摘する前に現実とフィクションを混同した言説だとだけいっておこう。日本書紀を書いたのは中国の文物に深い知識を持つ来日大陸人とされる。漢字の使い方を間違えるわけがない。雄略記の女相撲と垂仁記の?力は別の漢字で表記された以上、日本書紀を書いた人のなかでは別のものであったと考えるのが妥当であろう。

相撲の起源の話は二つとも基本的には日本書紀作成時にでっち上げた物語である。帰化大陸人が皇室の意を汲んで皇室の正当性を謳う為に書き上げた日本書紀では、相撲が?力でも大した問題ではない。それどころか、彼らが実際にどんなものをイメージして相撲や?力と書き、読み仮名をふった日本人がどんなイメージで『すまひ』とふりがなを打ったかなどは知るよしもない。ましてや今に残るふりがなの記録は日本書紀成立後200年後のものしかない。想像するしかないのだ。

『すまひ』は、争う・抗う・力の強いものに反抗するという意味の『すまふ』から転じたものだという説がある。しかしこれも説得力は薄い。もう一つ相撲の起源とされる古事記のタケミナカタとタケミカヅチの闘いの件には、『すまひ』も『すまふ』も出てこない。古事記と日本書紀は成立が数年しか違わない。闘いの内容を較べても野見宿彌と當麻蹶速の闘いが『すまひ』と呼ばれるのなら、この闘いが『すまひ』と呼ばれても何の不思議もないが、すまひをとったと書かれていない。ましてや争っているのであるから、『タケミナカタとタケミカヅチはすまった』と書かれても不思議ではないのであるが、勿論そう書かれてはいない。それどころか、沢山の闘いのあった古事記にあって、どの争いも『すまふ』とは書かれてないのである。これはもう古事記・日本書紀成立の頃には『すまふ』にも『すまひ』にも、争うという意味も相撲という意味もなかったと考えるのが普通だろう。さらに『すまふ→すまひ』説に不利なデータとして、『すまひ』の方が『すまふ』よりも資料的に古い言葉だということも上げておく。

『すまひ』という語は『素舞』から来たという説がある。山田女子などが唱えている。ドッコショや鏡や劔を持たずに素手でお払いの舞をするから、すまひ(素舞)とよばれたという説である。『sou-moku→su-mo→suma-hi→すもう』説や『すまふ(あらそう)→すまひ』説よりは傷がない。しかし、これは過剰にアカデミズムに犯されている。どう考えても・誰が考えても、素直に考えたらなにも持たずに舞うから素舞ではなくて、裸で舞うから素舞だろう。もっとも『素手のお祓いの舞』説の人たちも素手だけではなく裸で踊るという要素があることを認めているから、その点は大きな問題でもないが。
しかし、日本史上もっとも有名な裸の舞に『すまひ』という言葉が使われてないのはどうしてだろう?アマノイワトのうずめの舞はまるっきり素裸の舞だが、『すまひ』とはいわれてない。それ以降も以前も、すまひという言葉は古事記には出てこない。勿論偶然かもしれないが、そうでないとすれば、これから考えられるのはそもそも『すまひ』とは、単に素手や裸で舞うような単純なケースを指すような言葉ではなかったということだ。

続日本記によると、奈良時代中盤には『相撲節』が開かれ、『相撲』が『すまひ』と読まれていたことは文献上間違いない。それ以降相撲は『すまひ→すもふ→すもう』と呼ばれ続ける。

雄略記において、雄略帝は名工真根の手元を誤らせるため、女官たちを集めて裸にして、フンドシをつけてきゃあきゃあいわせて、露わなるところ(ステージ)で スマヒをさせた。雄略記の『相撲』は何故『すまひ』と呼ばれたのだろう?この話のどういう点が『すまひ』と呼ばれる理由になったのか?
女官たちが裸だったというだけの理由からか?これは前述の理由で考えづらい。
これを書いた人たちや解説をした人たちの事を考えてみよう。彼らはこれが呉の暗君(名前までは調べてない)の三国志の記事から取ったことは知っている。勿論ハーレムの記事だろうから、お祓いなんかではなくて性的な事も絡んでいる。ただ、はっきり言って裸で踊るだけなどではない。(ヌードダンサーが裸で踊るだけの舞踏家と思っている奴はいないだろ?)こういう事は彼らにとっては常識だった。これを書いた者と読みを振った者の頭の中では、文中の『相撲』がレズプレーまな板ショウを暗示していたことは明らかだ。その記事の『相撲』に『すまひ』と読み仮名をつけたのだ。つまり、『すまひ』とは勿論『裸踊り』のことで、しかも単なる裸踊りではなく、強く性的に刺激的なプレーの事を指していた言葉だと比定が可能だろう。そんな馬鹿なという人もいるかもしれないが、記紀にははきわどい話は多い。イザナミはオメコをやけどして死ぬし、スサノオの狼藉ではアマテラスは陰部を痛める。箸墓の姫は陰部に箸を指して死ぬ。大物主の神の化身とされる白蛇の化けた男を夫としていた箸墓の姫はある日夫の真の姿を見てしまい、怒った神に箸を陰部に指して死ぬと呪いを受・けてその通り死んでしまう。訳のわからない話だが、これは要するにオナニー禁忌の話である。箸を陰部につっこむのは当時の女性のオナニーの仕方であって、オナニーのしすぎを戒めた話を記紀に取り込んだと考えないと意味が通じない。雄略記の真根の話の直前には采女のレイプの話があった。レイプ物AVとただの女子プロレスではまるっきり刺激性に差がありすぎてバランスが悪い。
元々そういう意味であった『すまひ』は、三国志から剽窃された雄略記の文章の中で、暗示する意味の共通性から、『相撲』の読み仮名として振られた、と考えるのに妥当性があることはもう納得してもらえると思う。

しかし、何故『相撲』が『すまひ』と呼ばれたかについて、もっと単純にみんなの心に浮かぶ可能性がある。裸に褌でやる徒手格闘技が当時『すまひ』と呼ばれていたから、『相撲』に『すまひ』とふりがなが打たれたという可能性である。でも、そうは思えないのだ。
面白いことに、奈良時代初期に今でいう相撲を担当する官吏は、『相撲の司』ではなく、『抜出(ぬきで)の司』と呼ばれていた。行われていたものは後の相撲の節と同じとして、日本書紀の書かれた奈良時代の初期には相撲は『抜出または別の名前』で呼ばれていたとおもわれる。前に書いたように、日本書紀の一番新しく作られたエピソードで『相撲(すまひ)』が登場するまで、いかなる格闘・闘いに対しても『相撲(すまひ)』という言葉は用いられていない。やがて奈良時代中期には、『抜出の司』の表記が改められ、『相撲司』が『相撲の節』を担当するようになる。だから日本書紀の書かれた8世紀初頭において裸で褌を絞めてする今の相撲に似た当時の格闘技が、『すまひ』と呼ばれていたと考える必然性は低いのである。

野見宿彌と當麻蹶速の?力は相撲節の起源とされる。これは納得がいかない。これが相撲節の起源なら、何故『相撲節』と書くのだろう?何故『?力節』と書かないのだ?より勇壮でより有名でより重要なエピソードである?力の方は相撲の標準表記とはならなかった。これは200年経った和名抄の時代においては『すまひ』という読みが成立していたが、奈良時代に相撲節が出来た頃には?力は格闘技を指す熟語として認知されておらず、単に『力(ちから)?(くらべ)しむ』と読まれてたことが理由だとしか思えない。 とすればもともと野見宿彌と當麻蹶速の『?力』は『力比べ』で、『すまひ』ではなかったのである。?力が『キまひ』であると認識されたのは、かなり後のはずである。

日本書紀は持統王朝のプロパガンダ文学である。日本書紀が読まれた時代をカバーする続日本紀においてはあまり日本書紀に関してふれられてはいないが、王朝が自己のプロパガンダのために作った物語を読むことを奨励しなかったとは考えられないので、支配層の中では広く読まれたはずだ。
何千年経っても人の本質は変わらないので、エッチな話の件は特に繰り返し読まれたはずだ。大変よく知られたエピソードとなったために、元々抜出(ぬきで)または別の言葉で呼ばれた相撲は、裸で褌をしめるエピソードに使われた言葉であるという点と、もともと何らかの徒手格闘技を示す言葉であるという共通性のために、『相撲』と表記され、『すまひ』と呼ばれるようになった。逆に『?力』は相撲を表す言葉にならなかった。『相撲=すまひ』はまず日本書紀に現れ、それが広く読まれたために本来の意味を越えて既存の相撲を表す言葉として使われるようになったのだ。『すまひ』とは、勿論裸の舞(ヌードダンス)のことで、もともとレズプレーに類するセクシャルディスプレーであったはずである。

しかし、この話が正しかろうが正しくなかろうが、現在の相撲に何の関係もない。安心して相撲を楽しんでください。





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